みんながいつも笑顔でありますように

私と家族と脳腫瘍G4の姉と

2月27日  気持ちをあらためて

2009-02-27 | つぶやき
今日も私にとって忙しい1日だった。
仕事に復帰して2日目、慣れない事も多かったし、緊張もあったしで
8時過ぎに終わった仕事で私の体はカチコチ、肩凝り、腰痛、頭痛もひどかった。
でも仕事をした後に飲むビール、食事というのは格別だな、と久しぶりに味わった。

今日は朝起きたら目が赤くて腫れていた。
昨日、溜まっていたものが噴き出して泣き続けてたから。
そのせいで1日中頭が痛かったのかもしれない。

でもそれでも忙しくて、あっという間に時間が過ぎた。
お昼休みに入ったとき、今頃ファンキーは火葬されているのかな、と思い
涙が出そうになったけど、こらえた。

仕事を今尚していなかったら今日も昨日も一人で泣き続けたんだろうな。
一人で悲嘆的に泣き暮れていたんだろうな。

仕事ってある意味こういう時には悲しみから開放してくれるんだな、
と本当に今回は有り難く感じた。

家に帰ると母から、眠ったようにきれいなファンキーが横たわっている写真が届いた。
そしてきれいに花の中に居る写真も。。
パッカパッカはいていた、靴もはいてた。
母「気持ちを改めて進んで行こうと思う。」と記してあった。

また今日も泣いちゃいました。
明日もまた目が腫れて頭が痛くなるかな。

また明日も頑張ろう。。

姉は木曜日の血液検査も糖尿以外の数値は良好と言う事で安心しました。
ただ、日に日に刻々と変化していく姉の様子に私も母も追いつけないでいるのが現状です。
また改めて。

2009年2月26日

2009-02-26 | つぶやき
今日は夢の中に理ちゃんが出てきた。
あまり内容は覚えてないけど悲しい気持ちだけが残り、
目が覚めると涙を流していたんですね。
今日は理ちゃんが病院の日。
何か心配だから初出勤の前に声を掛けようと朝早く日本へ電話した。
そしたら母が出て
「ファンキーが今日の朝早く逝ったよ。」って言われました。
ビーグル・オス11年と10ヶ月。そんなに年寄りでもないかな。。
5歳の頃からヘルニアで苦しんでいたけれど、それでも頑張ったなぁー、。
理ちゃんが無理矢理散歩に連れて行ってしまってからの最期10日間は歩くことができなくなってしまい、
夜通し鳴きっ放しだった。
それで私は母が心配だった。
眠れない上に姉の看病をしなくちゃいけない。
でも、それを察したのか
ファンキーは自分から息を引き取ったのかな、と思いました。
母もそう言ってました。
とてもやんちゃな子だったけど、最期は孝行したね。
オムツもして歩けなくなっちゃったけど、
最期は早朝5:30に、母の腕の中で逝ったそうです。

生きていると色々な事があるなぁ。

久々の出勤は赤い目で出社、
でもその後は目まぐるしい忙しさに何も考える事ができず帰宅、
それからワッと今涙が出て来ています。
明日、10時にお花に囲まれて荼毘に付されます。
三途の川を渡る時に足が痛くないように愛用の靴を履いて、
ヘルニアだから暖かくしてあげてと獣医さんに言われて
買ったお気に入りの赤い洋服を着て。
でもファンキーのおかげで緊張する事無く仕事場に迎えた。

最期の散歩は理ちゃんと二人きりだったね。
今までありがとう。

迷子

2009-02-25 | 病気の話 
理ちゃんが迷子になりました。
母が用事で30分ばかり家を空けている間に
ヘルニアで弱っている老犬Fちゃんを無理に連れ出してどこかへ行ってしまったらしい。
ヘルニアで散歩は禁止されていたのを忘れちゃったみたいです。
大慌てで母と祖母が外へ探しに行きました。
祖母は家に居たのですが出て行った事に気付かなかったらしく、
また母も普段スイミングに行っている3時間の間も何事もなく留守番してたから
勝手に出て行くことは予想していなかったみたいです。

結局、家のすぐ裏にある大きな駐車場でFちゃんと二人ポツンと立っていたそうです。
そこは家が見える場所なのですが「帰り道が分からなくなっちゃた」と。

それからは玄関に鈴を付けたり
「一人ではでかけない」という紙を玄関に貼って置くなどして対策を立てています。

今まで病院の中、行きなれたデパートの中で元の場所に帰れなくなってしまう事は多々ありましたが、
(母が会計をしている時やトイレ行っている時など、
 ここで待っててねとお願いしても、フラフラどこかへ行っちゃうらしい)
でも家の近所はこれが初めて。
歩いている事自体、元気な証拠だから喜ばしいことだけれど、
事故が怖いから、心配です。

でもどんな気持ちでFちゃんを連れ出したんだろう。誰も居ない間何があったんだろう。
どうやら理ちゃんは
「ヘルニアで散歩が禁止されているFちゃんを外に連れて行ってあげたい」
って思ったらしいです。
周りの人間は心配で見つけるまで大変だったみたいだし
Fちゃん、ちょっと悪化しちゃったのですが、
でも理ちゃんの気持ちを考えると気持ちがちょっとホンワカしました。

とにかく2人に何事もなくて良かったです

日本に帰るまで

2009-02-24 | つぶやき
日本に帰るまで、あと3週間弱。
日本からオーストラリアに戻ってきて3ヶ月目。
仕事に復帰せずここまで来たけれど、ヒョンな事から明後日より復帰することになりました。
何だかとても忙しい様で、取り合えず日本に帰るまで、という好条件。
いつもとは違う日常に気持ちが大分明るくなりました
私も回復して来たのかな?仕事を受け入れる事が出来て!!
今まで家に引きこもりがちだったのが、緊張はしてますが気持ちに躍動感が生まれました。
3ヶ月ぶりの美容院も明日行ってきます。
身だしなみもちょっと放って置いた感じの3ヶ月・・・反省

私はまだまだ姉の病気とどう向き合っていいか分からずに居ます。
あんまりうまく向き合ってません。
「自分の生活」をする事に拒否反応が出てしまってます。
自分も苦しまなくちゃ、みたいな、感情に支配されている?のかな。

でもそんな気持ちのままだけど、
少しずつ少しずつ自分の事も考える余裕?みたいなものが生まれている気がします。
                 
理ちゃんはリハビリをさぼって母に怒られてますガミガミ
 しかし当の理ちゃんは馬耳東風・どこ吹く風さぁ~の勢いで、そ知らぬ振り。
 「フンフンフン」とハミング。随分変わったな~理ちゃん。
 母はプリプリしてましたが、体調は良いという事何よりです。
 ただ体が大きいのでリハビリをしないと、
 筋肉が少なくなって立てなくなっちゃうらしいから頑張れよ~
 体動かす事が嫌いなのは変わりませんな
 
実家の愛犬Fちゃんがかなり持病のヘルニアが悪化し衰弱してご飯も食べれなくなり、
 一晩中吠えたりで、あんまり母が休めていない様子・・・
 ちょっとカリカリしているみたい。今は理ちゃんより母がちょっと心配
 あと3週間だからね!頑張って!
 母ちゃんもどうか無理しませんように・・・
  どうか良い方向へ行きますように・・・ 

姉の症状

2009-02-23 | 病気の話 
姉は手術を無事終えてから
小説は読まないものの漫画を普段のスピードで読み、普通に話していました。
手術前に「もしかしたら言語障害が出るかもしれない」と言われていましたが
全く問題なかったのです。
母は質問しました。
「知能が幼くなる事はあるんですか?」
先生は困った様な顔をしていて
「幼いという表現はあてはまりませんが、以前の様ではなくなるとは思います」
とおっしゃいました。

高次機能障害・・・脳の3つの機能のうち高次機能が脳疾患及び脳外傷により損傷された状態

今の姉の状態を一言で「幼い」と言ったら、やっぱり間違いだと思います。
でも何と表現したらよいのか。
姉に表れている高次機能障害の症状として

・注意障害 = 集中力がない 
・失語 = 言葉を理解・表現できない 
      (時々。ドラマも理解できなくなってきました。)
・記憶障害 = 新しく何かを覚えられない
        (家の近所の散歩でも家に帰れなくなった事があります。
         先生にも迷子に気をつける様、注意を受けています。) 
・判断力の低下 = 自分で何かを決断できない
・遂行機能障害 = 物事を計画して実行することができない
・病識の欠如 = 自身の病気への認識がない

等が挙げられます。
自身の病気への認識がない事は良い事なのか。
「明るく笑顔で毎日を過ごしている」「周りは助かる」
そんな風に私は綴っていましたが・・・・・、

姉は30代後半で仕事もバリバリとやって来ていました。
会社からも頼りにされてました。
離婚はしましたが人並みに恋もして結婚もしました。
そして今度こそ幸せな結婚をして子供が欲しい、と言ってました。
それが上記の様な症状が表れて、自分ひとりでは何も出来なくなりました。
時には粗相もしてしまう事もあるみたいです。

私はそんな姉の症状を聞くにつれ、本当に悔しいです。
本人はもっともっとずっと悔しいだろう、と思います。

母は、実は、今受けている平均的な治療以上の事を望んでいません。
「これ以上苦しい思いをさせていいのか」
って言います。
そして母はちょっと後ろ向き。
母の言っている事、重々分かります。悔しい程分かります。
でも私は「命」を前にして、何かをやらずにはいられない、ただそれだけ。。
母も私の気持ちも持っています。
お互いに半分、半分。

でも私だけは何しろ、母を励まし、母をねぎらい、前向きに笑い飛ばさないと、
そうしないと、この病との闘いが終わってしまいます。

姉は散歩に行って川の鯉に見入って楽しそうにしてますし、
愛犬にご飯を上げる時間だけは忘れずに可愛がっています。
ご飯も「おいしいねぇ。明日はあれが食べたいよ。」と言ったり、
毎日を楽しく生活しています。
様々な障害があっても、だからやっぱり生きてて欲しい、と。

無事に第3クール目のテモダール終了した 
 とメールがありました。

今回も副作用もなく、食欲が衰えることもなく終わったそうです。

2月19日(木) MRI & 第3クール目テモダール

2009-02-20 | 病気の話 
今日はMRIの日。
前々日くらいから私はソワソワしてしまいます。

大丈夫かな?

結果がメールで母よりお昼過ぎにやって来ました。
題名が「とんQ」  (題名が「大丈夫」とかじゃない所がうちの母です)
     
「あ、これで問題なかったんだな」とホッとしました。
なぜか、と言うと「とんQ」は病院近くにあるレストランで
揚げ物大好きな二人は病院後に時々行くのです。。。
(糖尿は とめくじらを立てずに・・・まずは”おめでとう!”

・小康状態を保っているとの事。
・サイバーナイフも今の所必要がないとの事。
・今、タラバ蟹釜飯御膳とエビフライを食べている事。(写真付き)
    
   →理ちゃんのおしゃれウィッグも中々板についてきて
    洋服もかわいいの選んでるじゃない
    しかし、いいなぁ~目の毒だよな~と
    あんまりおいしい物がないオーストラリアで羨ましがる私・・・。

でも本当に文明の利器ですよね。
こうして遠くに居ても今現在の姿を目で見る事ができる。
話がすぐにできる。
そして会う事はないかもしれないけれど、画面上で交流することができる。
励まされたり、いたわりあったり。 
昔の人は大変だったんだろうーな。

第3クール目のテモダールが20日(金)から始まります。
 5日間服用。

第2クール目のテモダールは新年早々1月6日(火)から5日間。
 副作用もなく無事に終わりました。

年始は迎えられないと言われた理ちゃんですが
無事に迎えることが出来て大好きなお雑煮を毎日食べたそうです

本当にこれが長く続くといいのに・・・。
続くと思ってしまいます。

つぶやき

2009-02-19 | つぶやき
そんなこんなで姉は2ヵ月半の入院生活。
当初は2度の宣告を受けて、夫さんのいるオーストラリアへは帰れないな、と思っており
年末年始は覚悟して日本で迎えよう、と話していました。
それが、段々と姉の病状が回復に向かい
「一度帰るなら今しかないのでは」 「これからもっと大変な時が来る」(来ないで欲しいけど・・・。)
母は新婚の私を新しい家庭から引き離してしまっている事にとても心を痛め
「とにかく早く帰りなさい」とそればっかりでした。
そんな事は私も夫さんも全く関係ない、今大変なのは理ちゃん、という思いでしたが、
母親って違うんですね。
という事で、11月26日(木)にこれまた急遽オーストラリアへ戻りました。

バック一つで飛び出してからちょうど2ヶ月目の事。
仕事も放り出して帰国していましたが、(会社も理解してくれていました)
戻った後は私の気持ちが沈むことが多くて職場復帰を今現在でもしておりません。
説明するにもその当時は涙が出てきてしまったり情緒不安定。
あと、これから間もなくしてまた日本へ戻る事になるのかな、とも思っていましたから、
それには私が自由で居た方が何かと便利か、と職場復帰はしませんでした。

仕事に復帰した方がもう少し気持ちの安定が取れていたのかな。
でもその時は、どうにも人の輪の中に入ることが躊躇われてしまったんですね。
オーストラリア=広いというイメージですが、実際、日本人社会は狭く、
あっという間に話が広がっていきます。それが嫌でした。
今思えば・・・少し被害妄想も入っていました、完全に。

母もガンで、夫さんのお母さんもガンで更にうちの姉も・・・で、
中に心無い人は、私の事を
「不幸だね」「何かにとり憑かれてる」と言う人がいまして精神的にやられましたね~。

えー悪霊ってこと??おいおい、勘弁してくれよ~ 
それでなくても大変な現状なのに、不可思議現象を持ち出さないでくれ~
(多分、自分自身は変な事を言っているという感覚もないんでしょうね。)

すごく不安定になりました。
戻ってくる時に
「免税店でタバコを買ってきて安いから」と頼まれたけど、
そんな物を買う気分も余裕もなく、買ってくる事ができなかったら
「それ位どんな状況でも買ってこれるだろう」と怒った人もいました。
 エーちょっと待ってよ・・ おいおい そんな事で怒るなよ~
そんな人っているんですね。もう疎遠になったからいいけど。
今では笑えるけど、その当時は責められて
(それ位買えば良かったのかな)と全く関係ないことで自己嫌悪になったり。

新年早々ちょっとウツっぽくもなってました。
こんなに辛い気持ちは味わったことがない、という位沈みました。
日本から離れてしまったこと、姉や姉を見ている母の事が心配なこと、、
もう本当に自分の事も訳が分からず、
こんな呑気な青い空のオーストラリアに居る自分に腹が立ち、、
何をしていいやら、何もしていない自分に自己嫌悪で、滅茶苦茶でした。
自分を立て直すのが大変でした。

そうそう行ったり来たりも出来ない距離、運賃。
どうしたらいいんでしょう。
だから、今こうして離れていても出来ることを、と思い
色々な事を調べたり、やろうとしているんだと思います。

それからしばらくして
同じような「ウツ」を経験した事がある人に何とはなしに話を聞いてもらったら
症状が改善されて行きました。
「全部やろうとしちゃ駄目だよ。頑張らなくていいんだよ。休むことも必要だよ。」
と言ってました。ありがとう。

今は・・・・大分安定してます。
夫さんと愛犬ビーと信頼できる人とだけ交流しております。
こうして書き記す事で大分私自身落ち着きを取り戻してます。
       
       

あと3週間後に今度は夫さんも一緒に日本へ行きます。
その時は姉と母とみんなで
ディズニーランドにお泊りに行って、温泉も行く計画を立てています
楽しい事いっぱいして、おいしい物食べて脳を活性化させよう!って計画中で
今は私も楽しい気持ちで一杯だし、姉もワクワクしているみたいです。
母にも休んで貰いたいし。
担当医も「楽しんでおいで」と笑顔で「その時も大丈夫でしょう」と言ってくれてます。
そして更にうまく行けば、オーストラリアに母と姉が来る予定になってます
これはまだ分かりませんが!

その後はまた私は長期的に日本に居ることになるのかな。多分。
でも姉の病状が変わった時に、その時に考えます。今は安定しているし!
明日は明日の風が吹くさ!
夫さんも一緒にしばらく日本へ帰ろう、と言ってくれてます。
と言うか、既に「帰る」と意思を固めているみたいなんですが・・・。
大学院を卒業して永住権を取得したばかりだから、夫さんには引き続き夢を継続して
オーストラリアに居て欲しい。
でもそう言ってくれるだけで幸せです。
これからの事はみんなでじっくり話し合って決めていこう。

周りに振り回されず、自分を持って自分の大切な人を守っていきたいと思います。

すみません、今日は何だか愚痴っぽくなりました。
愚痴はこぼさない様にしようと、思っていたんですけど、ちょっと書けてすっきりしました
最後まで読んで下さってありがとうございました。


12月13日(土) 退院の日

2009-02-19 | 初めての入院
命の二度の宣告を受けたにも関わらず、12月13日(土)退院することになりました。
脳の腫れも引いて、その後は順調に治療を続けていたので
「放射線が終了したら、テモダールは自宅で服用を続け、退院しても良し!」
と11月の終わりに言われていたのですが、
でも食欲が落ちてしまったり、水分も思うように摂れない状態の時もあったので
しばらく様子を見るために2週間ほど入院が延びたのでした。
段々と副作用もなくなり、大分暇にしていたみたいですが。

その間に生理ではない不整出血などがあり、「もしや子宮がん?」と担当医に言われ
産婦人科で「子宮がん検診」も行いました。
もし「子宮がん」になってたら、と母と検査結果待ちの2週間の間に話した事もありました。
「もう笑うしかないね、手術して取ってもらおう」と。
もう何が起きても怖くない、淡々としてましたねー・・・・。

しかし、しかしそこまで運命は意地悪ではなく、子宮には何の問題もなかったのでした!
淡々としていたとは言え、やっぱり「問題ない」と言われると嬉しいものです。
良かったよ、本当に。
そしておしゃれウィッグをつけ、通販で頼んだ新しい洋服を着込み晴れて退院
おめでとう
長かったなぁー。
それから病気後初めての外食、と言ってもまだ人込みは慣れないので
病院の8Fにある展望レストランで食事をしたという事です。
ラーメンと半チャーハンを頼み、3分の2くらい食べました。
「おいしい、おいしい」とそれはそれは幸せそうだった様です。
良かった
(おいおい糖尿は大丈夫かい?

これからも大変です 
でも明るく、少しでも長く笑顔でいれますように 


1クール目 テモダール無事終了

2009-02-18 | 初めての入院
テモダールは術後、放射線治療と共に始めました。
22日間服用、放射線は最大の強さで30回。(これ以上は出来ない回数ですよね)
その間、薬のアレルギー反応により服用できなかったり高熱で放射線ができなかったりしましたが
全て終了したのが11月26日(水)の事です。
手術からちょうーど2ヶ月目です。

テモダールの副作用として
「骨髄抑制、吐き気・嘔吐、頭痛、倦怠感、肝機能の低下、脱毛、発疹」
と書いてあります。
ただ比較的副作用の少ない抗がん剤である、とも書いてありますが、
後半は、さすがの理ちゃんもダルくて眠かったり食欲が落ちたりしてました。
外泊も毎週出来ていたのが2週に1度の割合になってました。

無理やり食べ物を口に入れる日が1週間位続いて、3分の1を食べるのがやっと。
その為に点滴をしたりしてましが、血管が大変細く見つけにくい理ちゃんは
とーっても痛そうでした。
30分近く掛けて、あっちやこっちに点滴の針を刺されてた時もあったなー。
「あの上手な看護士さん呼んできてぇー。」 と言う時もあり
絶対病気前はそんな事を言う人じゃなかった!!!静かに耐える人だった!・・・。
 ←これもびっくりしました。病気の影響?
「すみません我がままで」恐縮 
「いいえ、私たちも勉強になりますよ!」
とにっこり笑顔で先輩看護士さんを呼びに言ってくれてましたが・・・。
でも上手に一発でできる看護士さんているんですよね。

あと、多くの患者さんが見舞われるであろう便秘には一番悩まされていました。
大変そうだったなー。 
下剤を貰って飲んだんですが、その下剤の量が多過ぎたらしくて
半日トイレから出て来れなくなってゲッソリしてたっけ。
お見舞いに来てくれた友達も私も本人には申し訳ないけれど笑ってしまった
本人も半泣き笑い状態でトイレでブツブツ言ってました。。
でもあれ以来、ひどい便秘もないみたいです。

そして放射線もしてるし抗がん剤も飲んでるし、
先生の言うとおり髪の毛も眉毛も抜けてしまう、と覚悟してたのですが、
実際、抜けなかった・・・・。
なんでだ??
放射線を集中的に当てた場所は、火傷みたく黒ずんでパラパラと髪が落ちたけれど
本当にその程度で終わりました。
眉毛もボウボウ。整えなくちゃ。

治療前は髪の毛が抜けるのも 「かつらをかぶるから問題ないです」と言い
眉毛が抜けるのも 「マユペンがあるから大丈夫です」と言い
「痛くなくて気持ちが悪くならなければ後は全く問題ない」
と真面目な顔で言っていたのですが、
そんな感じで前向きな気持ちだったから大丈夫だったのかなー。

手術で髪の毛は全て剃ってしまっているから生え揃うのにまだ大分かかりますが
そんな具合で髪の毛は抜けなかったのでした。
医療用のかつらを頼むつもりでいましたが、
今はおしゃれウイッグをつけて帽子を代えたりしながら外出しています


セカンドオピニオン 2

2009-02-17 | 病気の話 
今の担当医は
「うちの病院は”神経膠芽腫”に対して一般的な平均的な治療が受けれる病院です。」
ときっぱりと言いました。そして
「ただ、希望によりまだ症例の少ない治療法や最新の情報がある病院の医師とお話されたい様でしたら
 紹介状をお書き致しますので、前向きに取り組んでください。」
と言いました。

自分たちの病院でやれる事は限られている、と言ったのでした。
率直な先生だなぁ・・・。
でもそうやって先生から言って頂いた事はとても嬉しかったです。

1度セカンドオピニオンを聞きに行っておりますが、
「画像を拝借して診断書、紹介状を書いて頂けますか」
とお願いするのはやっぱり ちょっと気が引けるものです。
信頼してないのではないか、と思われるのではないか、と。。。
でも今回感じた事
「病気を治していこう、治そうとしている患者の力になろう、と本当に本気で思っている先生は
 快く協力してくれるんだな」

お医者さんて、プライドの高い方が多いのかな、とか勝手に私が思っていまして・・・・。
失礼致しました。

NPO法人のHPには
「当然の権利です。話しづらい事もあると思いますが、家族と自分のためです。
 断固として頑張りましょう。」
と力強く書いてあるのには励まされました。

母は毎日姉の世話でもう一杯一杯な様子。
それならば元気な私が聞いてこよう、と紹介状を書いてもらいました。
聞きたい事がたくさんある。
新しい治療法が確立するまで、笑顔でいて欲しい。
その一心です。

3月の中旬に予約を入れて頂き行ってきます。

そんな中、姉は「おお~いいねぇ~すごいねぇ~」と笑顔です
「花も頑張ってくれてるから私も頑張るよっ
 来年は働けるよね
と言ってくれるので、私も頑張れるんだよ、姉ちゃん