音楽を聴いていて、「不自由」を感じたことなんてない。
私は、好きな音楽を自由に選んで、自分が良いと思ったものを自由に聴いている。時にはそれを人に「○○がカッコ良いよ~!」とか言ってみたりもする。
そう思っていた。
しかし、「浜崎あゆみ」を良いなと思ったときに、私はそれを人に言うことに抵抗を感じ、どうしてこの音楽を良いと思うのかの理由を求めた。自分が信じていた音楽、いや、自分が信じていたロックとは相反する“向こう側の世界”に飲み込まれていってしまうような気がした。
自分が良いと思ったものを良いと言えない。心では惹かれているのに頭がそれを理解できない。それを認めたがらない。
私は初めて、音楽を聴いて「不自由」を感じた。
そうして、自分の心がいかに「不自由」であったかに気付いた。
私が信じたはずの音楽。私が信じていると疑いもしなかったロック。それは蓋を開けてみれば、ぜんぶ人が作り上げたものだった。あれもこれもそれもすべて、誰かが語った言葉、誰かが用意した定義、誰かが掲げたテーマ、誰かが描いたロックだった。現に私は、自分が良いと思ったものさえ良いと言えずに、そのことについて語るべき言葉も見つけられないでいるじゃないか。
自分の手と足で見つけたロックなら、そんなことにはならない。
自分が良いと思ったものを良いと言えなくて、何がロックだ! 何が自由だ!
私は、おそらく初めて、自分が信じたロックというものを、つまりは、自分自身を、疑った。
「サンボマスターや銀杏ボーイズが日本ロック界の一番新しい力だということに異論はないし、自分も良いと思うしグッとくる。けれど、心の奥底にある俺の肝まで響いてくるかと思えば、うーん、そうではない」というようなことを書いている人がいた。その人はその理由を色々と考えているのだけれど、人から「ナンシー関さん亡き後の表現だからじゃないですか」と言われハッとしたという。
なんとなく、なんとなくだけれど、分かるような気がする。別にそれは、「ナンシー関」でなくても良い。サンボマスターも銀杏ボーイズも、ここで私が言いたいこととは関係ない(後に、この人は銀杏ボーイズを認める文章を書いていたし)。文章はそのあと、「自分への疑い」という言葉をキーワードに書かれていた。
私は「浜崎あゆみ」に出会って、初めて自分のロック観(なんて言うとカッコつけ過ぎかも知れないけど)みたいなものを疑った。いや、疑わざるを得なくなった。つまり、浜崎あゆみは私のロック観(再びスミマセン)を壊し、私は浜崎あゆみに負けたのだ。
そしてそれは、私が初めて、音楽に、ロックに、負けた瞬間だと思っている。
そのとき、自分が持っていた「ロック」も「自由」も、まったく役に立たなかったよ。
そういった色々が、ガタガタと崩れ落ちていくような、ベリベリと剥がれ落ちていくような、そういう感覚。
でも、不思議だね、そのとき、「自由」を感じたんだ。
あゆと出会って、自分の心の中の不自由さに気付き、自由に一歩近付いた。
そんな風に思っている。
ロックを捨てて、ロックを手に入れる。
自分を疑って、自分を信じる。
負けなければ、知ることのできないことがあるんだと思う。
あゆと出会えて、本当に良かったと思うよ。
私は、好きな音楽を自由に選んで、自分が良いと思ったものを自由に聴いている。時にはそれを人に「○○がカッコ良いよ~!」とか言ってみたりもする。
そう思っていた。
しかし、「浜崎あゆみ」を良いなと思ったときに、私はそれを人に言うことに抵抗を感じ、どうしてこの音楽を良いと思うのかの理由を求めた。自分が信じていた音楽、いや、自分が信じていたロックとは相反する“向こう側の世界”に飲み込まれていってしまうような気がした。
自分が良いと思ったものを良いと言えない。心では惹かれているのに頭がそれを理解できない。それを認めたがらない。
私は初めて、音楽を聴いて「不自由」を感じた。
そうして、自分の心がいかに「不自由」であったかに気付いた。
私が信じたはずの音楽。私が信じていると疑いもしなかったロック。それは蓋を開けてみれば、ぜんぶ人が作り上げたものだった。あれもこれもそれもすべて、誰かが語った言葉、誰かが用意した定義、誰かが掲げたテーマ、誰かが描いたロックだった。現に私は、自分が良いと思ったものさえ良いと言えずに、そのことについて語るべき言葉も見つけられないでいるじゃないか。
自分の手と足で見つけたロックなら、そんなことにはならない。
自分が良いと思ったものを良いと言えなくて、何がロックだ! 何が自由だ!
私は、おそらく初めて、自分が信じたロックというものを、つまりは、自分自身を、疑った。
「サンボマスターや銀杏ボーイズが日本ロック界の一番新しい力だということに異論はないし、自分も良いと思うしグッとくる。けれど、心の奥底にある俺の肝まで響いてくるかと思えば、うーん、そうではない」というようなことを書いている人がいた。その人はその理由を色々と考えているのだけれど、人から「ナンシー関さん亡き後の表現だからじゃないですか」と言われハッとしたという。
なんとなく、なんとなくだけれど、分かるような気がする。別にそれは、「ナンシー関」でなくても良い。サンボマスターも銀杏ボーイズも、ここで私が言いたいこととは関係ない(後に、この人は銀杏ボーイズを認める文章を書いていたし)。文章はそのあと、「自分への疑い」という言葉をキーワードに書かれていた。
私は「浜崎あゆみ」に出会って、初めて自分のロック観(なんて言うとカッコつけ過ぎかも知れないけど)みたいなものを疑った。いや、疑わざるを得なくなった。つまり、浜崎あゆみは私のロック観(再びスミマセン)を壊し、私は浜崎あゆみに負けたのだ。
そしてそれは、私が初めて、音楽に、ロックに、負けた瞬間だと思っている。
そのとき、自分が持っていた「ロック」も「自由」も、まったく役に立たなかったよ。
そういった色々が、ガタガタと崩れ落ちていくような、ベリベリと剥がれ落ちていくような、そういう感覚。
でも、不思議だね、そのとき、「自由」を感じたんだ。
あゆと出会って、自分の心の中の不自由さに気付き、自由に一歩近付いた。
そんな風に思っている。
ロックを捨てて、ロックを手に入れる。
自分を疑って、自分を信じる。
負けなければ、知ることのできないことがあるんだと思う。
あゆと出会えて、本当に良かったと思うよ。
あつしも金曜なんだ!
今回チケットは、友達が先行で取っててくれてたよ~。
楽しみだねぇ。
会えるかな!
俺も金曜の方にいくっす。
楽しみだなぁ~。
チケットとるのが大変だったわ・・・
レイジもいっちゃうでげす。
熱くいきましょう。はい。
またくるね~
お久しぶり! コメントありがとう! 嬉しいなぁ。
いや、ほんと、熱くなっちゃってるよ。
暑苦しくならないように、常温を心がけながら、でも熱く、いきますっ!
何がロックかなんて分からないんだけどさ、自分が大切だと思ったものは守り抜きたいっていうか、貫き通したいよね!
じゃなきゃ、熱くなんかなれないし、楽しくなんかないもんね。
ビョーク行くよ~。武道館の金曜の方。
ではでは、また遊びに来てね~。
いや~相変わらず熱いね~っ!!
常温のようにみえて実は熱いっ。
何を信じても自分の信じたものがロックなら
それがロックなんだよね。
あ、今度のビョークは行くのかい?