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sky is blue

言わなければよかったのに日記

You say yes, I say no 【前編】

2004-09-19 18:48:26 | コラム
ああ。今回は長いです。すみません。

古本屋で偶然見つけて偶然買った音楽雑誌の偶然開いたページにこんなことが書いてあった。ちょびっとだけ古い雑誌なので多少の時間のズレはありますが、内容は大体こんな感じです(文章は私が勝手に編集してます)。

*** 以下、大体の内容 ***
最近、モリッシー、キュアー、ナイン・インチ・ネイルズ等の80~90年代組の活躍が華々しいが、それぞれの音楽性は全くバラバラだ。でも、キャラクター的には共通しているところがある。屈折しているのだ。彼らは40歳前後で、僕とほぼ同年代だからよく分かるのだが、この世代独特の屈折した感じははたから見るとイジワルな感じに見えるらしい。彼らは常に他人と距離を置き、物事に対して懐疑的で、周囲の状況に対してとりあえず反射的にNOと言ってしまうような気質があり、あれもNO、これもNOと言っているうちに出口がなくなって閉じちゃって、変な風に爆発しちゃうのである。これが80年代の屈折メンタリティーであり、ロックに対してすらNOと言った挙句に異形の音楽が次々と生まれていったのだ。

テロの多発だとか小学生による殺人事件だとか、邪悪な事件が途切れる事なく次々に起きている。こんな世の中には、誰もがNOと言うだろう。だが同じように、『世界の中心で、愛を叫ぶ』が300万部売れたという事実にも僕は悪い夢でも見ているような絶望的な気分にさせられる。パンク・ロックに相田みつをの詩を載せたみたいな青春パンクを聴いて若者が涙ぐんでいるを見るのも僕にはひどい悪夢だ。自分が生きている今の世界に対して巨大なNOを言わざるをえない代わりに、ささやかでもどこかでYESと言いたい。それがこうした三流のYESの大安売りとなって現象化しているのだろう。みじめな「ガス抜き」の構造。三流のYESでガス抜きすればするほど、戦うための唯一の武器であるNOは錆びつき、本当に確信に満ちたYESにたどり着く日は限りなく遠のいてしまうというのに。不治の病で死んだ恋人の物語に同情して泣いたって何も変わらない。「にんげんだもの」とか「そのままでいいがな」とかいう詩を読んで自分を許したって何も変わらない。何も変わらないというもっとも絶望的な構造にゆっくりと飲み込まれていくだけだ。

モリッシー、プリンス、キュアーの復活劇は、巨大な才能と名声がありながら、音楽界に異端児として異形の音楽を作り続け、今まで一度もYESのカードを出さなかった彼らの最新作が「結果的に」力強い肯定的力を放っている、その今の姿こそが評価されたのだと僕は思う。
*** 以上、大体の内容 ***

ああ、あなたはどう思いますか?

私はこれを読んだあと、色んな考えが錯綜して、ちょっと混乱してしまった。筆者が言わんとしていることは分かる。分かるし、私もどちらかと言えば、筆者寄りだと思う。相田みつをは、ちゃんと読んだことないしあまり興味もわかない。自分には関わりないなとも思う。『世界の中心で、愛を叫ぶ』も、読んでないし映画も観てない。

でも……。
相田みつをを読んで涙して、次の日から人生が変わった人だっていると思う。『世界の中心で、愛を叫ぶ』に泣いて、恋人を大切にしようと態度を改めた人だっているかも知れない。この人が「三流のYES」と呼ぶそれで、何かが変わった人だっていると思う。逆に、モリッシーやキュアーを聴いても何も感じない、何も変わらない人だっているはずだ。

それに、相田みつをを読んでも何も変わらないのと同じように、キュアーを聴いても何も変わらないとは言えなくないだろうか? B'zを聴きました。ミスチルを聴きました。はい、あなたの人生何か変わりましたか? 世の中何か変わりましたか? 何も変わらない。当たり前だ。だって、しょせんは音楽だもの。それだけでは何も変わらない。でも、B'z、もしくは、ミスチルを聴いた人の何かが動いて、その人自身が変われば、その人の人生が変わり、それがどんどん広がっていけば、世の中も変わるのだろう。相田みつをだろうとキュアーだろうと、その人が変わらなければ何も変わらないのは同じこと。結局は、受け手次第だ。

そして、相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』を読んだ人も、全員が全員「自分が生きている今の世界に対して巨大なNOを言わざるをえない代わりに、ささやかでもどこかでYESと言いたい」がための「三流のYES」を求めて読んだのではないはずだし、筆者にとっては「三流のYES」だとしても、他の人にとってもそうだとは言い切れない。確かに、テロだの殺人事件だの悪夢のような事件はある。だが、世の中にはその他のことだってたくさんある。それこそ、不治の病で恋人を亡くす人だっているだろうし、世の中には色んなことがあって、それぞれの真実が無数にあるはずだ。

また、筆者で言うところの「三流のYES」を求めてしまうときって本当にないと言えるのだろうか。それが安っぽくって、薄っぺらくて、嘘っぽいと分かっていつつも、それに癒されてしまったり、それを欲してしまったりするときって絶対にないと言えるのだろうか。確かに「頑張れば夢はかなう」とか「愛があればすべてOK」とか、そんな言葉にはウンザリしてしまうことが多いけれど、そんな簡単なワケないと分かっていながら(分かってない人なんているんだろうか、今のこの世の中)、そういう言葉に救われてしまう瞬間や、そういう言葉の中にも真実味を持ったものだってあるんじゃないだろうか。それに、変わることが必ずしも「確信に満ちたYES」に近づく行為とは限らないし、変わらないことが必ずしも「確信に満ちたYES」から遠ざかる行為だとは言い切れないと思う。

さらに、相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』に涙した人だって、これが筆者で言うところの「三流」だと分かった上で受け止めてる人だっていると思う。「そのままでいいがな」と言っても、不治の病で死んだ恋人の物語に同情しても何も変わらない。そんなことは百も承知だけれど、それとは別のところで、何かを感じ取っているのかも知れない。ディズニーランドだって、みんな、あれが「ハリボテの世界」だと分かった上で楽しんでいるのでは? 嘘だと分かっていつつ、騙されているのでは? そういう楽しみ方もあるわけで、そこから得るものだって、きっとある。それが「ハリボテの世界」であっても、そこで表現されている思いや、そこから得たものまで「嘘」ということではないはずだ。それは、すべての表現に言えることではないだろうか。もちろん、ディズニーランドは苦手とか、人によって趣味趣向はあるけれど。

要は、その時その時で、自分がどういうモノを必要としているかによって違ってくるということだ。キュアーの音楽を必要とする時もあれば、相田みつをの詩を必要とする時だってある。たまたま筆者は相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』を必要としなかっただけであって、それを必要とする人だっているし、その人にとってそれが「三流のYES」であるかどうかは、その人にしか分からないことだ。そして、必要とするモノは、その時その時でどんどん様変わりしていくものだと思うし、どれが本物でどれが嘘ということではなく、その時にその人が心の底から必要としたモノならば、それがその人にとっての「確信に満ちたYES」なのではないだろうか。すべては受け手次第なのではないだろうか。筆者は「戦うための唯一の武器であるNO」と言っているが、戦うための武器はNOだけでも一つだけでもないと思う。戦うための武器の有り様はその人にしか決められないし、「確信に満ちたYES」にたどり着く方法も、「確信に満ちたYES」かどうかの判断も、その人にしか決められないことだと、私は思う。

まったく同じことが、作り手に対しても言える。相田みつをや『世界の中心で、愛を叫ぶ』に何らかの「YES」が掲げられているとして、それが「自分が生きている今の世界に対して巨大なNOを言わざるをえない代わりに、ささやかでもどこかでYESと言いたい」がための「三流のYES」だと、どうして言い切れるのだろうか? 筆者にとってはそうでしかなかったかも知れないが、作り手である相田みつを本人にとっては、もがいてもがきまくった末の「確信に満ちたYES」なのかも知れないではないか。同じように、筆者がキュアーに感じた肯定性も、キュアーにとってもそうだとは言い切れない。それは、本人だけが知っていること。そして、「三流のYES」があるのと同じように、「三流のNO」だってある。そうでしょ?

そして、作り手にとって「確信に満ちたYES」であるかどうかというのと、受け手にとってそうであるかどうかというのは、必ずしもイコールであるとは限らない。作り手が適当に掲げた「三流のYES」が、受け手にとってはそれが「確信に満ちたYES」となる場合もある。もちろん逆もある。つまり、「確信に満ちたYES」であるかどうかは、“作り手本人だけが知っていること”であり、“受け手一人一人が決めること”でもあるのだ。簡単に言ってしまえば、「自分に嘘のない表現かどうか」ってことだと思う。それは“作り手本人だけが知っていること”であるが、同時に、“受け手一人一人が決めること”でもあるのだと思う。もちろん、それがイコールであって欲しいと思うし、真摯に向き合えば限りなくイコールに近づくとは思いたいが。「確信に満ちたYES」か「三流のYES」か――自分にとって嘘のない表現かどうかは、作り手だろうと受け手だろうと、一人一人が決めることであり、また、決めるべきことである、と私は思う。

【後編】につづく


サムライ in アテネ

2004-08-28 00:43:02 | コラム
ロシアはやっぱり強かった…。
シンクロナイズドスイミング、日本チーム2位。銀メダル獲得。
同調性とか切れとか、採点基準は私にはよう分からんのですが(ロシアは強いってことは嫌というほど分かりました。リフトとか凄すぎ)、とにかく日本は銀メダルでした。なぜロシアに勝てないのか、どうしたら勝てるのかというようなことは、当人達が一番よく考えてるだろうし、ぜんぜん詳しくない私が語っても余り意味がない&そもそも語れないので省略。

本当は、「銀メダル」だって十分スゴイ。しかも、2大会連続だし、日本は、シンクロが採用された1984年ロサンゼルス五輪から全種目でメダルを獲得してきた唯一の国らしいし、立花美哉選手と武田美保選手は、これで通算5個のメダルを獲得したことになり、日本女子選手では最多だそうだし。十分スゴイ。

けど、本人達はどうなんだろうな。銀メダルを獲得した女子レスリングの伊調千春選手の、「また銀かって感じです」「銀メダルでも全然嬉しくないですね」と語る、ぜんぜん自分に納得していない強張った表情がとても印象に残ってるのだけど、いくら周りが凄いと言ったって、本人の評価はなかなか動かせるものではない。大会は銀メダルはくれても、自分の気持ちまではくれない。でも、銀でも銅でも、とても晴れ晴れとした表情を見せる選手もいる。「気持ちは金メダル」とか「金メダル以上のものを得た」とかそういうのは、半分奇麗事かとつい思ってしまうけれど、本当にそういう気持ちってあるのかも知れない。または、輝かしいはずの金メダルでも、本人にとっては悶々とした気持ちでその輝きが曇ってしまうなんてことも、ひょっとしたらあるのかも知れない。結局は、自分に嘘はつけないんだなぁ。スポーツ選手を見てると、それがよく分かる。

シンクロの決勝戦を見る前に、ボーッとテレビを見ていたら、槙原敬之が出ていて、自分と向き合って詞を書いてる時間が今一番好きという話をしていた。とても嬉しそうに。その中で、「答えは自分の中にある」という言葉を発していた。金メダルとか銀メダルとか分かりやすい絶対的な順位をつけられるオリンピック選手なんかは特に、「自分に嘘はつけない」ということを痛感する機会が多いんだろうし、やっぱり、答えはいつも自分の中にあるんだろうなぁ。孤独だなぁ、人は。でも、だからこそ、自分を表現しようとするのかも知れない。だから「オリンピック」なんてものが生まれたんだろうし。「答えは自分の中にある」というのと「人と競い合う」というのは矛盾しているようだけど、人ってそういうものなんでしょう(多分)。伊調選手と逆パターンで、自分では納得いく試合ができたのに、誰も認めてくれなかったらそれはそれで悔しいはず(だよね?)。

立花選手は「コーチに認められたことが一番うれしい」と言っていたそうだ。メダルの色とか、オリンピックという大会とか、もとはと言えばスポーツだって、人間が考え出したルール(概念)に過ぎない。世界に色を付けるために、要は楽しむために、結局は自分を表現するために、考え出した高度な知恵の産物。世界に塗った色(ルール)。だったら、そのルールを使って思いっきり表現してやれば良い。それはきっとルールを超越するし、時に塗り替えもするだろう。色を塗るのは人間なのだから(色に振り回されるのもまた人間だけど)。

今回の結果に対して、シンクロ日本チームの選手達や井村雅代コーチがどんな気持ちでいるのか直接聞くことはできないけど、たとえどんな気持ちであったとしても、私は、「銀メダル、おめでとう!」って言いたい。自分に嘘のない表現ができて、それが人にも伝わって認めてもらえたら、それは凄く幸せなんだろうな。いや、その前に、表現の場があるってだけでも物凄く幸せなことかも知れない。世の中には、場がないどころか、自分に嘘をつかなければならない(あるいは沈黙を強いられる)ような状況だって結構あるのだろう(甘々な私にはまだまだ分からないけど)。女子マラソンの野口みずき選手も「幸せです」と言っていた。メダルはそれに付いてくるオマケのようなものなのかな。「皆さんのおかげです」とか「私にとっては金メダルです」とか「金メダル以上のものを得ました」とかそういうの、私も言ってみたいなぁ~。

ちなみに、「五輪では敵を愛せ」という言葉があるらしい。自分に嘘のない表現をしながら、敵を愛し敵からも愛される。これこそが『この世の外へ クラブ進駐軍』で述べたような“戦争と平和の共存”ではないのかな。自分に嘘をつくことを強いられ(誰も本心から見ず知らずの人を殺したいとは思わないよね?)、憎しみを生むいわゆる“戦争”とは違う。“戦い”でありながら、オリンピックはやっぱり“平和”の祭典なのだねぇ。もちろんオリンピックでも、ドーピング疑惑とか、自分に嘘をつくことになるのでは?っていう行為はあったりするけど。

ビョークは、『ニュース23』に出たとき「どういうときに幸せを感じますか?」と聞かれ、こんな風に答えていた。「内なる情熱と外からの情熱。これがイコールだと感じられたとき、私は幸せだと感じます」。そんなビョークが開会式で<あなたの汗はしょっぱい>と歌ったアテネ五輪。しょっぱい季節ももうそろそろ終わろうとしています――。関係ないけど、武田選手が自分と同い年と知った(ショック!!)。同い年にして「引退」という2文字について真剣に考えなくてはならないのかぁ…。


ジャパニーズ・ドール

2004-08-26 00:42:19 | コラム
シンクロナイズドスイミング! 日本デュエット、銀メダル獲得!
立花美哉選手&武田美保選手、素敵。 カッコ良い。
「日本人形」がテーマとのことだけど、あんなに生き生きした「人形」なんてないよ。
ホントは「最高!」って言いたいけど、まだチームが残ってる。
だから今は、その言葉をグッと飲み込もう。