メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『私は負けない』 モニカ・セレシュ/著 徳間書店(2)

2018-12-31 14:03:59 | 
PART3 ストーカーの正体




「精神鑑定」
ハンブルク地方裁判所
被疑者:ギュンター・パルヘ
専門精神科医の判定

尋問担当者が即座に気づいたのは、彼が精神障害を負っているという事実だ
その思考はすべてグラフ中心に動いている


被疑者の叔母:
物静かな少年で、精神状態は完全に普通
子ども時代に精神的ショックを受けたことはない
性に関してはほとんど話さなかった

1990 グラフがセレスに負けた時、村人や工場の同僚はからかった
結果、自殺まで考えた(何度もこう言ってるけど、実際はそんなつもりはなかったのでは?
経済的に困窮していないこともあり、仕事を辞めた

サッカーの大ファンだったが、グラフが国際的に有名になった頃、熱狂的ファンになった
生い立ちを調べ、ライバルの情報も相当集めた
「一番キレイな脚をしている」「アスリ-トだけでなく、人間として理想のタイプ」

東ドイツマルクで1万をはたいてビデオデッキを買い、試合を録画し繰り返し見た
旧東ドイツで、グラフの載った雑誌を入手し、写真に撮り、引き伸ばして部屋に飾った

何度もファンレターや花を贈り、誕生日には現金も送ったが
本人と対面したら、心臓が止まるとさえ思っていた

1990 グラフがセレスに負けた時、完全に打ちのめされ、
モニカがNO.1についてから考えたことは唯一つ
グラフのために何かできないだろうか
それが「モニカに思い知らせてやりたい」と思うようになった

当日、腕にナイフが届かなかったため背中を狙った


「所見」
ある種の強迫観念がふくれ上がり、病理学的性格障害は深刻な精神異常に等しいといえる
犯行時に自己制御能力が減退していたことは、刑事責任能力を判定するに際して考慮しなければならない


悪夢
<1993.5>
私はますます殻にこもり、山の中を行き先もなく頻繁に何時間もドライブした
車内では安心できた マスコミに追われることはなくなったが記者はまだ何人かいた

ファンから何通も心のこもった手紙をもらった
マイケル・J・フォックス(!)や、マイケル・ボルトンなどの励ましにも慰められたが
女子テニスのトッププレイヤーからは手紙もなにも届かなかったことに傷ついた

グラフからも電話1本なかった 「連絡先が分からなかった」とマスコミに言っているが
IMGに聞けばすぐ分かることで、とにかく私がいなくてもツアーはこなされていた

私はステッドマンの理学療法プログラムをこなすなど無理だった
妙な瞬間に突然泣き出すのは日常茶飯事で、毎朝ベッドから出るのが死ぬほど辛かった

ステッドマンらも刺傷を負った選手の治療は初めてで
アスリートは普通、一刻も早くスポーツに戻りたくて、トレーニングだけは続けようとするものだと言い
臨床心理分析医ジェリー・メイを診察をすすめてくれた

私は見ず知らずの他人と過ごすのが怖かったがそのままには出来ず
ついに観念して、10日間の診療を受けるため、カルフォルニアに向かった

精神科医にかかるのは初めてで、最初は心を開けず、心に問題があることを自分で認めることも出来なかった

翌週から事件について話し合うことを始めた
悪夢については頑として認めなかった
支離滅裂になり、診療を中止することもしばしばあった

今思えば、私にはまだ自分の記憶と向かい合う準備がなかった

8月 あらゆる噂に終止符を打つため、インタビューを受けることにした
名だたるテレビ界のインタビュアーの中から拒食症に関するテレビを見てダイアン・ソーヤーを選んだ

事件を乗り越えたいため、正直に答えようと思った
質問には容赦がなかった

「刺された時、どんな気分でした?」「復帰の予定は?」
「傷の回復状態は?」「日ごろは何をしていますか?」


収録中、私は何度も取り乱したがなんとか続けた
数日後に放映され、視聴者の反応は好意的で、根も葉もない噂は1ヶ月ほどはおさまった


もがき苦しむ日々
人はいろんな方法を考えて抑うつ状態から逃れようとする
その1つにたえず動き続けるというのがある

ヴェイル行きの飛行機に乗るためホテルのエレヴェーターに乗る時
ベッツィ・ネイゲルセンと再会し、2人ともただ見つめあった

彼女が私のプレーを初めて見た時、私は13歳
どんな球も力強く正確に打ち返すのを見て
その日、私が“it(天賦の才能)”を持っているとすぐ見抜き
「私たちはそろそろ子どもを持ったほうがいいのかもね」と言い
実際、彼女はその後結婚し、今は家事・育児に追われている

1991年 私にダブルスのパートナーになって欲しいと電話をしてきた
私は普段はダブルスはしないが、喜んで受けた

彼女ほど人を愉しみ、エネルギッシュな人はいない
私たちは友情を育てた ツアーでの最初の友だち、プロテニスプレイヤーで唯一人の親友

そうなれた理由の1つは、彼女にはすでに華々しい戦歴があり
出会った頃はもうトップテンプレイヤーではなく、競争心剥き出しにならずに済んだ
もう1つは彼女が私より年上で、キャリアに差があったから

事件後、彼女と夫マーク・マコーマックは連絡をとり続けたが、
マネージャーがプライバシーを尊重して直接かけるのは控えていた

6月に電話で「私が必要ならいつでもそばにいる」とキッパリ言ってくれた

ベッツィに誘われ、私たちはパーム砂漠に行き、マニュアル車の運転を教わり、
それはここ数ヶ月で一番愉しい出来事だった

とはいえ、前触れもなくいきなり憂鬱な気分に襲われることもあった
そんな私をその後もスキー場などに誘い、私たちの友情は固い絆になる

理学療法はこなせても、心循環系強化のトレーニングができない

そんな時、アーサー・アッシュが一現実に引き戻してくれた
ウィンブルドンを棄権した時、支えてくれたのがアーサーだった

<1992.8>
エイズ患者支援の第1回アーサー・アッシュ・デイのエキシビションに出場し
その後、アーサーは1993.2.6エイズで亡くなり、
1993は主人不在の式典となった

4ヶ月ぶりに公の場に姿を現すことになり
まだ腕を上げることも困難で、球は一度も打っていない

マネージャーはマスコミのでたらめ記事を抑えようと
ツアーに戻る予定はないと説明したがマスコミ対策にはならなかった

全米オープンに出ないと分かっていて、フラッシング・メドウズ・スタジアムに入るのはとても辛かったが
観客が気づいて立ち上がり声援と拍手を送ってくれ、久しぶりに感謝の涙がこぼれた

ボックス席まできて話してくれた女子選手はサンチェスだけで、
ミヒャエル・シュティヒも声をかけてくれた
心配で何度も連絡を取ろうとしてくれたディンキンズNY市長も有り難かったが
それ以外トッププレイヤーは誰も来なかった

IMGラケット・スポーツ責任者ボブ・ケインが

みんな記者会見を開いてほしがっている
 マスコミの好奇心を満たすいい機会だ
 開かなければ、大物気取りだと陰口を叩くかも」と言ってきた

私は選手の迷惑にならないよう全米オープン初日に会見を開いた
「グラフは事件後、あなたに連絡を取ろうとしましたか?」
戸惑いつつ、ありのまま慎重に答えた

翌朝、NYのタブロイド紙の見出しは
1つは好意的で、1つは私が「グラフを礼儀知らずと非難した」と
あたかも2人に確執があるようでっち上げていた それで売れ行きが伸びるのだろう
もうこれ以上不運には耐えられそうになかった
試合も見たくない 私はまた逃避したくなった


F1レースを一度観戦したいと昔から思っていたが
F1のシーズンはテニスと重なるため、これまでレース場に行ってみたことはなかった

母とイタリアに飛び、私の大好きなドライヴァー、アイルトン・セナ、インディ・カートらに会えた
本当に素晴らしい人たちだった

アイルトン:
終わりがいつ来るのかは誰にも分からない
だから毎日毎日を生きるのさ


それでも、その時の私はまだほんとうの問題から目をそむけて
わざと自分を忙しくさせる行動パターンに陥っていることに気づいていなかった

ヴェイルに戻り、また新たな治療が始まった
クリニックの地下室にドクターがわざわざコートを作ってくれ、
ラケットを振るトレーニングがプログラムに加わった

私が雇ったドイツの弁護士は、パルヘの公判の準備のため
目撃者らから証言を集めていたが、結局大した役には立たなかった
だが、彼は間違いなく有罪判決を受けるだろうと確信は持っていた


「目撃者の証言」
件名:セレシュに対する重度傷害事件(名前が変わってる

「私はセレシュのベンチのうしろに座り、彼女がコートを広告の看板にかけないよう注意していることでした
(馬鹿馬鹿しい仕事もあるものだ

 男は彼女を殴ろうとしているように見えました
 数人に取り押さえられた時、ナイフが初めて目に入った
 男はナイフを握り、刃は下に向いていました
 セレシュが、襲われた瞬間、少し前かがみになったとほぼ同時だったと思います」


「私はモニカの試合を見るため、3列目に座りました
 男は酔っているのではないかと思いました」


「私はモニカのベンチのすぐ後ろでした 1mか2mぐらいの距離だったと思います
 男はファンらしくなく、カメラも持っていなかった 凶器は私には最初見えませんでした
 モニカが背中から血を流しているのを見たのは、その少し後です」


ストーカーへの判決
<1993.10>
私はコートに入る場面を思うだけで家に戻ることを繰り返していたが
何もせずにいることに耐えられなくなってきた
頭の中で繰り返される声「パルヘがまた襲ってくるぞ」と夜中に叫ぶ声を静めるため、何かしなくてはならなかった

私は父と球を打ち始めた
私の腕は完全に落ちていた
それでも集中するほど事件を忘れることができた
体を動かすことが一番の解決策のようだった

トレーニングは、ジャッキー・ジョイナーの夫でコーチのボブ・カーシーについていた
「前向きに考えるのよ 練習は最後には報われる」彼女は私によく言ってくれた

毎晩、私は疲労困憊し、夢を見る余裕もないほどで
少しずつ体が引き締まってきた

弁護士ゲルハート・シュトラーテから電話があり
公判が3日後に始まり、罪名は「暴行罪」だと伝えた

腑に落ちなかった 私は殺されかけたのに、なぜ「殺人未遂」でないのか
理由は、目撃者の証言に食い違いがあるためだった
12人中11人はパルヘは私を2回刺そうとしたと証言したが
1人だけそういう意志は見られなかったと証言した

ドイツの法律では、被告に有利な証言は必ず認められる
法廷はパルヘの言うことなら何でも信じるのか?
彼は刑務所か精神病院に収容されるべきだ

弁護士「彼はおそらく自由の身になる 覚悟したほうがいい」「まさか」

それでも何千人も目撃していたことは唯一、不幸中の幸いだった
私自身、公判で証言せずに済んだから
パルヘに背中を向けて証人席に座るなんて絶対に出来ない


<1993.10.13>
兄:彼は釈放された 明日は自由の身になる

彼は懲役5年の代わりに、2年間の保護観察処分になった

裁判官:
容疑者が今後、犯罪を犯す可能性は極めて少ないと思われる
パルヘが狂信的なグラフのファンになったのは、過度な報道をしたメディアにも責任がある
自白には充分信憑性がある
彼はすでにマスコミにより社会的制裁を受けた


私は縁石に座り込み、ヒステリックな笑いが止まらなかった
私が主治医に証言を認めなかったことも理由に挙げていた
目撃者の証言は認められたが、誰一人、公判に喚問されなかった

精神科医の証言は、最初の鑑定からかなりトーンダウンした
「彼はただグラフの力になりたかった」

彼は深刻な“人格障害”を持ちながら、自由の身になった
私は再審を求めて上訴訴求するしかなかった

WTAツアー・プレイヤーズはコメントを発表
「この判決はまことに嘆かわしい 一様に衝撃を受けている」


各紙

ドイツでは、怨恨犯罪、性犯罪、ストーカー犯罪に対する意識がアメリカほど高くない
 パルヘは、身の安全のため、釈放第1日目の夜を拘置所で過ごすと希望した
 彼は裁判官より正しく理解している」

「またもやドイツ司法制度の一風変わった杜撰な側面を露呈した
 女性裁判官は、男同様愚かだと証明した」

「彼の女神がまた台座から落とされたら、彼はどんな反応をするだろうか?」


精神科医ステファン・ラーマー:
裁判所の判断には矛盾がある
パルヘは刑罰の軽減に値する精神障害を有していながら
治療を必要とする精神病ではないことになる


アンケ・フーバー:これでは誰もコートで落ち着いてプレー出来ない


私は兄からクルマのキーを受け取り、その日はどこにも一度も停まらず
1日中走り、車内で叫び続けた 「どうして? どうして?」

真夜中近くに帰宅すると
母:もう二度とこんなことはしないで みんな死ぬほど心配してたのよ



PART4 宿命のライバル、シュティフィ・グラフ




<1990.5 ルフトハンザカップ>
決勝の相手はグラフ 今回は彼女の祖国
ついに祖国統一を果たし、東西ドイツ大統領も見に来ていた

第1セットは6-4で取った もう40分で負かされることはないと思った
第2セット 6-3で取った時、私はただ茫然とした

ネットまで走り「いい試合だったわね」と握手した

私にスポーツマンシップの大切さを教えてくれたのは父だ
勝っても負けても同じこと 父は必ずポイントを取った相手に拍手を送る

テニスなんてただのゲーム 人生のほんの一部だ
 愛、結婚、家族、友だち 重要なのはそっちだよ」とよく私に言う

私は更衣室に座って、ついにグラフに勝ったのだという思いを噛み締めた
その時、グラフが現れ、ラケットを思いきり壁に叩きつけて、壁に大きな穴ができた
試合に負けてあれほど不機嫌になった人をそれまで見たことがなかった

イタリアンオープンに優勝した時、マルチナはわざわざ私のところに来て祝福してくれた
私は負けて落ち込んだ時、ラケットを見つめ
「これはただのゲームだ ゲームは私自身ではない」とつぶやく


<1990 全仏オープン>
ベッツィからダブルスを組まないかと言われ、快く受けた
しかし、以前の私のダブルスのパートナー、ヘレン・ケレンは激怒し
シングルスで私を負かそうと闘志を剥き出しにしてきた

2回戦の相手はヘレン・ケレン
4-6 6-4 6-4で私は3回戦に進んだが、そこで負けた
ダブルスは準々決勝までいけた

「モニカはテニスのやり方が分かっていない」

これは、マリーヴァ3姉妹の長女マニュエラ・マリーヴァのコメントの1つ
よほど脅威だったのだろう 試合が終わるたび彼女は驚くほど否定的な発言をする

マニュエラとの準々決勝 3-6 6-1 第3セット 4-1で彼女がリードし
なぜか脚の不具合を訴え、インジャリー・タイムアウトを取った 攪乱作戦に出たのだろう
私の集中力が途切れることを期待したが、この余興のおかげで私の集中力は増し
7-5で準決勝に進んだ

「2人の子どもの戦い」
マスコミは私(16)とジェニファー・カプリアティ(14)初対戦の準決勝をそう評した
ジェニファーが全仏前に出た大きなトーナメントは2つだけだが、プレッシャーに動揺したようだ

たった10分ほどのインタビューで勝手にレッテルを貼られるのがどんなに奇妙か
私は「強靭な精神力の持ち主」と言われた 人格形成はこれからだというのに

準決勝は6-2 6-2でストレート勝ちした
決勝戦はグラフ 子どもの頃からの夢の舞台で勝ちたいと強く思った

第1セット3-0で雨での中断 その間、たいていの選手はコーチと話をする
試合中は話せないが、たいていのプレイヤーはその規則を犯しているけれども(!
私と父は話さない 試合になれば、頼れるのは自分だけだから

タイブレイクは運次第と常々思う どっちが勝ってもおかしくない
結局、最後のポイントは私が取り、第2セットも6-4

グランドスラムのタイトルを初めてとれた 16歳6ヶ月
1887年に15歳10ヶ月でウィンブルドンを制したロティ・ドッドに次いで
史上2番目に若いグランドスラマーとなった

グランドスラムのタイトルはテニスプレイヤーにとって特別な意味を持つ
通過儀礼のようなもので、もう勝利が運のお蔭だと思うことはない


憧れの選手
「このスポーツにファッション感覚を取り戻すことは別に悪くはないと思う
 スザンヌ・ランランやマドンナのように」

16歳の時に話した結果、自分のコメントと6年も付き合わされた
いい機会だから1つハッキリと言いたい

マドンナは素晴らしい女性だ 16歳の時、大好きな歌手の1人だった
しかし、好きなミュージシャンは他にも無数にいる

スザンヌについて 彼女が初めてトーナメントに出たのは12歳(!
「女は柔順でしとやかでなければならない」とされていた時代にとてもエネルギッシュだった

テッド・ティンリングと大の仲良しで、彼は後に服飾デザイナーになるが
1920年代は女子テニスの審判などを務めていた

テッドがスザンヌのためにウェアのデザインを始めた
女子は皆コルセット、足首までのスカート、長袖ブラウスの頃に
ウィンブルドンで初めて着たのは、膝丈のスカート、袖も肘くらい
それはコートチェンジに飲んだコニャックと同じくらい物議をかもした(試合中に飲酒?!

彼女の父は、子どもの頃から、テニス界のスターになっても
コートの中でも外でもあれこれ口出ししたそうだ

そうしたことで病と狂気の縁まで追い詰められた
39歳の若さで亡くなったのは、悪性貧血のためだが

私は彼女に心から魅了された 強さ、精神力、情熱

テッドの影響もあった 心の底から優しい男性
私は子どもの頃からファッション雑誌に夢中で、自分で服を作ったりもしていた

テッドは1990.5.23 79歳で亡くなった
選手のほとんどは全仏オープンのためフランスにいたが、私は葬儀に参列した
生前はみな彼を称賛していたことを思い出した


“吠えるモニカ”
私は自分を笑うことのできる人間だ
でなければ、1990年のウィンブルドンは拷問同然だっただろう

1回戦の私の試合に「かけ声測定器」が登場した
ロンドンのタブロイド紙が設計したのだ
82デシベルは、“電気ドリルとディーゼル車のほぼ中間”と書かれた(爆

実際、テレビの録画を観るまで自分がどれほど大きな声を出しているか知らなかった
どんなアスリートも瞬間的にエネルギーを噴出させる時は、肺から吐き出さなくてはならない
ジュニアトーナメントでは、皆かけ声を発していた

私は6つの主要トーナメントに連勝していた
記者は何もネタが見つからず、否定的な記事で論議が沸騰すれば新聞は売れる
後に世界中の新聞から“吠えるモニカ”と書き立てられた

「モニカはバターに夢中」
ロンドンのタブロイド紙が書いた最も可笑しな記事の1つ
バターが好きだと言っただけで「バターなしでは生きられない」
「バター中毒」「ピザにもデザートにも塗りたくる」

ウィンブルドン役員から
「かけ声をなくせたら、全身白を着用する規則の緩和を考えてもいい」

マスコミはついに目的を果たした 私の弱点を見つけたのだ
プレイヤーらも次第に苦情を訴えた

世界ランキング3位になった途端、上位選手の中に
私の集中を乱すなら何でも利用しようという人が出て来た

ラインマンのコールは試合の勝敗を左右することがよくある
1989 ドイツのトーナメント決勝戦 メアリー・ジョー・フェスナンデス
第3セット タイブレイク 会心のショットを決めた時
審判はアウトとコール 私は異議を申し立てたが認められず
ベースラインに戻ると審判は2ポイントをジョーに与えた
これには観客もブーイングした

私はトーナメント・ディレクターを呼んだが、その時彼女は見ていなかったし
テレビ中継もされていなかったから、私はタイブレイクを落として負けた

(なんだか、こないだのセリーナ×大坂なおみ戦にそっくり/驚
 まだチャレンジシステムもないもんね

ウィンブルドンでは決勝でジーナ・ガリソンに敗れ、連勝は6で止まった
私と父は全米オープンのためにアメリカに戻った

ヨネックスのラケットの独特な形はまさに私のために造られたと思った
(なおみちゃんもヨネックス!

グランドスラムの前にラケットをかえるプレイヤーは滅多にいない
慣れるまで数ヶ月かかるから
私はラケットをかえて2週間後、決勝戦でマルチナを敗り優勝した

全米オープン 3回戦 リンダ・フェランド
すべて上手くいっていたが、甘いチャンスボールが太陽で見えなくなりスマッシュをミスしたことが
どうしても頭から離れず、集中出来なくなった

世界3位の私が3回戦敗退の番狂わせになった 結局、私の気力が足りなかったのだ
勝者がいれば敗者がいる それがゲームだ

チャンピオンシップの出場権を得て、去年より1ゲーム、1セットでもいい試合をしようと臨んだ
世界で唯一、女子で5セットマッチなのが大好きだった
男子同様、何時間もかけて戦って勝利するのは愉しいものだ

決勝戦はガビー 彼女はグラフを下しての決勝進出だ
(グラフを負かした選手はたくさんいるのに、どうしてパルヘはモニカだけを憎んだのか???

4時間に及ぶ試合の末に史上最年少の優勝者となった
1901ナショナルズ以来初の第5セットマッチとなった
私にとって重要なのはベストを尽くして戦えたことだ


最年少で頂点へ
<1991 全豪オープン>
摂氏56度(!) まだウォーターブレイクがなかった
今では1セット終わるごとに10分のブレイクが取れる

第3セットにタイブレイクがあるのは、グランドスラムは全米オープンだけ
疲労と暑さで朦朧としながらメアリー・ジョー・フェスナンデスを9-7で下した時は
体内には1滴も水分が残っていなかった

決勝戦はヤナ・ノヴォトナ
5-7 6-3 6-1 全豪オープンで初優勝

すぐパン・パシフィックオープンのため東京に飛んだが
体調不良で欠場せざるを得なかった

次はマイアミのリプトン 決勝戦でガビーを破った

さらにサン・アントニオ 決勝戦でグラフはストレートで優勝したが
数週間後、グラフの代わりに私が世界ランキング1位になることが分かっていた
グラフは、NO.1の座を1310日維持していた(!
私とグラフが、かつてのクリスとマルチナに似ていると気づいた
今後、私たちは世界中のセンターコートで対戦し、ビッグビジネスになるだろう

17歳で女子テニス史上最年少NO.1 マスコミ攻勢は無視出来なかった

もし私がパーム・スプリングスで5位以内の選手に勝っていたら
ただちにNO.1になっていただろう
トップ選手に勝てば、ランキングが上がる「ボーナスポイント」がつくからだ

パーム・スプリングスは雨続きで、土曜の初戦を待っていると
母が来て、愛犬のヨークシャーテリア「アストロ」が首輪もロープもない大型犬に襲われたと言った

救急治療室で傷口を縫い、私たちはホテルに連れて帰った
動物病院に片っ端から電話し、24時間営業の病院を見つけ
雨の中連れていくと、傷から感染症を起こし、入院をすすめられた

試合の内容はほとんど覚えていない
私は決勝でマルチナに敗れ、世界NO.1になった
アストロはめざましく回復した

マンガ『宇宙家族』に出てくる犬にちなんで名づけたアストロは
私のランキングなど関係ない いつでも私をNO.1だと思ってくれる

NO.1になることは私の目的ではない
あくまでグランドスラムでいい試合をすることだ
ランキングリストを見てもさほど感動しないが
スタジアムから声援を送るファンを前にトロフィーを掲げることほど心躍ることはない

NO.1になって一番変わったのは、マスコミの要求だろう
NO.1になったら、やることなすことがマスコミの関心を惹くと私にはまだ分かっていなかった


マスコミの詮索

<1991.5 全仏オープン前>
私はマトリックス社とCM契約した
社は私に髪を切ってもらいたがった
ヘアサロンで私のポニーテールはあっさり切り落とされ
写真撮影 私はそのスタイルがとても気に入った

グラフは準決勝でサンチェスに破れ
私はオープントーナメントになって、同じ年に全仏、全豪を制した3人目のプレイヤーとなった

左脚の向こう脛の腫れは酷くなった
体重を減らすためにジョギングをしたが、それが炎症を悪化させた
私の左脚は疲労骨折を起こしかけていた

ウィンブルドンを欠場するつもりは少しもなかった
3年前、グランドスラマーになったグラフに次いで、私も狙っていた

だが6月、トーナメントの3日前に「ちょっとした負傷のため欠場する」と連絡した
その途端、タブロイド紙が一斉に騒ぎ出した 「私が妊娠した」とまででっち上げた
とりわけロンドンのタブロイド紙には兄も心底腹を立てていた
35年ジャーナリストだった父は「それも彼らの仕事の一部なんだよ」となだめた

私はロンドンの新聞とはそりが合わない
タブロイド紙には、この一線だけは越えないという限度がない

刺傷事件の直後にヘリで被害者の家の上空を飛び
父のがん手術後、静養中に、家のゴミ箱をあさったり、塀をよじ登ったり

タブロイド紙は、私の居場所や写真提供者に賞金を出した
家族の友人にまでしつこく取材するようになり、マスコミに話さないわけにはいかないと兄に言った

試合を欠場する時は、会見に医師を同席させ
マスコミとファンに情報を提供しつづける責任があるのだ
でも、私たちのプライバシーも尊重されるべきだと私は信じている

ウィンブルドンが終わり、マワのエキシビションで
主催者が一方的に大掛かりな会見を企画した
プロモーターとして世間の注目を集めたかったのだろう

彼は私にTシャツを渡し、カメラに掲げるよう指示した
それは空港で渡された「ローマ、パリ、ウィンブルドン、マワ」と書かれたものだが
ウィンブルドンのところだけ棒線が引かれていた

その時の会見は動物たちが騒いでいるような状態だった
「お騒がせして申し訳ありません」と私はとりあえず謝り
妊娠とかヨネックスとの契約問題とかの理由ではないと言った

終わりにTシャツを掲げると、また質問攻めにあった
それがウィンブルドンへの愚弄だと取られかねないと知っていればそんなことはしなかったが
それから数週間、マスコミは書きたて、また謝罪しなければならなかった

何度も弁解を繰り返し、私は貴重な教訓を得た
人はそれぞれ異なる目的があり、それがすべて私の利益になるわけではない


快進撃
私はツアーに復帰したが、サンディエゴではカプリアティに惨敗
全米オープンでは誰もがグラフ×セレスの決勝戦を望んでいた

準決勝はその日の最終試合 決勝戦はすぐ翌日
長引けば、次の試合まで20時間ほどしかない

カプリアティはその時、テニス界のアイドル
コートで対戦相手の声援ばかり聞くのに耐えるにはかなりの気力を必要とした
6-3 3-6 第3セットはタイブレイクを制して勝った
「いい試合だったわ」と握手した時、彼女はニッコリ笑ってうなずいた

もう1つの準決勝はマルチナがグラフを下して、決勝戦の相手はマルチナ
(グラフを負かした相手は他にもいたのに、セレスを狙った理由がまだ分からない

ホテルでその日のハイライトをテレビで見ると、
試合後、ジェニファーがコートを去る時、大粒の涙を流していたことに初めて気づいた

マルチナとのタイブレイクを繰り返して「またタイブレイク!」と思った
第1セットを取り、第2セットでリードされた時、私に声援を送るディキンズNY市長の声が聞こえた
気力を取り戻せたのは彼のお蔭だ 私は初めて全米オープンで優勝した
グランドスラムのうち3つを制したのは夢のようだった

しかしマスコミはこう報道した

「ウィンブルドンに出ていたら、同じ年に4大大会を制する偉業を成し遂げた
 3人の女性(モーリーン・コノリー、マーガレット・スミス・コート、グラフ)の仲間入りができたのに」


そんなことは誰にも分からない 無理をして出ていたら勝てなかっただろう
テニス生命を危うくしたかもしれない

もっとも大切なのは、テニスの後も人生は続くと心に留めておくことだ
私は過激なトレーニング、試合のしすぎなどで体を壊して、人生を棒に振ろうとは思わない


次はニチレイ・レディースのために東京に飛んだ
決勝戦はメアリー・ジョーに勝ち、きれいなペンダントをもらった
それを身につけるたび、私は東京で過ごした素晴らしいひとときを思い出す
(日本に悪いイメージがなくて良かった ほっ

11月はヴァージニア・スリム・チャンピオンシップ
決勝戦の相手はマルチナ 彼女の運動能力はおそらくテニス界随一ではないだろうか
6-4 3-6 7-5 6-0で優勝
1年間で10以上のトーナメントを制した7人目という名誉が与えられた

1991年は素晴らしい年で、多くの教訓を学んだ
しかし、私は会見もインタビューもたいてい愉しんできたつもりだ
コートでは見られない私の一面をファンに見てもらえ、
記者とのつながりを深めるいい機会になる
私はマスコミとの関わり方を学んだ



PART5 心の傷痕




「パルヘの手紙」

パルヘがドイツ人陸上選手らに送った手紙で、警察記録に収められている

「ハイケ・ドレクスラー様(ドイツ人陸上選手)」

今日まで私はあなたを高く評価していました
しかし、今はとても失望し、深く傷ついています
あなたがグラフはドイツ語もろくに話せない、などとラジオで言ったのは悪い冗談だと思いました
彼女は天国から我々につかわされたに違いありません
シュテフィの名誉を傷つけようとした者は誰しも
重大な天罰を受けることを知るべきです



「親愛なるグラフ夫人」

あなたの“愛らしいお嬢さん”の誕生日に50マルク同封しました
これで24本の花を買っていただけないでしょうか
彼女はあらゆる理想です


「親愛なるシュテフィ」

私はいくらかお金を同封しました
これでネックレスなど買ってくれたら、とても嬉しく思います
それを試合のたびに身につけてくれたら、あなたとファンを固く結ぶ友情の証となるでしょう
あなたに贈り物をしようと思ったのは、あなたがイギリスで身の回りのものを盗まれたという事件を聞いたからです
永遠の友人より


ガンの再発

<1993.11>
パルヘの2回目の公判が開かれ、今度こそ刑務所に入れられるだろうと言い聞かせた
1回目の判決後、眠りが浅くなっていたが両親には話さなかった
今思うと、自分の弱さを認めるのが怖かったのだろう
パルヘは私をすっかり意気地のない人間にしてしまった
それでも逆境に立ち向かえない自分が悪いのだと責めた

検査のためクリニックに戻る日、父母はミネソタに向かった
2日後、兄から電話があり

「今度は胃がんだ もしかしたら片方の腎臓にも転移しているかもしれない
 父さんはもう手術を受けたくないと言っている」

私はクリニックに電話した 父の声はまるで生気がなかった
「戦わなくちゃダメよ! 父さんがいなくちゃ私は何も出来ない」

父は折れて手術を受けた 10日後、家に戻った時は抱きしめるのもためらうほど痩せ細り
手術痕はまるで内臓を根こそぎ取られたようだった しかし手術は成功だった

私のカムバックは、父が必死ですがりついていたものの1つだったと思う
私が父を必要としていることが、がんと闘う気力を与えたのだと思う


心の中の悪魔

<1993.12>
毎晩のようにハンブルクの夢を見た
スタンドを振り返るとパルヘがいる
審判に「あの男は私を襲おうとしている!」と訴えるが
審判の顔はパルヘに変わっている 前日かぶっていた帽子をかぶって

両親の席には誰もいない 背中に強い痛みが走り、叫ぼうとしても声が出ない
「ポイント、マリーヴァ セレシュ、コートに戻りなさい 警告を受けますよ」
「私は刺されたのよ! どうして誰も気づかないの?」
私の目にナイフの刃が光る それが体に突き刺さり、私は何度も叫び声を上げる

「モニカ、夢を見ているのよ 起きなさい」母の声が聞こえる
毎晩、同じことが続いた

神に感謝したいこともあった
父が順調に回復したことと、迎えられなかったかもしれない20歳の誕生日を迎えたこと

パルヘの上訴も受理され、もう一度裁判を受けることになった
なのに、骨の髄に蓄積されたような疲労感があり、どこにも行く気になれなかった

肩は順調に回復しているとお墨付きをもらい、くたくたになるほどトレーニングをして
フロリダに戻ってから状況は悪化し、私はしばしば激しい憤りに駆られたが
寝室に駆け込み、じっと座り、何事もなかったかのようにまた出てくるのだ

私はパルヘの逮捕に関する警察の記録を何度も読み返すようになった
背中を刺すほど人を憎むなどどうしてできたのか? 繰り返し自問した
書斎にこもり、何時間も事件のことを考えるのだ

ヴェイルに戻って以来、またよく泣くようになった
体をつねった痛みで止めることができた

それがうまくいかないと、バスルームに入り
泣き止むと冷たい水で顔を洗い、微笑みをたたえて出る
それでみんなを騙せていると思っていたが、騙されていたのは自分だった

さらに見知らぬ顔に耐えられなくなった
そして黒っぽいダブダブの服ばかり着るようになった



過食症
「モニカ 1994年 全豪オープンで復帰」
1月早々こんな見出しがあちこちの新聞に載った 私はひと言も言っていない
1.6 出場しないことを正式発表した

テレビをつけると、オリンピック予選のリンクでナンシー・ケリガンが襲われたという臨時ニュースが入った
膝を押さえ、床に倒れているナンシーをカメラが映し、
父に抱き上げられ、泣きながら運ばれて行った

私は恐怖で震えが止まらなかった
またアスリートが競技場で暴行を受けたのだ

その時はまだ脚を金属の棒で殴打したのが
欲にかられた同じスケーターと夫の犯行とは誰も知らなかった

その事件まで、私の刺傷事件を深刻にとらえていた人は誰もいなかったのではないだろうか
スポーツ界でもやっと選手を守るために手段を講じるだろう

事件についてコメントを求める電話があり
私は短く、心から同情し、犯人が早く捕まることを望むと伝えた

それはその夜に報道され
「モニカはこの事件で怖気づき、全豪オープンの復帰を見送った」と見出しを飾った

私は新聞も読まなくなり、親に感情を隠す気力もなくなり、どんどんにはまりこんだ
ソファに寝ていない時は、キッチンで食べ物を探した 食べられさえすればよかった
アイスクリームのカートンを空になるまで食べた 味など全く分からない
(体重をすぐに増やすにはアイスとポテチってことね

母がアイスや菓子を買うのを止めると、私は朝5時に買出しに出かけた
誰にも気づかれずに買うことが出来、2月末には体重が64kgから80kgまで増えていた(!

21歳で私はすでに老人になった気分だった
それでも新聞は容赦なく、私のプライバシーに土足で踏み込んでくる


“城塞”に閉じこもる

<1994 冬>
私はすべてのインタビューを断った
記者は私の裏庭上空にヘリコプターを飛ばし、家の写真撮影を始めた
騒音で、父はよく眠れず、私もそれまで以上に悪夢にうなされた

自宅の敷地のまわりには高さ6フィートの塀がある
家の周りに塀をめぐらせるトップ選手は多い

事件以来、マスコミは私の家を非難するようになった
「塀は10フィート」「カメラや警報機があちこちに取り付けられた」
などとまことしやかに報道された

建築費用、構造などを調べ上げ、
「モニカもいい加減大人になって、人生がおとぎ話でないと知る必要がある」と書いた記者がいる

それを読んで思ったのは、世の中はさまざまな暴力に満ちているが
テニスコートでは一度もなかった それが分かっていたらテニス選手になどならなかった

彼は社会主義国家で暮らすことがどんなことか、
ビザを手に入れるにも、重要人物とのコネがなければどうにもならないことが分かっているのか

13歳で家族と故国を離れ、異国で暮らすことがどういうことか
記者は「父ががんで手術を受けなくてはならない」と聞いたことがあるだろうか?
背中に痛みを感じ、暴漢がもう一度振り下ろそうとしている経験をしたことがあるだろうか?



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