スウィートボックスのライヴ、『"ADDICTED" to JAPAN Tour』に行ってきた。
その記事が何故、「AYU」カテゴリなのかというと……。
今年元旦に発売された浜崎あゆみの『(miss)understood』には、スウィートボックスのGEOからの提供曲が「6曲」収録されていた。インタビューによると、選曲もアレンジも詞もほぼ見えてる状態だったアルバムを、一旦全部ゼロに戻してまで、あゆが入れようとした6曲ってことになる。
その後、3月に発売されたスウィートボックスの『アディクテッド』に、あゆに提供した曲のセルフカヴァーが収録された。何曲入ってるのかな?と思って曲目を見てみると、「Pride」「Bold & Delicious」「Ladies Night」の3曲のようだ。と思ったら、タイトルは違っているが、他にも2曲あった。「Every Step」と「Beautiful Girl」だ(あゆの方のタイトルは、「rainy day」と「Beautiful Day」)。ということは、セルフカヴァーが「5曲」も収録されてるってことだ(ただ、スウィートボックスがあゆの曲を聴いてからレコーディングしたかは不明)。なんだかなぁとも思ったが、こうなった以上、とにかく聴いてみたい! いや、これは、あゆファンならば、聴かねばならない作品だろう! だって、普段は気付きにくいあゆの才能に気付けるかも知れないんだからね…。(『アディクテッド』については、あゆも公式コメントを出しています)
そういうわけで、スウィートボックスの『アディクテッド』を聴き、ライヴにも足を運んだのですが、いやあ、CDだけでなく、ライヴまで体験できるとは! もちろん私は、あゆのライヴでも「GEO提供曲」を体験済みだからね。これは、今まで見えてこなかったあゆの魅力に触れられる最高のチャンスじゃないですか!
というわけで、私が書くことは、結局、「AYUカテゴリな内容」になってしまうのです。ごめんなさい。ただ単に私が、スウィートボックスについて語れるだけの言葉と見識を持っていないってだけなのです。
******
セルフカヴァーが収録されると聞いたとき、私は正直、ちょびっと凹んでしまった。あゆがせっかく新境地を見せたのに、ここで本人にやられちゃあ、敵わないよ、しかも相手外人だし、と、そんなことを考える自分が何よりも嫌なくせに、誰よりも私自身がそう思っていた。でも、心のどこかでは、良くも悪くもこれで真価が問われると、ドキドキしていた。ま、とにかく、聴いてみないことには何も始まらない。
そして、『アディクテッド』に収録されているセルフカヴァーの5曲を聴いた。
そして、この日のライヴでも、「Beautiful Girl」を除く、4曲を聴くことができた。
もちろんこれは、好みがあるだろうし、好き嫌いは聴いた人それぞれが決めることだ。だから、これから書くことは、あくまでも私個人の意見でしかない。でも、そんなことを言ったら、音楽について書かれた文章なんて、全部そうでしょう? けれど、だからこそ、なるべく、出来るだけ、そういった個人の好みとは関係ないところで書けたらなぁと思っている。出来てるかどうかはともかく、そう思っている。
というわけで、これだけは言えると思ったことがある。
「あゆの方がイッちゃってる」
スウィートボックスも確かに良いのだけれど、何か足りない。何年後かに思い出すとしたら、あゆの方だろうなと思う。心に残るのは、あゆの方だと。
それが何故なのかを、私は知りたいんだと思った。そして、そんなことを考えている自分に驚いた。だって、こんなことを考えてみたのは、初めての経験だったから。だから、漠然と思った。
「浜崎あゆみは本質を暴いていくアーティストなんだ」
そう思ったら、今まで抱いていた色々な謎がスッと解けていくような気がした。
スウィートボックスよりあゆの方が、何故良いのか、良いと感じるのか。それを突き詰めていったら、日本語のロック(J-POPでも歌謡曲でも何でも良いけど)に出来ることは何なのか?とか、そういうことにぶち当たってしまった。そんなことをこんなにバカみたいに真剣に考えさせられたアーティストは、私にとって、おそらく、「あゆ」が初めてだよ。それは、日本語ロックの本質に向き合うことに他ならないじゃないか。だから、あゆは本質を暴いていくアーティストなのかもなぁって思ったんだ。あゆを聴いてると、日本語ロックとは何なのか?って、そういうことに向き合わざるを得なくなるんだよ。そんな、考えなくても済むのなら、考えなくても良いような、しかし、それを考えなければ日本語ロックに未来はないとも言えるような、そういうことをさ。まぁでも、それも最近になって、なのかなぁ。あゆは、遅咲きのアーティストなのかも知れない。
話を元に戻そう。
具体的には、どんな風にあゆの方が良いと思ったかというと……。
まず、パッと聴いただけでも違いが分かるのは、「Bold & Delicious」「Pride」「Ladies Night」の3曲。「Bold & Delicious」は、音の隙間の取り方といい、歌の間の取り方といい、コーラスの付け方といい、もう一言で言ってしまうと、あゆの方がファンキーなのだ。「Pride」は、曲の荘厳さや重厚さ、迫力において、あゆの方が勝っている(その分、あゆの方が重いが)。「Ladies Night」は、コミカルかつ狂気を感じさせるビートの打ち込み方、ナレーションのようなラップからキャッチーなコーラスへと展開していくときの強引さからくるグルーヴ、電話の音での終わり方など、すべてが圧倒的。
また、これら3曲に比べて、そんなに違いがないように思える「Every Step/rainy day」「Beautiful Girl/Beautiful Day」でも、「Every Step」には、最後にフワッと音が消える瞬間、それがない。「rainy day」では、それがあることによって、曲の描く世界がグッと広がると同時に奥深さが増している。「Beautiful Girl/Beautiful Day」も、どちらがソウルフルかと聞かれれば、あゆの方だと言わざるを得ない気がする。
ここで、ふと気が付いた。
あゆがやっていることは、その曲のルーツや根源にあるものを掘り下げることではないかと。「Bold & Delicious」では、よりファンキーに。「Ladies Night」では、80年代を感じさせるビートとそれに絡むラップ~コーラスを強調。「Pride」では、その曲が持っているクラシック的というかオペラ的というか、そういう要素を掘り当てているといった感じだ。「rainy day」では、潤いや情緒を感じさせるリズムの刻み方やサウンドの繊細な構成から、エレクトロニカ等の影響が感じられる。「Beautiful Day」では、シンプルでありながら、よりソウルフルに聴かせている。
つまり、人から提供された曲でありながら、その当人よりも、そのルーツや根源にあるものを掘り下げてしまっているという印象なのだ。これが本当だとしたら、物凄いことなのではないだろうか。少なくとも私は、これに気付いたとき、胸が震えてしまった。
そして、それだけではない。あゆの楽曲には、スウィートボックスの楽曲にはない、ある種、「破壊的」なところが感じられる。解体して再構築しているというか。だから、その曲のルーツを感じさせながらも、どこか歪(いびつ)でもある。つまり、人からの提供曲でありながら、それを土台にして何かを付け加えるのではなく、それを解体して、そのルーツや根源を探り当てながら、尚且つ、そこに何かを付け加えて、再び構築していく。そういうことが行われているような気がするのだ。
そういうことなら、あゆ側の編曲者がすごかっただけじゃないの?という見方もできる。しかし、あゆは、自分で曲も作るし、編曲だってやる人なんである(『MY STORY』で、初の自作インストを披露、そこで初めて編曲にも挑戦している)。現場では、ヴォーカルスタイル、フェイクやコーラスのアレンジを次々と繰り出し、プロデューサー的役割をこなしているらしいし、そんな人が、音に対して人任せでいられるわけがない。いや、仮に、人任せであったとしても、あゆの求心力がなければ、こんなサウンドは作れなかったはずだ。それは、聴いてみれば分かる。それに、今回は長くなってしまうので書けなかったが、スウィートボックスを聴いて、あゆの「日本語(歌詞)の乗せ方」に感服してしまった。特に「Bold & Delicious」「Ladies Night」なんて、よくもまぁこんなことが出来たなというか、どうしてこんなことが出来たのかと不思議に思ってしまったくらいだ。補足するわけではないけれど、以前にも引用させてもらった、CMJKのこんな言葉が、あゆの「音楽家」ぶりを言い表していると思う。「彼女はちゃんと自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い。ものすごいアイディアマンでもあるからね」
さて、『(miss)understood』で私が感じたのは、まだまだほんのちょっと顔を出しただけに過ぎないかも知れないけれど、「ブラック・ミュージックへの接近」だった。それが、今までにない深みをもたらしているように思えた。
近田春夫は、4thシングル『For My Dear...』(98/10/07)の時点で既にそれを見抜いていたかのように思える。収録されていたアコースティック・ヴァージョンについて、こんな風に書いていたのだ。
「ちょっとロバータ・フラック風な生ピアノとエレピの実に黒いアコースティックだった。このミックスの方が、彼女の魅力がよく見えるような気がする」
今回、スウィートボックスのライヴに行けて、本当に良かったと思う。
その記事が何故、「AYU」カテゴリなのかというと……。
今年元旦に発売された浜崎あゆみの『(miss)understood』には、スウィートボックスのGEOからの提供曲が「6曲」収録されていた。インタビューによると、選曲もアレンジも詞もほぼ見えてる状態だったアルバムを、一旦全部ゼロに戻してまで、あゆが入れようとした6曲ってことになる。
その後、3月に発売されたスウィートボックスの『アディクテッド』に、あゆに提供した曲のセルフカヴァーが収録された。何曲入ってるのかな?と思って曲目を見てみると、「Pride」「Bold & Delicious」「Ladies Night」の3曲のようだ。と思ったら、タイトルは違っているが、他にも2曲あった。「Every Step」と「Beautiful Girl」だ(あゆの方のタイトルは、「rainy day」と「Beautiful Day」)。ということは、セルフカヴァーが「5曲」も収録されてるってことだ(ただ、スウィートボックスがあゆの曲を聴いてからレコーディングしたかは不明)。なんだかなぁとも思ったが、こうなった以上、とにかく聴いてみたい! いや、これは、あゆファンならば、聴かねばならない作品だろう! だって、普段は気付きにくいあゆの才能に気付けるかも知れないんだからね…。(『アディクテッド』については、あゆも公式コメントを出しています)
そういうわけで、スウィートボックスの『アディクテッド』を聴き、ライヴにも足を運んだのですが、いやあ、CDだけでなく、ライヴまで体験できるとは! もちろん私は、あゆのライヴでも「GEO提供曲」を体験済みだからね。これは、今まで見えてこなかったあゆの魅力に触れられる最高のチャンスじゃないですか!
というわけで、私が書くことは、結局、「AYUカテゴリな内容」になってしまうのです。ごめんなさい。ただ単に私が、スウィートボックスについて語れるだけの言葉と見識を持っていないってだけなのです。
******
セルフカヴァーが収録されると聞いたとき、私は正直、ちょびっと凹んでしまった。あゆがせっかく新境地を見せたのに、ここで本人にやられちゃあ、敵わないよ、しかも相手外人だし、と、そんなことを考える自分が何よりも嫌なくせに、誰よりも私自身がそう思っていた。でも、心のどこかでは、良くも悪くもこれで真価が問われると、ドキドキしていた。ま、とにかく、聴いてみないことには何も始まらない。
そして、『アディクテッド』に収録されているセルフカヴァーの5曲を聴いた。
そして、この日のライヴでも、「Beautiful Girl」を除く、4曲を聴くことができた。
もちろんこれは、好みがあるだろうし、好き嫌いは聴いた人それぞれが決めることだ。だから、これから書くことは、あくまでも私個人の意見でしかない。でも、そんなことを言ったら、音楽について書かれた文章なんて、全部そうでしょう? けれど、だからこそ、なるべく、出来るだけ、そういった個人の好みとは関係ないところで書けたらなぁと思っている。出来てるかどうかはともかく、そう思っている。
というわけで、これだけは言えると思ったことがある。
「あゆの方がイッちゃってる」
スウィートボックスも確かに良いのだけれど、何か足りない。何年後かに思い出すとしたら、あゆの方だろうなと思う。心に残るのは、あゆの方だと。
それが何故なのかを、私は知りたいんだと思った。そして、そんなことを考えている自分に驚いた。だって、こんなことを考えてみたのは、初めての経験だったから。だから、漠然と思った。
「浜崎あゆみは本質を暴いていくアーティストなんだ」
そう思ったら、今まで抱いていた色々な謎がスッと解けていくような気がした。
スウィートボックスよりあゆの方が、何故良いのか、良いと感じるのか。それを突き詰めていったら、日本語のロック(J-POPでも歌謡曲でも何でも良いけど)に出来ることは何なのか?とか、そういうことにぶち当たってしまった。そんなことをこんなにバカみたいに真剣に考えさせられたアーティストは、私にとって、おそらく、「あゆ」が初めてだよ。それは、日本語ロックの本質に向き合うことに他ならないじゃないか。だから、あゆは本質を暴いていくアーティストなのかもなぁって思ったんだ。あゆを聴いてると、日本語ロックとは何なのか?って、そういうことに向き合わざるを得なくなるんだよ。そんな、考えなくても済むのなら、考えなくても良いような、しかし、それを考えなければ日本語ロックに未来はないとも言えるような、そういうことをさ。まぁでも、それも最近になって、なのかなぁ。あゆは、遅咲きのアーティストなのかも知れない。
話を元に戻そう。
具体的には、どんな風にあゆの方が良いと思ったかというと……。
まず、パッと聴いただけでも違いが分かるのは、「Bold & Delicious」「Pride」「Ladies Night」の3曲。「Bold & Delicious」は、音の隙間の取り方といい、歌の間の取り方といい、コーラスの付け方といい、もう一言で言ってしまうと、あゆの方がファンキーなのだ。「Pride」は、曲の荘厳さや重厚さ、迫力において、あゆの方が勝っている(その分、あゆの方が重いが)。「Ladies Night」は、コミカルかつ狂気を感じさせるビートの打ち込み方、ナレーションのようなラップからキャッチーなコーラスへと展開していくときの強引さからくるグルーヴ、電話の音での終わり方など、すべてが圧倒的。
また、これら3曲に比べて、そんなに違いがないように思える「Every Step/rainy day」「Beautiful Girl/Beautiful Day」でも、「Every Step」には、最後にフワッと音が消える瞬間、それがない。「rainy day」では、それがあることによって、曲の描く世界がグッと広がると同時に奥深さが増している。「Beautiful Girl/Beautiful Day」も、どちらがソウルフルかと聞かれれば、あゆの方だと言わざるを得ない気がする。
ここで、ふと気が付いた。
あゆがやっていることは、その曲のルーツや根源にあるものを掘り下げることではないかと。「Bold & Delicious」では、よりファンキーに。「Ladies Night」では、80年代を感じさせるビートとそれに絡むラップ~コーラスを強調。「Pride」では、その曲が持っているクラシック的というかオペラ的というか、そういう要素を掘り当てているといった感じだ。「rainy day」では、潤いや情緒を感じさせるリズムの刻み方やサウンドの繊細な構成から、エレクトロニカ等の影響が感じられる。「Beautiful Day」では、シンプルでありながら、よりソウルフルに聴かせている。
つまり、人から提供された曲でありながら、その当人よりも、そのルーツや根源にあるものを掘り下げてしまっているという印象なのだ。これが本当だとしたら、物凄いことなのではないだろうか。少なくとも私は、これに気付いたとき、胸が震えてしまった。
そして、それだけではない。あゆの楽曲には、スウィートボックスの楽曲にはない、ある種、「破壊的」なところが感じられる。解体して再構築しているというか。だから、その曲のルーツを感じさせながらも、どこか歪(いびつ)でもある。つまり、人からの提供曲でありながら、それを土台にして何かを付け加えるのではなく、それを解体して、そのルーツや根源を探り当てながら、尚且つ、そこに何かを付け加えて、再び構築していく。そういうことが行われているような気がするのだ。
そういうことなら、あゆ側の編曲者がすごかっただけじゃないの?という見方もできる。しかし、あゆは、自分で曲も作るし、編曲だってやる人なんである(『MY STORY』で、初の自作インストを披露、そこで初めて編曲にも挑戦している)。現場では、ヴォーカルスタイル、フェイクやコーラスのアレンジを次々と繰り出し、プロデューサー的役割をこなしているらしいし、そんな人が、音に対して人任せでいられるわけがない。いや、仮に、人任せであったとしても、あゆの求心力がなければ、こんなサウンドは作れなかったはずだ。それは、聴いてみれば分かる。それに、今回は長くなってしまうので書けなかったが、スウィートボックスを聴いて、あゆの「日本語(歌詞)の乗せ方」に感服してしまった。特に「Bold & Delicious」「Ladies Night」なんて、よくもまぁこんなことが出来たなというか、どうしてこんなことが出来たのかと不思議に思ってしまったくらいだ。補足するわけではないけれど、以前にも引用させてもらった、CMJKのこんな言葉が、あゆの「音楽家」ぶりを言い表していると思う。「彼女はちゃんと自分自身で着地点が見えてるし、なによりミュージシャン対ミュージシャンの話ができるから一緒に仕事してても楽しいし面白い。ものすごいアイディアマンでもあるからね」
さて、『(miss)understood』で私が感じたのは、まだまだほんのちょっと顔を出しただけに過ぎないかも知れないけれど、「ブラック・ミュージックへの接近」だった。それが、今までにない深みをもたらしているように思えた。
近田春夫は、4thシングル『For My Dear...』(98/10/07)の時点で既にそれを見抜いていたかのように思える。収録されていたアコースティック・ヴァージョンについて、こんな風に書いていたのだ。
「ちょっとロバータ・フラック風な生ピアノとエレピの実に黒いアコースティックだった。このミックスの方が、彼女の魅力がよく見えるような気がする」
今回、スウィートボックスのライヴに行けて、本当に良かったと思う。