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sky is blue

言わなければよかったのに日記

Musical Baton

2005-06-25 13:40:38 | 音楽コラム
funkalove様より、こんなバトン(質問)を受け取りました。

Q1:今コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量は?

WAVファイルとかMP3ファイルとかのことだよね。PCで音楽を聴くということをしない&MP3プレーヤーとか持っていないので、正確にはよく分からないんだけど、「1.4GB」くらいかな。オリジナルCDを作るときにCDから抽出したり、無料の音楽ファイルをダウンロードしたりして、それぐらいになったみたい。でも、ほとんど聴かず。

Q2:今聞いている曲は?

クーラ・シェイカー 「シャワー・ユア・ラヴ」

Q4の5曲に惜しくも漏れて、それで聴きたくなって。

Q3:最後に買ったCDは?

ルー・リード 『ディファレント・タイムズ~ルー・リード70'sコレクション』
デペッシュ・モード 『ヴァイオレーター』

中古で安くゲット!!

Q4:よく聞く、または特別な思い入れのある5曲は?

ただ漠然と選ぶのは難しいので、エピソード・ネタって言えば良いのかな、曲的にと言うよりも、自分にとって、何らかのキッカケであったり、その曲にまつわる何らかのエピソードがあって、それが強く印象に残っている。そしてまた、何十年後かであっても、そのときの「何か」は覚えていたい――そんな曲を選んでみました。だから、音楽的と言うより、個人的な話になっちゃいます。

L⇔R 「REMEMBER」
音楽にハマっていくキッカケを与えてくれたL⇔R(「ラック・オヴ・リーズン」でちょっと触れてます)。だから、彼らの曲なら何でも良かったんだけど、これは、私が初めてコンサートに行った、その1曲目に演奏された曲ですから。

ザ・ブルートーンズ 「スライト・リターン」
私にとっては、この曲こそが「ブリットポップ」への入口だったのだと思います。初めてのライヴハウス体験も彼ら。自分にとって、いつまでも<I'm coming home>な曲でありますように。

椎名林檎 「同じ夜」
歌詞の最初の一行を読んでぶったまげたものです。これ(というか彼女の存在)を機に、洋楽中心だった私も、積極的に邦楽を聴くようになり、ひいては、音楽の聴き方や音楽との関わり合い方も、変わってったような気がします。自分にとって音楽というものが、ますます抜き差しならないものに(笑)。私にとって、いつも<根源に尋ねる行為>を思い出させてくれる、そんな1曲になってくれることを願ってやみません。

エレファントカシマシ 「so many people」
もうね、エレカシなら、どの曲を選んだって構わないのです。言い方を変えると、選べない!ということなんです。では、何故にこの曲かと言いますと、それは、忘れもしない、2001年7月の野音ライヴでのことです。そのときの私は、仕事のこと、いや、もうすべてが、極限状態って感じになっていて、心身ともに相当キてたのです。もう、生きてんだか死んでんだか、みたいな(笑)。いざってときは死ねば良いんだ…なんて罰当たりなことを、半ば本気で考えていながらも、死ぬパワーなんてあるわけない、みたいな。スミマセン、こんな話(苦笑)。本当にヤバかったら、ライヴになんて行けませんもんねぇ。この日も、寸前まで仕事してて、行くか行かないか迷ってたんです。休日出勤だったので、行ける状況ではあったのですが、自分にとって行った方が良いのか行かない方が良いのか自分で判断つかなくなってて。そもそも、そんなこと考えてしまうこと自体、そして、そんなことも判断つかなくなってること自体、オカシイんですけど。友達に訊いてましたもん。「私、行った方が良い? 行かない方が良い?」って(笑)。知るか!っちゅう話ですよね。巻き込んでしまった方達、その節は本当にお騒がせしました。っと、前置きが長くなってしまいました。

この曲には、こんな部分があるんです。

矛盾するようだが 激烈なる変化を
求めるあまり そうさ 死んでしまう人がいる
(無駄死にさ やめた方がいい)


で、この部分でね、ミヤジが、<死んでしまう人がいる>って歌ったあとに、<無駄死にさ~>ってところは歌わずに、いきなり、「ダメ! ダメ! ダメ! ダメーーー!」って突然発狂したかのように、ダダをこねるかのように、叫びだしたんですよ。叫んできたんですよ。私に向かって!(ゴメンなさい、今だけ言わせて) 吃驚しました。震えました。心臓を鷲づかみにされるって、こういうことを言うのかも知れないって、今になって思います。きっと、そのとき、死んでしまいたい…なんて思っていた(もちろん、そんな力ないんだけど)、消えかけていた私の生命力が甦ったんです。ミヤジに生命(いのち)をもらったんです(大げさでゴメンなさい、今だけ言わせて)。このライヴの後、すぐに、私は会社を辞めることになりました。逃げるようにだったけれど、今にして思えば、生きるための選択、だったんだと思うし、そう思いたい。

大げさかも知れないけど、このときのことは、一生忘れたくないって思います。

浜崎あゆみ 「Voyage」
まさか、自分があゆを好きになって、ライヴにまで行って、こういう場面であゆの曲を選ぶことになろうとは! 思いもしてなかったです。数年前の私が今、激怒してますよ。な~に、今の私が数年前の私を、大笑いしてやります。たぶん、あのとき、この曲を歌うあゆを見たあのとき、すべてが始まった、そんな気がする、だから、これ。詳しくは「マイ・ストーリーは突然に」参照。

あゆの音楽は偉くない。あゆを聴くことは偉くない。きっと、あゆは私に、原点を取り戻させてくれたのです。その音楽が世間的に高く評価されてる・されてないとか、売れ線・マニアックとか、そんなことで音楽を好きになったり嫌いになったりするのではない。私は、その音楽が評価されてる・されてないからとか、その音楽が売れている・売れていないからとか、そんな理由で、音楽を好きに(嫌いに)なるわけじゃなかった。その音楽やアーティストが周りにどう思われてるかは、関係ないわけではないけど、決してそこがスタート地点ではなかった。だからこそ、この先、あゆの音楽やあゆを聴くことが、偉くなろうが偉くなくなろうが、変わらないものが、そこ(自分の中)にはあるのだろうし、そうでありたい。

もうちょっと時間が経ってみないと分からないけど、あゆは、他にも色々なことを私に教えてくれた気がするなぁ。上記のようなことを考えてしまうのは、他でもない自分自身にそういう邪念(?)や偏見があるからなんだよね。誰かや何かと比べたりさぁ。そういうすべての原因は自分自身の中にあったりするんだよなぁ。あと、大物を好きでいる大変さとか(笑)。言っとくけど、ビッグネームを好きでいることって、売れないアーティストを好きでいることより、ずっとずっと大変なことなんじゃないだろうかと思う(活動の継続が危ぶまれるのは困るけど)。

――というわけで5曲選んでみましたが、皆さん、「つまんねー!」と思ったことでしょう(笑)。だって、このブログを読んでくれてる皆さんからしたら、ちっともいつもと変わらない、意外性のない答えだろうから。つまり、いつもよく出てくるアーティストの名ばかり並んでいると。そりゃ、いろいろ、他にも候補はあったよ(ビートルズ、ポール関連を選べなかったのが悔しい!)。でもさ、やっぱ、よく出てくるアーティストの曲になるってのはこれ、当然の成り行きだし、仕様がないよね。ただ、これは、今の私のモードの曲ばかり選んでいるということであって、過去のはあまり掘り返されていないってことなのか。それとも、まだまだそんなに過去(歴史)を刻んでいないのか。もしくは、そんな決定的な曲ってのに、未だ出会っていないのか。また何年後かに選んでみたらどうなるのかってのも、面白いかも知れないね。いずれにせよ、これからも、音楽とともに色んな思い出を刻んでいけたらなと思います(ゴールドディスク大賞のときのあゆのコメントみたいだな…笑)。

Q5:次にバトンを渡す5人は?

このブログは、一応、知人にのみ公開ってことになっているので(検索等でたどり着いた方は歓迎しますが)、特にバトンは渡しません(トラックバックしません)。ごめんなさい。ですが、これを読んで興味を持ってくれた方、答えてみたいなって思ってくれた方がいましたら、自分のブログだったり、この記事へのコメントだったりで答えてくれたりしたら、私はとっても嬉しいのです。やってみると、結構楽しいよ♪


あなたと私は違うし同じ

2004-12-12 19:09:13 | 音楽コラム
「みんな違う(孤独)ということが同じ(共通)わけだから、共有は孤独から生まれるのだろう」

私は、「PUSHIM @Zepp Tokyo」でこんなことを書いていた。これについてもうちょっと書いてみようかな。

要は、「人は一人一人違う。そして、一人一人違うということがみんな同じ」って言いたかったんだと思う。一人一人違うから、人はやっぱり孤独なのかなと考えていたら、そっか!それ(孤独)が共通点なんだ!と。で、それが共通点ならば、共有ってのは孤独から生まれるものなのかも知れないなぁ~なんて思ったんだ。

例えば、エレカシにしろシロップにしろ椎名林檎にしろ、超個人的な歌に過ぎないかも知れないじゃない。なのに、それに共感する人がいる。それとは対照的に、共感を前提としたもの、かつ、個人が見当たらないもの……例えば、明らかに20代の若者を対象としているような曲で、かつ、作り手の個人も特に見当たらないような曲とか、それはそれで良いのかも知れないけど、例えばそれを50代60代の人が聴いたら疎外感を感じるんだろうな~とか。それが悪いとは言わないけど、私はなんか淋しいなぁって思っちゃうんだよね。すべての人を対象にしろと言っているわけじゃない。そうじゃなくて、なんて言ったらいいのかな……。

例えば、突き詰めていけば「20代の若者」だって一括りにすることはできないと思うの。一人一人違うのだから。

「100匹の迷える子羊を救うために、法律や秩序というものが必要なんだ。それでも救えない1匹のために必要なのが芸術なんだ」

こんな言葉があるらしい。そう、たくさんの人がより良くより豊かに生きていくために法律とか社会とかがある。法律は、ある特定の誰かのためにあるものではなくて、みんなのためになくてはならない。個人的ではなく、一般的でなくてはならない。でも、音楽は法律じゃない。一般的でなくて良い。私達は、法律の中では「20代の若者」とか「ガラスの10代」とかそういう風に扱われるけど、本当はそんな人、誰もいない。「20代の若者」なんて人、どこにもいないでしょ。音楽の中では、「20代の若者」とか「ガラスの10代」とかにならなくったって良いんだ。「ぼく」とか「わたし」であればそれで良い。

すべての人間を完全に一つにすることはできない。でも、世界は一つしかない。だから、「みんな」という“誰もいない場所”を追求することで、あらゆる矛盾と闘い、秩序を保とうとするのが法律なんだと思う。法律はそのためになくてはならないと思う。でも、音楽で法律をやろうとしたって無理だよ。音楽は法律じゃないんだからね。「個人」を忘れて、一部の共感を狙えば、どこかに疎外感が生まれる。そして、その狙ったはずの共感だって、実は空っぽ、無人だよ。「20代の若者」なんて人、どこにもいないんだから。そこには誰もいないんだ。きっと、矛盾しているようだけど、個人が見えれば見えるほど、共感されていくんだ。一人一人違うということがみんな同じなんだから。法律とは違う方法で、人を繋げてしまうんだ。

音楽で法律をやろうとするなんて本末転倒だよ。音楽が法律になるのなら、音楽なんてなくったって良いんだ。

「聴いた人みんなが、“自分のために歌ってくれてる!”って思えるような音楽を作っていきたい」

そんな泣かせることを言ってくれたミュージシャンがいたなぁ(ワタナベイビーさっ♪)。個人が見えれば見えるほど、そこに自分を見つけたりするんじゃないかな。誰もいなきゃ、自分だって見えなかったりするじゃん。他者は鏡なんだ。何も個人的なことだけを歌えと言っているわけじゃない。それは表現方法の問題だから。

宮本が宮本のことを歌う。それを聴いた誰かが「私の歌だ!」って思う。それって、ものすごい素敵なことじゃない?

*********

ところで、最近のカラオケは凄いですねー。何がって曲の充実ぶりですよ。あんな曲やこんな曲まで。キング・クリムゾンの「21世紀の精神異常者」なんて、歌うところほぼないやんけ!みたいな。間奏を<ラ~ラララ~ラッラ~>みたくして歌うんでしょうか。アンダーワールドとかのクラブ・ミュージックもあるんですね。しかし、女子十二楽坊もあるんですよ。映像(PV)を楽しむんだそうです。まぁ、それは序の口、エレカシも一杯あってびっくらこきました。ひぇ~。UAも最新アルバムから何曲かあって、これは拷問じゃないですか?(笑) カラオケでどう歌えと言うんです? ま、歌うけど(笑)。歌うっていうか、入れるけど。入れるだけなら、リモコン押せば誰でもできるもんね(笑)。

これはこれで嬉しくて喜んでたんですけど、こんなにも細分化・多様化されてるってことなのかぁと感慨深い気持ちになりました。その分、やっぱり、みんな知ってる!って曲は少なくなってきたんでしょうか…。そりゃ、ポップ・ミュージックが定着し、ミュージシャンもどんどんどんどん増えてるんだから、当然っちゃ当然ですよね。ジャンルなんて今いくつあるんでしょ? 「一人一人違う」のだから、細分化されて当然ですよね。でもさぁ、「一人一人違う」を突き破って「みんな同じ」になっちゃう音楽ってやっぱ素敵だと思うなぁ。凄いと思うなぁ。それを聴きたいって思っちゃうなぁ。

「一人一人違う」なくして「みんな同じ」にはなれないけど(それを前半で書いたわけだけど)、「一人一人違う」で止まってない、甘んじてない音楽ってやっぱ力を持つと思うし、それを突き破って「みんな同じ」になる瞬間ってやっぱ凄いと思う。

少なくとも私は、自分の好きな音楽は、他の人が聴いても素晴らしいって思うはずだ!って思ってるよ。実際はそうじゃなくってもね(笑)。


心と体を超えて!

2004-11-04 12:28:18 | 音楽コラム
これは、「想いが言葉に変わるまで」「魂のかたち」「ラック・オヴ・リーズン」の続きです。
かなーーーり気持ちの悪い文章なんで覚悟して下さい(笑)。

こうやって色々と考えてきて、見えてきたことがある。それは、

人と同じように、音楽にも「心」と「体」があるのではないだろうか、ということだ。

「技」もあるかも知れないが、ここでは「心」と「体」という視点で語っていきたい。「心」は、その音楽が伝えようとしていること。それは歌詞であったり、感情であったり、思想であったり、想いであったり…。「体」は、何拍子であるとか、長調・短調とか、AメロBメロサビとか、使われている楽器とか、ジャンルとか、ルーツとか…。

そして、人に対してもそうであるように、その音楽が大切であればあるほど、その「心」も「体」もすべてを大切に思うはずだ。だから、好きな音楽に対しては、歌詞だって、感情だって、思想だって、リズムだって、構成だって、ジャンルだって、ルーツだって、時代背景だって、何だって大事だし、すべてを知りたいと思うものなのだ。その中には、作り手の物の考え方や人物像だって含まれるわけだから、作り手自身の経験やら知識やらも自然と含まれる。また、自分にとってその音楽がどのようなものかという自分の解釈も含まれるし、自分以外の人がその音楽をどのように感じているのかという他人の解釈も含まれる。そして、それがどのようなリズムやメロディを構築していて、どういうルーツや時代背景に基づいているのか、それらに対する作り手の解釈やアプローチ、また、それが世間から見てどのジャンルに属するのかとか、どんな位置付けになるのかといった世間的な解釈も含まれる。それらすべてが「音楽」であり、「音楽」を構成している。だから、そういったことすべてを知りたくなるんだろうし、大事に思うんだろう。もちろん人によって興味の方向はさまざまだが、そのどれもがその「音楽」の一部であり、一人ではカバーしきれないのだろう。ってか無限?

それだから、歌詞のことだけ書かれたレヴューや精神論めいたことばかり述べられた評論に対して「これはもはや音楽じゃない」と言われたときに、頭では分かっていながらも、どこか理不尽さを感じてしまうときもあるのだろうし、リズムや構成や音色、ルーツのことだけを語られても、「それも分かるんだけど、それだけじゃないんだよなぁ」というもどかしさを感じてしまうときもあるのだろう。「魂のかたち」でも触れたように、「ジャンルなんて関係ない!」にも「ロックが好きだ!」にも頷けるが、どちらの言葉でも何か足りない、カバーできていないという感覚。それが正直なところ。

要は、自分が好きな音楽に対して、自分自身がどう捉えるかはもちろん、自分以外の人がどう捉えるかも、世間がどう捉えるかも、作り手自身がどう捉えているかも、何から何まで知りたくなるってことで(人によって差はあれど)、また、それらが「音楽」を形作っているということだ。だから、すべてが大事なわけだ。で、リズムや調やジャンルなんてものも人が考え出した概念なわけだから、音楽は「心」も「体」も、人の解釈によって形作られていて、実体がない、ということになる。や、実体は「音」なのだろうが、これは目には見えない。

しかし、果たしてそれだけか?

音楽に「心」と「体」があるのは分かった。けど、果たしてそれだけだろうか。例えば、「心」も「体」も大事ってことで、「心」の部分も語って、「体」の部分も語って、そのどちらもが大事なんだと主張しても、何か足りない。何かまだ音楽に追いついていない。いや、今まではそれに気付かずにいられたんだけど、気付いてしまったんだ。歌詞も楽曲も凄いとは思えないのに、それを頭では分かっているはずなのに、どーしても惹かれてしまうことがあると知ったから。「心」と「体」だけでは説明つかないことがあることを知ってしまったから。

だから思った。音楽は、「心」も「体」も超えたところで聴いている(鳴っている)のではないだろうかって。

「心」と「体」が別々に引き裂かれたままじゃダメなんだ。「心」と「体」を超越したものでなくては――。「大切な人」に置き換えてみて欲しい。「心」と「体」なんてハッキリ別けられるものではないし、繋がってこそのものだし、「心」と「体」を超えた「何か」じゃない?

考えてみれば、音楽を聴いているときは、その音楽が持っている「心」も「体」も関係なくなっていることが多い。いくら歌詞に感動したって、どれだけメロディに感激したって、その音楽に包まれている間は、歌詞の意味とかメロディ・ラインとかも超えて、もっと高い位置で何かを感じている。そんな気がする。もちろんそこには歌詞の意味だってメロディ・ラインだって含まれている。だけど、それらを含めた上で、それらを超越してるんだ。「心」と「体」を統べながら、「心」からも「体」からも解放された、「心」と「体」を超越したもの(感性?)になっているんだ。きっと、私にとっては、それが「音楽」なんだ。そうして初めて私の中で「音楽」になる。だからこそ、歌詞の意味が分からなくても、歌詞だけ読んでも何とも思わなくても、演奏のテクニックの凄さが分からなくても、楽曲が凡庸で稚拙に思えても、訴えかけてくるときがあるんだ。

そう考えてみると、自分が「音楽」を聴いていて快感を感じるとき、つまり、自分が「音楽」に求めているものも、「それ」なんじゃないかと思えてくる。「心」と「体」を超越すること。例えば、「音楽」を聴いている間は、自分が日本人であるとか会社員であるとか家族構成とかそういう「体という概念」も、悲しみとか怒りとかそういう「心という概念」も、忘れかけてしまう。自分を「無」にしてくれる。でも、よくよく考えてみると、それは、自分を取り巻くさまざまな環境とか経験とか知識とか、そういう自分以外のものを「無」にしてくれてることだと気付く。つまり、自分から解放してくれると同時に、真の自分(魂?)みたいなものに回帰させてくれる。しかし、そういったさまざまな環境や経験や知識などが自分を形成しているのもまた事実なわけだから、もちろんそこにはそれらも含まれている。で、それらを含めた上で、それらを超越している感じなんだよね。さっき言ったのと同じ。「心」と「体」が統べられ、「心」からも「体」からも解放され、「心」と「体」を超越する感じ。幽体離脱じゃないけれど、「心」と「体」を俯瞰している「もう一人の自分」がいて、でもそれが決して「心」からも「体」からも離れていないっていうか、「心」も「体」も「もう一人の自分」も含んでいる「全自分」っていうか。「心」と「体」がフュージョンした「何か」? 一種のトランス状態だろうか。霊的なものなのかもね。

色即是空。空即是色。

「無」であり「すべて」である自分になれる場所――だろうか。

自分が音楽に対して「何もない」と思ったのは(「想いが言葉に変わるまで」参照)、それがきっと「すべて」だったからなんだろう。…と、都合よく解釈してしまうことにしよう。今は、とりあえず。

でも、こう思えたとき、私の中で何かがスッキリしたんだよね。だから、これを読んでくれた音楽好きの人も、同じようにスッキリしてくれたのなら凄く幸せなことだな~と思って。自分勝手で自己満足なんだけど(苦笑)。でも、ここまで考えが見えたから書き出せたわけで。逆にグッタリさせてしまってたりして(苦笑)。でも、なんちゅーか、こう思えたとき、クサいけど、自分が好きな音楽に対して、他の人がどんなことを言ったとしても、それを気にしないようにするのではなく、それさえその音楽の一部として愛しちゃえば良いんだ、とさえ思えたんだよね。一瞬のことかも知れないけど(笑)。

とにかく、音楽は自由なものであって欲しいし、疎外感を感じさせるようなものではあって欲しくないと思う。

そこで、音楽を言葉で表現するってどうなんだろうって考えてみた。私は、音楽には自由な存在であって欲しいと強く思っている。でも、その音楽を言葉で表現するってことは、音楽の自由を奪ってしまうものなのかなぁとも考えてしまう。でも、気持ちとしては、「音楽をもっともっと自由なものにしたい!」ってなぐらいの気持ちで書いてるような気がする。矛盾してるのかも知れないけど、それをぶち破りたいよなぁ。いや、もともと音楽は自由なものなんだけど、それが奪われてるような気が勝手にしちゃって、音楽の自由を取り戻せー!みたいな(笑)。バカだよねぇ。でも、そんな気持ちで書くのかもな。それができてるかどうかは別として(笑)。

だから、音楽には自由な存在であって欲しいってことは、イコール、自分が音楽の前では自由な精神でいたいってことなんだよ! そのために書いてんだよ! 音楽がそうであるように、自由な精神で「心」と「体」を超越した文章で書けると良いよね。「心」と「体」が引き裂かれたままじゃなくてさ。もともとそれは一つだったんだろうし。ってか、人が勝手に別けただけなのか? それが、音楽の自由が奪われてしまってる気がしてしまう原因か?(私が勝手に気がしてるだけだけど) その音楽で、どのように「心」と「体」を超越していくのかを書けば良いのかな。ということは、その前に、その音楽で「心」と「体」を超越しなきゃならんのか。ううーん。難しいな。でもそれがしたいんだろうな。「音楽」のような「文章」を書きたいって、そういうことかなぁ。そして、それを読んだ人も、「心」と「体」を超越して、自由な気持ちになれたとしたなら、そりゃあもう、最高だよね。

って!!! ここまで読んでくれた人、本っっっ当にありがとう!!! そして、お疲れさまです。感謝してもしきれません。もう最後の方、根負けして自分でもわけ分からなくなりながら半べそかきながら抽象的なこと書いてるし(大汗)。もうヤケですよヤケ! タイトルの最後の「!」はヤケの印だと思ってもらえれば(オイ!)。また、いつか、もっとうまく言えるときがきたら、書きたいと思います。考えも変わるかも知れないし(笑)。それにこんなこと、自分一人で考え抜いたわけじゃもちろんなくて、色んな人との会話や色んなものを見て思えたことだから。それらすべてにも、ありがとう!!!

結局は、音楽、これからもよろしく~。
そして、皆さん、これからもよろしくお願いします。

ああ、しかし、こんな内面を晒すような話(?)、物凄く恥ずかしいです。良いのだろうか? これは(不安)。でも、一回は書かずにはいられなかったわけで。自分でも「バカじゃないの?」って思うくらい大げさに書いてます、はい。ま、たまには良いよね?(恐る恐る) でもなぁ、自分で説明できないもんを誤魔化したいがために無理矢理まとめてる気もするよなぁ、超越って…。ってイケナイイケナイ! とりあえず今回はこれで終わりにしないと! 旅は続くのだから!(笑)

これにて、変なトランス状態(笑)からは抜けたいと思います! できるか?


ラック・オヴ・リーズン

2004-11-03 19:35:01 | 音楽コラム
前々回で、私は、人に「音楽好き」と言えるくらいになったのは遅い方かも知れないが、昨日今日音楽を聴き始めたわけではない、と書いた。では、私は今まで、どんな風に音楽と付き合ってきたのかを考えてみた。私なりの「肥えた耳」や「成長過程」を探すのだ!

中学生の頃から、B'z、ユニコーン、ブーム、東京少年(懐かしー! つい最近も聴いたけど良かったよ! ニューウェーヴの匂いプンプン! 当時はそんなことお構いなしだったけどね)とか、音楽は結構聴いていたけど、熱心に聴くようになった最初のアーティストとなると、「L⇔R」だろうなぁ。それまでは、メンバーの名前とか顔とか人物像なんかどーでも良かったし(名前くらいはチェックしてたかもだけど)、インタビューなんて読まないし、ルーツなんて「はい? 何のことですか?」状態だったと思うし、コンサートなんて「行く」という発想すら抱かなかったもん。それでも、音楽に何やら神ががり的なものというか魔法的なものは感じていたと思う。だから、わけも分からず「何だかよく分からないけど、これから目(耳)を離さない方が良いみたいだぞ!」みたいな妙な思い込みはあったかも知れない。怪しいものだったんだよ音楽って。もちろん今もだけど。

L⇔Rにハマったおかげで、インタビューや音楽雑誌を読んだり、ラジオを聞いたり、彼らが影響を受けたと言う音楽を聴いてみたり、そして、初めてコンサートに行ったり、色々した。いつしか興味の対象は「L⇔R」よりも「音楽」になっていって、まぁ、そっからだなぁ。色々な音楽を聴くようになった。

「L⇔R時代」(と名付けてみる)は、もちろん彼らが大好きだったけれど、あんまり歌詞とか気にしてなかった気がする。インタビューとかも読むんだけど、彼らの人間性が云々とか、音楽性が云々とかあんまり考えてなかったと思う。でも、色々な音楽を聴いていくうちに徐々に変化してきて。歌詞も気にするようになったし、考えるようになった。その人の物の考え方とか、表現に対する姿勢とかも考えるようになった。そういう音だけじゃない部分も含めて楽しむようになったし、また、そういう部分が音に直結しているんだなと感じるようになった。音以外の要素も「音楽」として楽しむようになったというか、「音楽」の中に音以外の要素も見つけたというか。

だから、ただ単に音を楽しむだけじゃなくて、そこに内包されている物の考え方であるとか、大げさであんまり使いたくはないけど人生観とかにも影響されるようになっていったんだと思う。例えば、どうしてこの人は音楽を鳴らすのかとか、どうしてこのような音楽になっているのかとか、自分は何故その音楽が好きなのかとか、自分はその音楽のどんな部分に惹かれたのかとか、そういうことをイチイチ考えるようになったというわけだ。音楽とより深いところで繋がろうとしたのかな。結局そういうのって、自分はどういう人間なのか?とか、生きるとは?ってところまでいっちゃうから、なんか、クサくて嫌なんだけど。(それが前回言った「聴き方」が幼稚な気がするってことかも)

考えてみれば、私の「音楽好き」のスタートとも言えるL⇔Rにハマるキッカケとなったアルバムのタイトルからして『ラック・オヴ・リーズン』なんだもん。『理由が欠けている』んだよ? だからこんな、理由を探す旅みたいなもんが始まっちゃったんだよ。L⇔Rめ…。

しかし、その一方で、これはもはや「音楽」と言えるんだろうかって思ったりもする。例えば、歌詞のことばっか書かれたレヴューとか精神論めいたことばっか述べられた評論に対して、「これはもはや音楽じゃないじゃん」とか言う人いるでしょう。でも、だったら、「音楽って何だろう」って思うわけです。私はそうやって「音楽じゃない」って切り捨てることはできない。何故なら、歌詞に感動したり精神論めいたことに共感してしまったりするときもあるから。でも、かと言って、歌詞カードだけを読んで満足したりはしない。だったら、詩集を読んでりゃ良いわけだから。やっぱり、そこには音がなくちゃ絶対にダメで。でも、音だけじゃないことも確かで。

さっき、理由を探す旅だなんて言ったけど、そうやって色々考えるようになった分、今では何とな~く自分が好きになる音楽に対して、「ああ、私が好きになるの分かる気がする」って自分で思ったりする。でも、そんな色んなことに対して理由を考えたりするよりも、ただただ音を楽しんでいた「L⇔R時代」の方が、自分は純粋に音楽を楽しめていたのではないだろうかとも思ったりする。でも、やっぱり、それは違う。だって、人は色々な人や出来事と出会ったり別れたりして、色々なことを経験したり考えたりして、生きているんだもの。だから、音楽に対してだって、色々考えるようになるのは自然なことで、当然なことで、健康的なことだと私は思う。だからといって、最初に好きになったときの純粋な気持ちを失うわけじゃない。それがあるから、今も音楽を聴いているんだし、考えているんだと思う。それにね、「L⇔R時代」だって(おそらくその前だって)、自分では気付いてなかったかも知れないけど、音以外の何かも聴いていたんだよ、確実にね。

それに、今だってあるんだよね。自分が予想もしていなかった音楽を好きになっちゃうことって。さっき言ったみたいに「私が好きになるの分かる気がする」ってのもあるんだけど、「私こんなのも好きなんか!?」ってのもあるんだよ。考えたって考えたって、「理由」だけでは好きにはなれないってことなんだよ。何せ、『ラック・オヴ・リーズン』で始まってますから。

ああ、この一連の「理由を探す旅」(?)、次の回で終わらせることができるのかなぁ。…たぶん。


魂のかたち

2004-11-02 18:19:09 | 音楽コラム
というわけで(前回参照)、自分にとっての「音楽」というものを少し考えてみることにした。しばらくお付き合い下さいませ~。

前回話した「肥えていく耳」とか「リスナーとしての成長」といったことについてはまだちゃんと自覚できていないので、まずは単純にどのような音楽が好きなのかを考えてみた。

聴く音楽は、「ロック」が多い。あと、「ポップス」とか(その境い目よく分かってないけど)。これをただ単に「好みの問題」としてしまっては話が終わってしまうので、これまたどうしてなのか考えてみる。別に、「ロックじゃなきゃダメ!」とか思っているわけではない。ただ、気付くとロックを聴いている。そんな感じ。

前回の話の中で、自分は何も変わっていない、それどころか、逆に幼稚化してるんではないだろうかとさえ思っていると書きましたが、その理由の一つに「ずっとロックを聴いている」というのもあって。そんなこと言ったって、大人になってもずーっとロックを聴いているおじさん、おばさんなんてたくさんいるし、見て下さい、ポール・マッカートニーなんて60歳超えても<シー・ワズ・ジャスト・セブンティーン>なんて歌ってますよ! それをどう説明するって言うんですか? いやいや、そうじゃなくってね、何て言うか、「聴き方」って言うのかな。私の「聴き方」が幼稚な気がしてね。じゃったら、ロックじゃなくったって同じじゃないか! まぁ、そうなんですけど、ほら、「昨日、渋谷屋根裏行ってさぁ」より「昨日、ブルーノート行ってさぁ」の方が大人っぽく聞こえません? それですよ、それ。(どれ?という突っ込みは無しでお願いします)

例えば、ジャズやR&Bにだって、自分が素直に「凄い!」と思える音楽はある。しかし、全部が全部そうだとは言わないけれど、どうも自分より「大人」な感じがしてしまうんだよねぇ。これ、何でなんだろ…。

話はズレますが、最近「ジャンルなんて関係ない!」ってよく言うじゃないですか。それはもちろんそうなんですけど、どうもこの言葉に「本当にそうか?」と疑問を抱かずにはいられないんです。だって、好きなジャンルってやっぱあるでしょ? 自分が好きになるときに「どのジャンルに属しているか」は関係ないにしても、「ジャンルに別けられている理由」はやっぱりちゃんとあると思うんですよ。

ジャンルの定義は、リズムだなんだって色々あると思うんですけど、その根底に渦巻いているものって、案外、「魂のかたち」とかそんなもんなんじゃないのかな~なんて私は思うんです。ロックにはロックの、ソウルにはソウルの、カントリーにはカントリーの、スカにはスカの、ボサノヴァにはボサノヴァの「魂のかたち」ってもんがあると思うんですよね。で、ロックの中でも、ビートルズにはビートルズの、レッド・ツェッペリンにはレッド・ツェッペリンの「魂のかたち」ってもんがあって、更にいけば、ビートルズの中でも、ジョン・レノンにはジョン・レノンの、ポール・マッカートニーにはポール・マッカートニーの「魂のかたち」ってもんがあると思うんです。

それが「音楽」となり、「ジャンル」というものが生まれて、みたいな。確かに「ジャンルなんて関係ねえよ!」と言えることはカッコ良いと思いますけど、それが「魂のかたち」となるとどうでしょう。「ジャンル」なんて言うから、こだわるのがせせこましく思われるかも知れないけど、やっぱりあるんですよ、「魂」ってもんが。だって、関係ないとか言いながら、やっぱあるでしょ? 「ロックが好きなんだー!」とか「テクノ最高!」とか。ま、「好きなアーティスト」でも良いんですけどね。

話がズレちゃいましたが、要はそういうことで。そうすると、私がロックばっか聴いてしまう所以はなんだろ~と。もしくは、ジャズやR&Bなんかを大人っぽいと感じてしまう所以はどこにあるんだろ~と。それを分析して説明していくのは、あまりにも個人的過ぎるというか、自分の中にしかない感覚になってしまうので省きますが、多分、ロックに自分の「魂のかたち」が合うってことなんでしょうね。このさき私が、大人になったり子供になったりして「魂のかたち」が変われば、聴こえ方も変わってくるんでしょう。私がブルーノートに通ったりしてるかも知れませんよ?

って、これじゃ答えになってないので、一つだけこうかもって思ったことがあったのでそれを――。私は、凄く大人な部分と凄く子供な部分が同居している、そういう両極端な(いびつな?)感じの音楽が好きなのかも知れないってことです。これは私自身の「魂のかたち」がそうだからなのかも知れませんねぇ…。

もちろん、「魂のかたち」が合えば、「ジャンルなんて関係ありませんよ!」(笑) 大好きなレゲエのアーティストいますし。ブルースだろうとヒップホップだろうとファンクだろうと好きなものは好きです。それに、単純に、合ったら好きってことでもないですからね。自分と似たようなものを感じて共鳴する場合もあれば、自分にはない何かを感じて憧れを抱く場合もあるし、反発を感じて衝撃を受ける場合もあるし、色々ですから。魂がどう反応するかです。

えぇと、この手の話題、もう少し続きます。こんな吐き出しの内容でゴメンなさい。でも、もう少しお付き合いいただけたのなら、私はとても嬉しいのです。続きはこちら