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緩和ケアで行こう

へなちょこ緩和ケアナース?!のネガティブ傾向な日記です。

「当たり前」はよくないことがある

2011-05-17 02:37:30 | 日々の「ケア」

 木村さん(仮称)は、肺がんでいろいろな合併症もあり、トイレに行く動作だけでも息苦しさが強くなってきました。
 その息苦しさの程度は、トイレを終えてベッドに戻るときには、汗びっちょりになって、顔色も悪く、息はあえぐような感じで、ぐったりされてしまうほどです。
 
 そんなに苦しいなら、ベッドで尿器を使ってやってもらうと身体的には幾分か楽になるのですが、人というのはこうしたいと思う気持ちと身体的なしんどさに関しては必ずしも一致しないことが多々あります。

 明らかに、誰が見てもしんどそうだ、と感じる時期が、がん患者さんにやってくる時があります。

 そんな時、ご家族はどうしても、患者さんのそばで付き添って、見守られる時間が長くなります。
 

 「病院にいて、患者さんを見ていると自分もしんどくなってしまう。
 だからといって、家でちょっと休もうと思っても、患者さんが今、どうなっているのかと思うと気が気でない。」

 という気持ちを持つご家族が多くいらっしゃいます。


 患者さんがしんどいのだから、家族が付き添うのは当たり前。

 医療者が、そんな考え方を持つのはよくないと思います。


 当たり前。


 その医療者の感覚には、医療者が抱く「当たり前」の思いがあります。
 実際には、医療者の当たり前は目の前のご家族には当てはまらないことがあります。



 どのようなご家族であっても、病院に来て、患者さんを見守ってくれたり、声をかけてくださったりすることは、「ご苦労様」というに値することだと思っています。


 患者さんがどんな状態であろうと、ご家族にも、ご家族の生活があります。
 ご家族の「できるだけ」普通の生活なしにして、患者さんを気遣ったり、見守るという思いやりは、ほんの少しであっても、心の余裕や患者さんへの思いなくしては無理なことではないかと思います。


 前置きが長くなりましたが。


 

 患者さんの付き添いが長くなっているご家族は、看護師としては「気にかけなきゃ」いえ、「気にかけたい」家族さんのランク(???)の最上位の一つであります。


 私は常々、ご家族には、患者さんがどんな状態であろうと、できるだけ、ご家族が普通の生活が営めることは、とても大切なことだと伝えています。 
 患者さんの生活のすべてに自分の生活を合わせてしまう。
 それは一部のご家族には可能なことであっても、ご家族もご家族なりに社会的な生活をしている限りは、患者さんに自分の生活のすべてを注ぐということは非現実的だと思っています。

 だから、
 付き添い続けているご家族がいると、とても気になる。



 患者さんのためにある「家族」かもしれなけど、「家族」である「あなた」の生活、そして、「あなた」は大丈夫ですか?と。

 

 そこんとこ、気にかけるのが看護師の役割!!だと思っています。

 

 さてはて。
 看護師としてのポンは、そう思っているのですが、気にかけ方は、職種によっても違うみたいです。
 *病院では、医師、看護師以外にもたくさんの職種が患者さんのお手伝いをしています。


 次回は、ちょっと、そのことについて書いてみたいと思います。
 
 


 

年齢は関係ない

2011-05-14 17:29:25 | 日々の「ケア」

 がん患者さんの高齢化は進んでいます。
 がんが見つかった時点で、治療はできないといった状態の患者さんも多くいらっしゃいます。

 ポンの病棟でも、80~90歳代の患者さんは多く入院されています。
 
 
 がんによって何に苦しむかは、人それぞれです。
 がんのできる場所、どんな症状がでているか、患者さんの病気の受け止め方、患者さんが病気のことを知らされているかどうか、ご家族がどんな風に患者さんのお手伝いをしているのか、患者さんの性格、年齢、性別などなどによって、違ってきます。


 この世に絶対というものはほとんどないと思いますが、100%ありえる、そして絶対といえるのは、人は必ず死ぬということです。

 人は死ぬとはわかっていても、壮年期の方の死を思うことと、90歳・100歳生きたかたの死を思うこととは違う思いがあるのではないでしょうか。
 
 このところ、90歳代の方にも出会う機会が多いのですが、ご家族から「もう、この年まで生きてこれたのですから、十分ですわ。」という言葉をよく耳にします。

 ご本人も、ご家族も、何年生きてきても「最後は苦しまないようにしてもらいたい」というご希望はもっていらっしゃいます。

 
 けれど、人の苦しみというのは、年齢を問わず、身体的な症状にとどまるものではありません。

 人は必ず、自分の命の限りが見えてきた時点で、心の痛みを感じるものです。
 心の痛みとは、便利な言葉です。けれど、自分の命の限りがみえてきた時期の痛みというのは、心の痛みと説明するにはあまりにも拙いものになってしまいます。
 それが、スピリチュアルペインといわれるものだと思います。


 普段、当たり前にできていたことができなくなるということは、自分そのものを揺るがす痛みになります。



 高齢の患者さんからよく聴かれるのは、
 「人の世話にばかりなって、こんなんなら死んだほうがまし。」
 「下の世話をしてもらうのがつらい。」
 「みんなに迷惑をかけている。」などなど、です。


 さらに、高齢の方になると、がんの告知をされていない方も多くいらっしゃいます。
 そうすると、周りから聴くことと、自分の体の状態にギャップがでてきて、さらにつらさが増します。
 ご家族が、「もう年なんだから…」と捉えることで患者さんのつらさが強くなってしまうこともあります。
 さらに、さらに、高齢の方は、一度がんの告知を受けていても、その説明が記憶に残っていないこともあり、医療者としては悩ましく感じるところです。

 
 90年生きてきたから、100年生きてきたから、死ぬことに悔いはないと思っていらっしゃる方は少ないのではないかと思います。
 認知症があるない、は関係なく、つらいものはつらい…。

 
 がんにかかったことによるつらさというものは、年齢には関係がない、とひしひしと感じる今日この頃です。
  

道を師匠に

2011-05-01 23:31:55 | 日々の「ケア」

 いい年になると、「叱られる」という機会がなくなる気がします。
 特に私は、職場で新人の頃、そしてまだまだ一人前と周囲の人からみてもらえない時代?には、それはそれは、相当なお叱りを受けたものです。

 
 私自身、新人の時代には、決して、出来のいい看護師ではありませんでした。
 たまたま、私の義姉が同じ職場に勤務していたということもあり、なぜか、うちの母親が私の仕事のことを知っていたりして…。
 「あんたー、大丈夫?」なんて声をかけられたときにゃーーー。

 とほほ。
 でした。

 そんな時代は、誰しも経験しているはずですが、経験を積むに従って、いえ。年数を経るに従って、その時の気持ちというのは薄れていくのではないかと思うようになりました。
 経験は、確かに、素晴らしい財産です。
 そこから生まれてくる、教科書には載っていない感性や堪といったものは、その人だからこそ持っているともいえるものもあります。

 
 そこんとこを、大切にしたい…。

 そう思うのですが。


 
 過去に苦労して得たものや、成功体験というものは、必ずしも「今」に役立つとは限らない。

 そう思うことが多々あります。



 こうすればうまくいく。
 これは、こうすればなんとかなる。そういうものだ。


 そんな思い込みは、自分が経験していないことや時代の流れにのった新しいことについていくことを阻むものではないかと思います。


 
 特に、ベテランさんとなると、他人から意見をされるのがとても苦手なように思います。
 決して、その人自身を攻撃しているのではなく、ケアの内容や患者さんにとってどうなのか?といったところから議論したいと思うのですが、ハナッから拗ねてしまって、お話にならないことが多々あります。

 そして、意見をしたものがスケープゴートにされ、インフォーマルな場で、ひそひそと噂話が繰り広げられて…。
 自分の耳に戻ってきたときには、自分が全く言葉にしていないことが言葉にされたなんて言われ…。
 唖然としたことが何回もあります。

 
 どーして。
 患者さんの話はゆっくりと耳を傾けられるのに、同じスタッフ同士には耳を傾けられない?そう思うこともしばしば。

 そこには、感情というものがいつもはびこっていて、自分にとって本当に必要なものを受け取ろうとすることを拒んでいるのだと思います。
 
 
 意見をする方も、言葉を選んだり、タイミングを計ったり、配慮が必要だと思います。
 特に、職責のある者は、言葉というものを慎重に選んだ方がいいのだと思います。


 ただ。




 私が言いたいのは…。


 師匠というのは、「人」ではなくて、「道」だということ。

 自分から学ぶ姿勢、謙虚な姿勢、自分以外の異なった考え方を否定的に捉えてしまうと勿体ないことが多い。


 それに尽きます。
 

不安だけど・・・やるしかない

2011-04-19 02:54:37 | 日々の「ケア」

 帰ってきて、ご飯を食べたら、ばたん・キューで寝てしまって、今を迎えております。

 このところ、とても忙しくて、周りのみんなから、今まで以上に私は「とても忙しい人」になってます。
 そうなると、話しかけにくいという雰囲気を自然と醸し出してしまうことになってしまうから、注意しないといけないなーと思ってます。

 職場のまとめ役・1年生のポンは、今、
 「もし、高校野球の女子マネージャーがドラッガーの『マネジメント』を読んだら」を真剣に読んでます。

 「企業の目的」を医療・看護の目的に置き換え
 「仕事」を日常業務に置き換え、
 「社会」を自分の病院全体と置き換え、
 そして、顧客として考えられる対象を洗い出してみて…。

 実際に、どう考えたらいいのかのシュミレーションをしています。
 
 
 リーダーシップの本も何冊か読みました。
 
 どの本を読んでいてもそうなのですが、マネジメントをすること、リーダーシップを発揮することに必要なことのひとつに、「目標をもつこと」がとても大切なのだと痛感しました。

 ドラッガーはゆうております。

 「マネジャーたるものは、明確な目標を必要とする。目標がなければ混乱する。」と。

 
 今年の自分の目標は定まっています(定まっているつもり)。

 もう4月半ばが来ましたが、もう少し、『顧客』を中心とした目標を練り直してみようと思っています。

 
 ちゃんとやっていけるかな??と不安はいつも、自分の心に充満しておりますが…。
 

 

かつての「ある日」の記録

2011-03-22 01:34:30 | 日々の「ケア」

 今日は、どうか平穏に勤務が終わりますように…。

 日勤(朝から夕方までの勤務)からの申し送りが始まります。日勤も手一杯というくらい忙しくて、それぞれの担当から順序よく申し送りが始まりません。
 私は夕方から消灯あたりの時間までの勤務です。

 外来時間はもうとっくに終わっているけれど、入院患者さんの外来受診の時間が時間外にずれ込むことはよくあることです。
 「あ、患者さんのお迎えを呼ばれた…。」 
 入院患者さんには自分で歩けない患者さんがとても多いです。だから、病棟から外来までの道のりを往復するのって、夜勤帯の人数が少なくなる時にこなすのって、ちょっと大変。

 そろそろ食事の時間。食事の準備を整えつつ、夕方の点滴を配って歩く。それと同時に、糖尿病の患者さんの食前の血糖測定をする。8人分。そしてそれと同時に、自分の担当の患者さんの部屋をのぞく。
 部屋を回りながら、自分ひとりでは食事をできない患者さんをいつものように、ナースステーションにお連れする。患者さんをベッドから車椅子へ移動してもらう。患者さんはまったく動けません。すべて介助。
 ナースコールはその間、鳴り続けています。
 低血糖の影響で認知障害のある患者さんが輸液ポンプ(点滴を落としてくれる器械)がつけてあるのをお構いなしにトイレに行こうとする。消化吸収障害のために、下痢が止まらない患者さんです。トイレに着いたときにはおむつは既に汚れていて…。
 とにかく、トイレで用を足してもらう。
 「ああ、業務はなかなか前に進まないな。」
 食事のために、認知症のある患者さんをナースステーションにお連れする。4名。
 食事を乗せたワゴンが運ばれてきた。
 食事を運ばなくてはならない時間に、ある患者さんの緊急手術が決まった。
 「一人は手術の手続きに取られるから、自分のチームの患者さんは(病棟は2つのチームにわけて患者さんをケアしています。)私一人がやりくりしないといけない…。」

 食事を配るのには少々、時間がかかります。配っている間に食事を終えてしまう患者さんもいます。
 ナースステーションで食事を介助しながら、他の患者さんのところへ…。
 人工呼吸器のついている患者さんの体位変換(体の向きを変える)をしないと…、痰をとってあげないと…。
 食後の薬を配っている間に、食事を終えた患者さんがお膳を下げて欲しいとコールの嵐。
 ナースステーションでは食べ終えた患者さんが「もう帰る!」と立ち上がっている。しっかりと歩けない患者さんが一人で立ち上がって歩こうとすると、転倒してけがをする危険性が高い。だから、一人で歩いて部屋に帰ってもらうわけにはいかない。何とかなだめて居てもらう。
 数人の患者さんの内服のお手伝い、歯磨きのお手伝いをする。
 ナースステーションに帰るたびに患者さんの口に少しずつご飯を運びつつ。その横で「もう帰る」と患者さんが耐え切れず、だだをこねるようになってきた。
 とりあえず、帰って貰う…。
 
 緊急手術の予定が決まり、搬送のお手伝い。患者さんの家族が壁に頭をもたせかけるように、落ち込んでいらっしゃる。
 「大丈夫ですか」
 これくらいしか声をかけれない。またナースステーションに戻って患者さんの口に食事を入れる。
 先ほど部屋に帰って貰った患者さんがトイレに頻繁に通う…。すべて付き添わなくてはならない。お尻が半分みえたままズボンをずらして部屋に向かって歩いている。
 トイレが終わったらボタンを押して呼んでください、とお願いしても、それができない患者さんには何度もこれをお願いすると「わからない!」と怒ってしまわれる。
 とにかく、付いて歩く。

 食事を終えた認知症の患者さんを自室に一人にしておくのはベッドから勝手に降りて危険なのでナースステーションにお連れする。
 「(部屋に)帰らせてくれ!」と患者さんが車椅子でもがきだす。
 「もう少し待ってね、ここでいてもらえないかな??」となだめつつ、食事に1時間はかかる患者さんの口に食事をまた一口運ぶ。
  
 緊急手術の患者さんを手術室に搬送し終えた後、内線電話が鳴る。
 「直入(緊急入院)、お願いします。」

 「なんでこんな大変な時に自分の病棟に緊急を入れるの?他に病棟はなかったの?」ついつい、こころでぼやく。
 すべての患者さんに食事の介助をできていない状況で緊急入院は受け入れられない。15分は待ってもらうことにした。

 勤務を始めて3時間あまり。
 私は悲鳴を上げていました。その後、勤務終了まで、次の勤務者が来るまで何とか持ちこたえなきゃ…、と思いつつ…。
 
 何とか、勤務を終えた後、へとへとでした。

 へとへとなのは、体だけ?
 そうだ、と答えられない自分がいました。

 私だけ?
 私だけ?


 
**************************************************

 かつて、私はこんな勤務をこなしていました。
 そう思うと、今の環境で仕事できること自体が、とてもありがたいことに思えて仕方なくなってきました。

 自分自身や自分が目指すところ、大切にしないといけないことなどなど、振り返ることはたくさんあります。
 
 まだ、時間はある。
 そう言っていていいのだろうか。
 
 そうやって毎日が同じように過ぎ去っていき、結局、以前と変わらない…。
 それじゃ、成長もなければ、結局、面白味すらなくなる気がしてきました。

 何を言いたいのでしょうかね…。
 そろそろ寝ます。
 

看護師だってつらいのさ

2011-01-29 20:59:57 | 日々の「ケア」

 あるグリーフケアのワークショップに参加してきました。
 
 グリーフとは、griefのことで、日本語では「悲嘆」といいます。
 悲嘆とは、大切な人やものを失うことによる感情的な反応のことをいいます。
 
 悲嘆というと、文字通り、嘆き悲しむということをぱっとイメージできますが、悲嘆は、悲しいつらいといった感情的なものだけではありません。
 社会から引きこもったり、思い出のものを持ち歩いたり、決断がしにくくなる、無関心になったり、身体に変調が起きたりと、さまざまな反応が起こります。

 と、いう感じで、このワークショップでは、グリーフと、グリーフケアについてみっちりと学んできました。


 このワークショップの中で、自分たちの悲嘆を振り返る作業がありました。
 お互いの経験を(可能な範囲で)話し合ったり、その気持ちをアートにして表現するといった時間を持ちました。


 参加者の大半は看護師だったのですが、ワークショップで知り合った仲間として、その看護師さんたちの悲嘆をみんな食い入るようにして、時には涙を流しながら話を聴きました。



 ふと思ったのですが、看護師は大切な人を失ったとき、特に、病気で失ったとき、必ず、看護師という職業的な立場から物事を考えていることに気がつきました。
 
 それって、ごく当然のことかもしれませんが、あらためて語りを聴いていると、悲嘆の経験がとても痛々しいことがわかりました。
 
 
 看護師なんだから、しっかりしなくちゃ。
 看護師なのに、自分が不甲斐ない…。

 こんな気持ちを抱え、自分を責めます。

 そして、家族からは看護師だからいろんなことをよく知っているだろうと思われ、ちゃんと悲しみたい場面でも悲しむ時間が持てないくらい、患者の状態をあれこれ尋ねられたり、
 少し冷静になって先を予測して行動していると、「冷たい人」と見られたり。

 
 いくら看護師とはいえ、大切な人を失うかもしれない、失ってしまったという体験はつらいものに違いないのですが、周りの人も余裕がないので、うまくいかないことが多々あるものです。
 
 それから、自分のつらさは、職場では言えないと思っている人も多くいたような気がします。

 
 どんなにつらくても、目の前にいるつらく思っている人をケアすることが自分の役割ですから、いつものように振る舞って、微笑まなくてはなりません。


 自分の職場にも、心を痛めている「であろう」人がいることが、容易に思い浮かびます。
 ワークショップで学んだあと、そのことを考えると、今まで以上に胸が痛むようになりました。
 

 今さらの気づきですが、気がつけたことを心からよかったと思っています。


 グリーフの中にある人をケアする私たちに大切なことのひとつに、自分を知ることと、自分自身をケアすることがあると学びました。


 看護師だって、ケアされないといけないんだ…。
 あまりにも、看護師はケアされてない現状を実感しました。

 それと同時に、ワークショップで、自分たちのつらい体験を話しているうちに、聴いてもらえることで自分がケアされているということにも気がつきました。

 
 この学びをどうやって生かすのか…。
 大きな課題がみつかったワークショップでした。

 

師長の人間力

2010-12-11 22:16:50 | 日々の「ケア」

 年々、経験を増すたびに、一緒に勤務したことのある師長さんとの出会いも自ずと増えていきます。
 最近、この年(内緒ですがー)になって、「自分が師長の立場なら…」と考えることも多くなりました。

 ふと、自分が病棟勤務をしていた頃に出会った師長さんのことを思い出しました。

 今の自分があるのは、すべての師長さんとの出会いのおかげだと思っています。勿論、尊敬できる師長さんから、「うう、どーーよっ、ホントにっ」とぼやきたくなる師長さんまで、さまざまでした。


 私にとってのインパクト大賞に輝いたのは、私が外科病棟で勤務していた時に、手術室(=OP室)からの異動でやってきた師長さんでした。

 愛称は、タコちゃん(愛称すら、仮称ですよん)。
 どうして、タコちゃんかというと…。あまりにも、きょえ~~~っと叫びたくなるくらい、恐い師長さんだったからです。恐い師長さんだからこそ、ちょっと、可愛い名前をつけて、自分たちのなかで愛着を深めようとすることってないですか???


 タコちゃんは、自分の病棟に異動する前から、すごい噂と評判が流れていました。院内でも恐い・厳しいで、看護師だけでなく、医師からも恐れられていた存在でしたから。
 
 いざ、一緒に勤務を始めると、緊張の毎日でした。
 その師長さん、「OP室の番犬」と呼ばれていて(いやー、実は、これ、私が命名したようなもの☆)、OP室のカウンターに座って、筋の通らないOPの予約やスタッフのやり取りがあると、相手構わず、がうがうっと噛み付くように鉈を振り回していました(ああ、ひどい言い回し)。
 今考えると、これは、タコちゃんなりの「スタッフ間の調整」でありました。


 実際に一緒に働いてみると、尊敬できる厳しさを兼ね備えた師長さんでした。
 
 何がすごいって、観察力と調整力、そして、リーダーシップ。
 

 スタッフが新しいことを始めようとして、話し合いをするのですが、まとまらなくて、もたもたしていると、「始めたらいいじゃないの。やりながら、だめならまた、やり直せばいい。」といって、ぴしゃっと決断をしておりました。
 
 そして、見てないようで、スタッフひとりひとりの行動を観察してる…。
 病棟の2チームが同時に申し送りを始めると、両チームの真ん中に座っているのに、同時に両方の情報を聞いて、処理してる…。

 若かったポンとしてましては、目を丸くするばかり。



 さらに、さらには、スタッフの弁当のおかずまでもちゃんとみてて、

 「あんた、今日は野菜が少ないじゃないのっ」とまで指摘。

 これはやりすぎ…。
 


 
 今思えば、スタッフに対する師長としての人間力は発揮されていたと思いますが、患者さんに対して、というと…。あまり印象がありません。
 そりゃ、そうでしょうね。OP室のキャリアが長い師長さんですから。OP室では病棟ほど、患者さんとお話をする機会はありませんから。

 そのあたりは、主任とスタッフがカバーしていたと思います。



 師長には、どの師長さんも、師長なりの個性があって、どの個性でもよい悪いだけで評価できるものではないと思います。
 師長のキャラクターによって、病棟の雰囲気は変わるものだと思いますが、その師長さんなりの病棟を築けていければ、それはそれでよいのだなと思います。

 
 過去を振り返ると、私のキャラクターでは、もし、私が師長になるのなら、タコちゃんのようにぴしっとした人間力を発揮することは一生かかっても無理だろうな、と思います。
 
 スペシャリストとして、病棟師長ではないけれど、さまざまなプロジェクト、ワーキンググループで「長」と呼ばれる役割を果たすようになっている自分としましては、「師長たるもの」を意識せざるを得なくなってきてます。
 
 師長たるもの、というよりも、リーダーシップというものを意識しているのだと思います。

 リーダーシップも人間力の1つ。



 自分の人間力をあれこれと考える機会が多い毎日です。
 

語れるもの

2010-10-10 23:22:50 | 日々の「ケア」

 「緩和ケアについて語ってください。」

 もしも、もしも、そう頼まれたら、そんな機会が与えられたら…、私は何を、伝えようとするだろうか…。


 あらためて、そんなことがあるとすると…。
 私、気がつきました、私って、そんなに『語れるもの』を持っていないんじゃないの?と。

 もちろん、語るばかりで、実際に患者さんやご家族にケアを提供できないとしたら、本末転倒です。
 けれど、自分の立場上、やはり、「自分の思う緩和ケア」といいましょうか、「私はここんところが大切だと思う」「私はここんとこにこだわりを持ってます」というのは持っていたほうがいいのではないかと思います。
 それらを伝える場を与えてもらえる可能性があるからこそ、持っていたほうがいいのだと思えます。


 
 うーん。
 うーん。


 『語れるもの』を考えてみますと、ないわけではないのですが…。
 私の場合、うまく言葉にできるかどうか、なのかもしれません。
 
 いえいえ。「うまく」なんて形容詞は余分なのかもしれませんね。下手に理論武装するよりも、自分の言葉で、誰にでもわかる言葉で、語れる方がいいに違いありません。


 普段は、ぺらぺらとしゃべっているのにねー。
 
 そんなこんなを、この場を借りてでも、少しずつ書けるといいのだけど。
 

看護学校へ

2010-09-26 15:57:13 | 日々の「ケア」

 今年は、新たに自分の教育という役割を果たすことの1つとして、看護学校での講義が加わりました。
 
 これまで、教育といえば…。
 院内・外での現任教育や認定看護師さんへの教育などに携わったことがありますが、正直…、看護学校の学生さんに対して講義させていただくのは、今回が初めてなのであります。

 限られた時間の中で、がん看護全般をお伝えしないといけないとあって…。
 この依頼を引き受けた時には、心の底では「むちゃなーーー」と思っていました。
 依頼を引き受けてきた看護部長を恨みたくなるくらい…。

 
 ぼそぼそ…。
 「全・7コマぁ?そんな重労働、引き受けてくんなよーーーっ。」
 これ、本音。

 しかし、引き受けてきたからには、ちゃんとやり遂げないと…。
 ある意味?ある程度?生真面目なポンとしましては、どきどきしながらも、スライドをせっせせっせと作成いたしました。


 この内容で伝わるかなー。
 テキストには載っていなくても、これは大切だなぁ…。
 スライドの枚数が多くなるけど、しゃーないか…。


 などなど考えながら作ったスライド。
 講義の目標・目的のところでも伝えているのですが、私の講義資料は座学で参考にするだけでなく、今後、実習や看護師の免許を取って臨床に出た後にも、困った時などに振り返ってもらうための一助とさせていただくことにしました。
 だから、ボリューム満点。


 あれこれ考えて作った資料をもとに、いざ、講義…。



 しかし。
 看護学校の教室に出向いてみると…。
 
 パワーポイントを使用するパソコンの準備ができていない。
 (事前に使用することは勿論、伝えてあるぅ)
 日直さんなる学生さんがいて、講師に、「起立、例っ」と号令をかけることになっているらしいが、声がかからない。
 ようやく、声がかかったと思ったら、立っている人と、座っている人、ばらばら。
 お辞儀もする人、しない人…。ぉぉぉ…。

 そして、天井から麻酔薬が降っているかのように、学生さん、寝る人は、寝る、寝る…。

 
 がつがつしていた以前の自分なら、多分。
 「なんじゃーいっ、講義してる者に失礼じゃないかーーーっ」と気分を悪くしていたと思いますが…。
 今は違っていて。


 ・・・・・ポンよぉ、よく、思い出してみな、あんたの学生時代。寝てたことだって、よくあったろーにぃ・・・・・。
 ・・・・・編入時代ですら、教授にわざわざ、肩を叩いて起こされただろうがぁ・・・・・。
 ・・・・・思い出すなぁ、あのときの自分・・・・・。


 ということで、それも、あり、あり、目が覚めた時には、ちゃんと、聞いてね。
 ここんとこは、起きてしっかり聞いてね、って具合で講義を進めています。

 
 自分の講義の方法も考えないと、と反省材料もたくさん。
 看護学校の講義だからこそ、これから看護師を目指そうとしている学生さんだからこそ、手は抜きたくありません。
 がん看護に興味を持ってもらいたいから。


 来年があるのかどうかはわかりません…。
 学生さんや、自分以外の講師との出会い、昼休みに学校周辺をうろうろと散歩すること、考えてみたら、講義以外に楽しいこともあるしなー。

 また、来週もがばろっと。
 

 

ケアを文字にすること

2010-09-11 22:54:54 | 日々の「ケア」

 自分の気持ちや考え、行動などを文字にして誰かに伝えるって、予想以上に難しく感じる時があります。
 
 看護記録には、自分たちが患者さんをどうアセスメントし、ケアの計画を立て、実施し、どう評価したのか、つまり一連の看護過程の展開を記載しなくてはなりません。
 
 看護師なら、一度は…、いえ、よく、「カルテに記録する」ことに困ることがあると思います。

 実際に、よく起こっていることは、カルテを読んでも、患者さんの状態がわからないということです。
 患者さんのケアの介入の依頼を頂いた時には、カルテで情報収集するだけでなく、必ず、スタッフにもお話を聞くようにしています。
 
 そこで、いつも思うのは…。
 


 どーして、そこまで情報を持っているならー、カルテに書いてほしいー。
 


 看護師の多くは、患者さんのことを尋ねると、患者さんのその人となりやケアについて、それぞれの思いを持っています。
 そんなこんなは、カンファレンスの場やちょっとした時間(休憩の時、夜勤の時など)に会話の中にとても多く聞かれることです。
 看護師によっては、たくさんの思いを持っているにもかかわらず、カンファレンスの場ですら、意見をいわない人もいます。


 ああ。残念。


 それが、戦場のように忙しい一般病棟なら記載の時間が足りないというのは理解できることですが、緩和ケア病棟でそうならば、残念極まりないことです。

 カルテ記載には、「事実を書くこと、憶測は記載しない」というルールがありますが、緩和ケア病棟でそれを完全に実行していると、患者さんのありのままの姿がすっかり消えてしまいます。
 
 『この場面で、患者さんの言葉を聴き、自分はこう思い、こう言葉を返した。そして、自分はこう、言葉を返した。そしたら、患者さんの反応はこうだった…。』

 そんな記録があってこそ、その場面に居合わせなかったスタッフも文脈を感じ取り、共有し、次のケアにつなげることができるのではないかと思います。

 

 やはり、情報はカルテに記載することが一番だと思います。
 申し送りは当てになりません。ある内容を申し送り続けていると、3日後には、伝えた人の意図とは全く違う内容が申し送られていた、ということが多々あります。
 そして、ある人は情報を持っているけれど、ある人は持っていないというのでは継続したケアを行うことは困難です。

 
 私はスタッフとケアについてお話をするのですが、大切な内容については、
 「今、話した内容をカルテにがんばって書いてくれない?」とスタッフにお願いしています。

 患者さんのケアで大切な場面は、スタッフ全員で共有しないとっ。


 それでも、人と人のかかわりを、その人の感じ取ったことすべてを、カルテに記載することには限界があります。
 あまり長い記録になると読む側も時間がかかって大変ですから…。


 うちの緩和ケア病棟だけの傾向かもしれませんが、ながーい記録ほど、記録の中での患者さんは生き生きと、ありありと表現されていて、その記録は、大切なものになっているような気がします。

 

話せない、伝えられない

2010-08-07 12:07:45 | 日々の「ケア」

 緩和ケアでは、がん患者さんの痛みを「全人的苦痛」として捉えてケアしていきましょうといわれています。
 
 体の痛み、心の痛み、社会的な痛み、霊的な痛み…。
 どれもすべて、患者さんの思いに耳を傾けることからケアが始まります。

 「疼痛マネジメント」では、まず、患者さんの訴えを信じることから始まり、痛みは目に見えないものなので、「どこが痛むのですか?」「どんな風に痛みますか?」「どの程度痛みますか?」などといったことを患者さんから教えてもらうことが大切です。


 このところ、ふと思うのが、こうした緩和ケアの内容…、ケアの全般にわたることですが、それらはすべて、きちんとお話ができて、声が出せて、自分の思いを表現できる人に対するケアが基本的に語られています。
 それは当然のことですね。
 



 現場ではしばしば、病気の進行や手術の後遺症、体力の低下などから、自分の思いを表現する手段が限られている方に出会います。

 気管切開をした上に、手も足も動かない人。
 聴力、視力を同時に失った人。
 筆談をしてきたけれど、体力がなくなって、書く力がなくなった人。
 
 最近、立て続けにそんな患者さんと出会って、思ったことがあります。
 
 その人たちは、「あきらめ」ということを身につけてしまっているのではないか、ということです。

 
 普通に表現できる人のように、ああでもない、こうでもない、ああなんだ、こうなんだとお話ができればいいのですが、普通に話が出来る人でさえ、自分の思いの詳細を自分以外の人に伝えるのが難しいときがあります。
 そんな「微妙な」思いを、言葉だけでなく、その人の普段の態度などをみて、私たちは必死に理解しようと試みます。
 
 しかし、自分の思いを表現する手段が限られてくると、そんな微妙な思いがなかなか伝わらないだけでなく、そこにあるものを取ってもらいたい、ということすら、きちんと伝わらない時があります。
 簡単なことすら、伝えてもらうことに時間がかかるようになってきます。

 思うように伝わらないために、何度も訴えようとしたり、いらいらいしたりすることを多々経験されているのだと思います。

 おおまかなところは伝えることができても、細かいところは妥協せざるを得ない状況も多々経験されているのではないかと思います。


 終末期になってくると、自分の思いを表現する手段が限られることに加え、体力が低下してきます。苦痛が強くなり、死が近づいていることを感じはじめる頃なのに、「伝わらない」状況はさらに拍車がかかります。


 ですから、自分の思いを表現する手段が限られている方が訴えないのは、訴えがないというのではなく、訴えられない、訴えるのをあきらめているのではないかと思えてくるのです。

 だからといって、「自分の気持ち」などといった複雑な内容を、いつもしつこいくらいに尋ねるのはその人にとって心地いいものではないでしょうし、自ずと理解することにも限界もでてきます。

 



 私が自分の思いを表現する手段が限られている方のケアをさせていただいて学んだことは、
・患者さんの状況やその日の体調をみて、ゆっくりと会話ができる時間がもてるように定期的に話しかけてみること。
・患者さんが『長い文章』『長いやりとり』で話してくれているときには、その機会を絶対に逃さないこと。
 です。

 それでも、十分ではありません。
 患者さんはもどかしさを感じているとは思いますが、その思いを受け取ることすらできない自分にももどかしさを感じます。
 


 その患者さんとのやりとりを重ねていくと、その人なりの表現方法や表現のパターンなど、そばでいるからこそなんとかわかることもあります。
 ご家族から学ぶこともたくさんあります。

 自分の思いを表現する手段が限られている方へのケアには、察知することが普段のケア以上に求められていると思います。
 

調整役

2010-07-11 22:32:31 | 日々の「ケア」

 このところ、ノルマの海におぼれそうな毎日を送っております。
 
 自分自身が忙しくて、ついつい、忙しいなんてぼやいている時には、自分以外のスタッフも業務に忙殺されそうになっているものです。

 そんな時には、自ずと愚痴や不満がどーっと押し寄せてくるものだと思います。

 愚痴や不満が、ちょっとした会話の話題くらいに済まされるならいいのですが、病棟の雰囲気をも変化させてしまうものになってしまっているのなら、これは「なんとかしないといけない」と危機感を感じなくてはなりません。


 自分がひとりのスタッフとして勤務していた時と、スペシャリストとして勤務している今では、そんな状況に対する自分の見方が変わってきています。


 私見ですが、かつての仲間(先輩、後輩を含め管理職以外のスタッフ)とは、病院から何かしらの権限を与えられると、ちょっとした心的な距離感ができると思います。
 それは、役職を与えられたものの宿命のようなものだと思います。


 今、私も、かつては、夜勤の時などにスタッフと一緒に愚痴や不満をぶちまけていたのですが、今はとても慎重になっています。
 自分の意見が、「ポンさんが、ああ言ってた」という形でスタッフの耳に入るからです。
 それは、スペシャリストとして勤務していると避けられないことだと思います。

 だからこそ、自分の意見をいう時は、最近、とても慎重になりました。
 
 それは、自分が意見することによって、自分の意見を聞いた人たちにどれほどの影響を与えるかということを考えた末のことです。

 だからといって、いつも白か、黒か、どっちかわからないことばかりを言っていたのでは、聞き手であるスタッフからの信頼は得られないと思ってもいます。
 場当たり的な意見は愚痴でしかありません。

 自分に関していうと、場当たり的な意見ばかりを伝えるわけにはいきません。
 

 どうしてかというと、自分にはそうした愚痴や不満が生まれる原因を見極め、組織の「ぎくぎゃく」を少しでもほぐす役割があるから…。


 今となっては、自分のスタッフ時代の仕事の姿勢を考え直さざるを得ません。
 ほんま、よく愚痴ってたなーと。

 私にも自分の偏ったフィルターを通してのものの見方があります。
 そこを省みることがなかったのがかつての自分でしたが、今は、自分の偏ったフィルターを自覚した上で、できるだけ、組織に起こっている問題を、どう調整したらいいのかを考えている毎日です。

 
 
 調整役は、できるだけ中立的な立場をとらないといけないとはわかってはいますが、事によっては、お恥ずかしながら、自分の感情を抑えられない時がときどき、あります。
 私も人間やしーーーー。
   
 …と自分に言い聞かせておりますが…。



 とてもストレスフルな事態であればあるほど、職場とは離れた場所で、思いっきり愚痴る時間を持つことが必要ね!とつくづく感じております。

 ちなみに、昨日は、夜中まで、大切なわが友に、あーでもない、こーでもないというお話に付き合ってもらいました。

 組織の問題の調整をしていると、自分を省みるためのとてもいい機会だと実感しています。どこからともなく、自分の批判が耳に届きますが、これは真摯に受け止めるべきだと思っています。
 正直にいうと、あっちこっちで必死に関係者の話を聞いたり、奔走しているつもりなのに、自分への批判が耳に入ると、どーーーーーーーっと疲れるものです、はい。

 
 目の前に起こっていることは、とてもストレスフルですが、ここに自分からかかわることは、今はとても苦しいけれど、いつかは自分の「成長」の糧になると信じることが、今の自分の支えです。
 何より、スタッフのみんなが、気持ちよく勤務できることを願って…。

 

 
 

ミッション

2010-06-06 18:41:30 | 日々の「ケア」

 もう6月になっちゃいましたね。
 随分と更新をさぼってしまいまいました。

 今、院内や緩和ケア病棟での教育計画を練り直しています。
 何で今?って…。
 病院全体があることを理由に、とても忙しすぎて、それどころじゃなかった…というのもあって…。
 アウトラインはできあがっていたのですが、今から、具体的なプランを充実させていっているところです。


 さて。
 今まで何度と無く、勉強会をポンが開催してきました。できるだけ、実践につながるような勉強会を心がけていたのですが、知識偏重になってしまっていたのではないかと反省しております。

 さあ、今年の勉強会はどうしよう…

 知識とか、実践とか、それも大切だけど、もっと、もっと大切なことを振返らないといけないんじゃないか…。自分も、スタッフ全員が…。
 そう思い続けながら、ずっとケアにあたっていました。

 病棟は時間が経つにつれて、スタッフも入れ替わります。
 急性期の病院からやってきたスタッフは、緩和ケア病棟の業務に困惑しています。
 おそらく、一般の病棟とは違う、「緩和らしさ」って何?という壁にぶつかっているのだと思います。

 自分は、できるだけ、役割モデルになれるよう、努力しているつもりですが、困惑しているスタッフが、「緩和らしさ」を何となくでも掴むことができたというところには至っていないと思います。

 さあ、どうしよう…。
 


 どうしようかと悩んでいる時、ふと、あるワークショップでの柏木哲夫氏の言葉を思い出しました。

 緩和ケア病棟に大切な3つの「M]。

 1)mission
 2)momey
 3)management

 そうそう。「mission」!
 柏木先生は言いました。

 「みなさん、ミッション、つまり、緩和ケア病棟の使命について話し合ったことがありますか?ないなら、正式に話し合ってみてください。」


 おーっ。これだー。


 今度の勉強会は、これ。
 そういえば、うちの緩和ケア病棟、ミッションについてなんて、話し合ったことがなかった。実は、実は、とても大切なことなのに。

 思いついた翌日、すぐに、緩和ケア医と病棟師長に提案しました。
 お二方とも、「それはええなー。」と言ってくれました。
 なんたって、ポンとともに、柏木先生のコメントを聞いていたのですから、ぴんと来るものがあったのでしょう。


 勉強会の具体案はというと

 ミッションとか、使命とか、そんな堅い言葉を使うと、スタッフひとりひとりの素敵な思いがありのままにでてこなくなりそうなので、

 「私が緩和ケアで大切だと思うこと」
 
 くらいにしようかな。

 まずは、ブレインストーミングからスタートです。

 
 今から、わくわくします。 
 おそらく、「お~~~~っ」と感心する内容がでてくるに違いないっ。うちのスタッフが考えるんですから
 勿論、私も考えます、参加します

 必ず、この勉強会を成功させます。
 そして、今は曖昧だけど、緩和ケアに大切なものをできるだけ可視化して、みんなで心に刻んでいければと思います。
 

食べることの意味

2010-01-17 19:20:51 | 日々の「ケア」

食べるということは、人間にとって、本当に大切なことなんだな、とつくづく思えた機会に、最近、たまたまですが、よく遭遇します。

よくよく、考えてみると、人って何かにつけて、食べてる。
ある人は、お腹いっぱいになることを求めて。
ある人は、美味しいものを求めて。
ある人は、こだわりを求めて。
ある人は、思い出作りを求めて。

患者さんの多くは、「食べることができる」ことでご自分の体調のバロメーターにされることが多いと思います。
ただ、単に「いつもの量」を食べることができるだけでなく、美味しいかどうかも、体調を確認するためには大切なことのようです。

それは、患者さんじゃなくても、私たちも同じことだと思います。


終末期のがん患者さんは、さまざまな理由から食べる喜びを味わうことができなくなります。
ここ数ヶ月でお会いした患者さんで、食べることを望みつつも、うまく食べられなかった原因としては、消化管のがんや婦人科系のがんで、手術の既往があり、がん性腹膜炎になっているというものが多かったように思います。


食べたい…。


そのご希望にはできるだけ沿うようにケアさせていただくのですが、何の症状もなく、食べていただくということは不可能に近い技です。
多くの患者さんは腸閉塞を繰り返し、痛みや吐き気と闘いながら食べ続けておられました。


どうして、
どうして、
そんなにまでして食べるの?


腸閉塞なら、絶食にして腸管を安静にするほうが、体は楽じゃないのか…。
痛みがでるとわかっていて、どうして、絶食期間中に隠れてでも食べちゃうのか…。


それは、
食べることが生きている証だから、です。


患者さんの話をうかがったり、食べることへの行動をみていると、どれほど、その方とって、食べることが大切なのかということを知らされます。

本来なら、腸閉塞になれば、絶食にして点滴で様子を見ることが治療としては本筋なのでしょう。
でも、私たち専門家がよいと思う治療は、患者さんにとっては必ずしもよいものとは限りません。

うまく食べることができない病状にあっても、食べることを選んだ患者さんにはできるだけ食べていただくようにさせていただいています。
腸閉塞を繰り返すと、患者さんもご家族もつらいですが、一緒に過ごさせてもらっている私たちもとてもつらいものです。


患者さんも必死に「食べること」「食べたいと願うこと」で生きていらっしゃる。


食べたい、でも、つらい症状はいやだ…。


両方を叶えることはとても難しいのですが、病状を考えながら、なんとか、いい方法はないのか、なんとか折り合いをつけることはできないのか…。
私たち医療者で考えただけでは、そのときの最善の答えを見出すことはできません。

患者さんと常に対話しながら…、ああでもない…、こうでもない…と頭を抱えながら、日々、奮闘しています。

患者さんが、せめて少しでも食べることのできる状態なら、できるだけ、患者さんの食べたいものを食べてもらいたい。ほんの少しであっても、食べることの喜びを体で、気持ちで味わってもらいたい…。
そう願わんばかりです。


生きることは、食べること。

そういいきっても、過言ではないかもしれません。


年末年始

2009-12-30 18:57:00 | 日々の「ケア」

 仕事納めは過ぎました。
 
 私たちの仕事がひと段落ついたかというと、そうではありません。

 病院は、年末年始だからといって、患者さんがいなくなるわけじゃありませんからねぇ…。

 病院で過ごすことに、少しずつ慣れてきた患者さんは、例え年末年始に家に帰れなくても、何とか病院で「過ごし方」をどうするのかを考えることができます。
 ご家族が集まり、病室で過ごしたいとご希望があれば、何とか、お手伝いをしたいと思います。

 緩和ケア病棟では、各々の患者さんの過ごし方を考えることができる環境にあるのと思います。



 一般病棟では…、どうでしょうか。

 暮れが迫っているこの時期に、家族が入院しなければならないということは、そのご家族全体が、年末年始を心穏やかに過ごせないということになります。
 病状が安定していないと、患者さんだけでなく、ご家族の心身の安定を得ることもとても難しくなります。
 
 そんな状況の中…


 そんな状況とは、
 世の中全般が年末年始という一年のうちで特別な時期であること。
 病院は機能しているけど、お休みの体制に入っているので、担当医が常に院内にいるとは限らないこと。
 自分自身が何とか休みをやりくりして、お正月なので…、実家に帰ろうとしていること…。

 こんな状況の中。

 
 自分が担当している患者さんの様子を、ある程度お休みの状況を見越して、「万が一」に備えて、患者さんが抱えている問題に対処する術を考えなくてはなりません。
 
 勿論、院内には日・当直医なるものが毎日勤務してくれていますが、緩和ケアのことが「さっぱりわからない」医師が担当であれば、患者さんの変化に対応できる処置を施すことができない可能性もあります。
 これは、とても残念なことですが、現状です。


 実はー。
 私は、大晦日は夜勤です

 2交替ですから~、明けは元旦です。

 実はー。
 元旦の明けが終われば、実家に帰ろうとしてます

 
 だからー。

 明けの、元旦に、患者さんを一通りパトロールしまして、何とか、仕事始めにつなげれるようにしたいと思っています。
 
 まずは、自分の夜勤をしっかりとこなすことが大切、あるよね

 とにかく、どの患者さんもご家族も、平穏な『年越し』『年始』を迎えられることを願ってやみません。