メランコリア

メランコリアの国にようこそ。
ここにあるのはわたしの心象スケッチです。

『私は負けない』 モニカ・セレシュ/著 徳間書店(3)

2018-12-31 14:02:59 | 
PART6 甦れ、私の魂




ストレス障害との闘い

<1994.3>
私と母はアメリカ市民になれた この時を5年間待った
アメリカ市民になるには、100の問題から市民権審査委員会がランダムに出題するテストにパスしなければならない

私たちはテストを受けるため、マイアミの移民局に行った
偶然、リプトントーナメントが行われていた

私も母も見事テストにパスし、合衆国に忠誠を誓い、美しい証明書を手渡され
パスポート用の写真を撮られた

贈り物には手に触れられるものと、そうでないものがある
父の愛 それは目に見えない贈り物の中で計り知れない価値がある

「こんな状態をこれ以上見ているのは父として辛くてならない
 ただ自分のことだけに気持ちを集中させるんだ」

「毎日しっかりしなきゃって言い聞かせるけど、そのたび恐怖が甦るのよ」

バスルームに走る私を追いかけて父はドアを叩いた

誰も自分の問題からは逃げられない
 もう一度ドクター・メイに会いなさい
 精神科医に行くからといって、お前が弱い人間ということにはならない
 何も恥じることはない 2週間で準備ができなければ、私はお前を飛行機に乗せるからね」

決心して、いざ行動を起こそうとしても、どうしても体が言うことを聞いてくれなかった
「ゾルタンと空港に行きなさい」

前回、メイに会った時、私は心理学でいう「否認」の状態にあった
タホーでは2週間診療を受けた 最初はただ泣いてばかりいたが、次第に信頼することが出来るようになった

メイ:
あなたは生きてはいるけれども、ほんとうの意味では生きていない
(耳が痛い でもほんとうの意味で生きている人間がどれくらいいるだろうか?
どんなことをしている時が一番幸せだと思う?

「やはりテニスをしている時だと思います」

「テニスを楽しみ、競技の世界にいる自分が想像出来ますか?」
「コートチェンジのイスは想像できないけど、裏庭のコートで、誰も見ていないなら」

「ほかには?」
「人と話をして、泣き出したりしなくなったら・・・」

メイ:
すべて出来るようになります
でも、困難な目標に達するのはた易いことではない
あなたが抱え込んでいる理不尽な恐怖を話してもらわなければならない
あなたにはきっと乗り越えられるはずです

今の私は「心的外傷後のストレス障害(PTSD)で、
それはむしろノーマルだと言われるのは私にとってとても意味のあるこっとだった

私はまず「心理学のABC」と呼ばれる治療に入った
A(情動 affect)、B(行動 behavior)、C(認識 cognition)
感情・行動・認識のバランスが取り戻せれば、抑うつ状態を克服できるということだった

同時に外の新鮮な空気を吸い、体を動かすのも恐怖・不安を克服する有効な手段で
毎日庭を散歩することを提案した

メイ:これからはどんどん人のいる所に出て行くように

(同じことを言われても、“やる”か“やらない”かだな
 それには“やろう”と思わせる「動機」が必要になる
 これらはパニ障の「認知行動療法」と同じだが、それを専門とする医師はまだ日本に数人しかいない

診療が終わる頃はすっかり精根尽き果てていた

メイ:
診療ばかり続けることは出来ません
5週間後にまた戻ってきてください
そうして数週間おいて、1日数時間ずつ10日間の診療を続けましょう

ベッツィから電話で誘われ、私と母はオーランドにむかった
裏庭でコートを眺め、テニスがもたらしてくれた素晴らしいことを思い出してみた
それがすべて奪われた憂鬱が甦り、私はまた警察記録を読み直し、1カートンのアイスクリームを食べた

まず両親と裏庭を歩くことから始めた
小さな目標からだと言い聞かせた

(認知行動療法は、信頼できる専門医と少しずつ根気よくやるもの
 そうした人間がそばにいない場合は、一人でこなすのは困難だ


マイナス思考を追い払う
私はまたタホー湖に戻ると約束した 私は約束を破るのが大嫌いだ
メイはオリンピック選手、私と似たような精神状態の人々も
これまで何度も治療し、気づくと驚くほど信頼するようになっていた

実際の事件について話し合うことも始めた
血に染まったシャツ、ナイフ、パルヘの顔、悪夢
コートに出る姿を想像できないことについて話すのは初めてのことだ

その後、「悪夢とマイナス思考を抑制するテクニック」の訓練に入った
基本はプラス思考に切り替えることでマイナス思考を捨て去り、自分を褒めてやること

1.認識すること
2.思考停止法

たとえば、悪夢を見た時など、過度な不安に襲われた時
「ストップ」と行動を止めて目を覚ます
「フォーカス(集中)」と言って、プラスの記憶でマイナス思考を追いやる
それにより悪いイメージがろ過され、いいイメージだけが残るようになった

一番大きな問題は、事件を自分の問題として捉えていることだった(同化しちゃうんだよね
それには時間がかかったので、並行して3番目の習得に入った

3.リラクゼーション(系統的脱感作)(筋弛緩法みたいなものか?
16の主な筋肉を緊張させてから弛緩させる
意識が頭から体に移り、恐怖を忘れさせる
リラックスと恐怖を繰り返すうち、相互に抑制し合い、恐怖が薄れる

メイ:
歩きながら、人の中にいて心地良いと思うようにします
周りの人たちに「こんにちわ」と声をかけてみてください

私の心臓は早鐘を打ちはじめた

翌週、効果を見届けると、メイは不快な状況をイメージさせた
またトーナメントでプレーする姿がイメージできるまでは1年かかった

1週間後、兄とスーパーに入り、私は何度も肩越しに後ろを振り返った
「必要なものを買って出て行くだけだから」
2度目はうまくいった


コートに立つ
メイ:コートで4、5分打ってみてはどうでしょう?
出来ません それはまた競技の世界に戻ることだから

メイ:今、何を考えていますか?
試合のブレイクの時に座るイスを想像すると事件が甦るんです

メイ:
あなたはタホーに来る時いつもラケットを持ってきていると兄から聞いています
あなたはテニスがしたい ここは朝はかなり冷え込みますから
そんな寒い時間にテニスをする人はいませんよ

翌日、コートで私は30分、我を忘れて打ち合った
だが、呼吸を整えるために止まった途端、恐怖が一気に甦った

メイ:
あなたは充分頑張った 今日は30分 次は40分
小さな目標に1歩1歩というのを忘れないで
(完全主義者、几帳面さも関係してるよね 全か無かの考え方も


オーランドにいる間、ベッツィといろいろ話した

「世の中には悪い人はいるものよ でもテニスなんてそれほど大事なものじゃない
 ただの生活の手段 どう自分の生き方を選ぶか、安らぎを見い出すかがずっと大切」

彼女はよき相談相手で、テニスの楽しみを再発見させてくれた

「ダブルスのトーナメントの準備をしなきゃならないの ちょっと私と打ってくれない?」

私たちは1時間打ち合った 気づくと時々、冗談を言うベッツィに笑い声さえあげていた

「これだけは言っておくわ あなたがプロに復帰しなかったら、テニス界の大きな損害
 あなたはやっぱり信じられないほどの才能の持ち主よ」

私はやはり勝ちたかった どうやら人間には決して変わらない性質があるようだ
とても気持ちのいい試合だった


あの日に帰る道
全豪オープンは私のお気に入りのトーナメントの1つだが、
理由はオーストラリアにはコアラがいるからだ

2番目の理由はグランドスラムで一番便宜のいい大会だから
スタジアムまで自転車で行けるし、レストランも揃っている

3番目の理由は、グランドスラムの中で最も静かな大会だから
オーストラリアの観客はとても穏やかで協力的だと思う

4番目の理由は、スタジアムが数分のうちにアウトドアからインドアに変えられること


<1992 全豪オープン>
私にとって比較的楽に勝てたグランドスラムの1つだ
メアリー・ジョーとの決勝戦は3セットにもつれこむのだけは避けたかった
6-2 6-3で破り、2度目の全豪オープン優勝を果たした

<5月のバルセロナ 初出場>
選手はある程度の数の大会に出なければならないが、その数は増やすことができる
私はこの大会を初めて増やした

決勝戦の相手は、バルセロナ生まれのサンチェス
1992年のバルセロナオリンピックがあと数ヶ月で開幕という時期だった
観客は公平だったが地元選手の優勝を望んでいた
サンチェスはあらゆる球に食らいたが、3-6 6-2 6-3で優勝できた

<イタリアンオープン>
決勝戦でガビーに敗れた

負けるのは好きではないが、誰かに負けるとしたら私はガビーを第一候補に挙げる
彼女は勝っても負けても感じのいい人だ たぶん家庭環境が似ているのではないかと思う

彼女の両親も試合の間、いつも静かに座り、両者を平等に応援し
対戦相手の気をそらすような行為はしない
中にはそういうことをする親やコーチもいるのだ


アメリカ在住の選手にとって最も辛いことの1つは、ヨーロッパシーズンが長いことだ
ホテル暮らしでは、スーツケースの中身だけで用を足し、いつも違うベッドで眠る生活が続く

ローマで何件かのインタビューの録画撮りをした
それは全仏オープンに放送される予定で、私の髪はブロンドだったが
直前に私は髪を黒に染めた

パリ在住の友人がブルネットのほうが似合うと言い、私はそれが気に入った
更衣室に入った時、サンチェスはまったく私に気づかなかった

試合後、マスコミは怒り狂った
ローマで撮ったインタビューがすべて無駄になったと言われ
私は平謝りして、撮り直せるかぎりインタビューを撮り直した

全仏で3年連続優勝したのは、ヒルデ・スパーリング(1935~1937)だけだった
スタミナからみれば、1992年の全仏オープンほどきつい大会はなかっただろう

4回戦の雉牟田明子戦(!)では失神寸前になったが
なんとか反撃できたのは幸運としかいいようがない

私は浪費家ではないが、さすがに気晴らしに買い物に出かけた
昔からファッションに興味があり、中でもお気に入りはシャネル

店に入ると、ジーンズにスニーカーの18歳の少女に誰も声をかけなかった
そのうち私に気づき、試着するかと尋ねてきた

一番気に入ったのはグリーンのスーツとヘアバンド
「もし次の試合に勝てたら、母も連れてまた来るわ」

準々決勝に勝ち、母は「小さな車が買えそうな値段ね」と言った

私はツアーに出るといつもその土地の思い出に何か買う
それがいい試合をするための動機づけにもなっている
「もし準決勝に勝てたら、ヘアバンドだけでも買いたい」

準決勝のガビーでは重い疲労感を感じた
こじらせた風邪と、飲んだ抗生物質がさらに悪化させた
その時の私をガビーは会見でこう評した
「モニカは疲れきったように見えましたが、いきなりまたハードヒットし始めた」

私はあのヘアバンドを思い浮かべて、勝つことができ、ヘアバンドを買った
スーツも手に取ったが「明日の試合に勝てたらね」

決勝戦の相手はグラフ(私が観た死闘はこの時かな?
6-2 3-6 第3セットには4回もマッチポイントを握りながら私には分かっていなかった
それほど消耗していた 最後、彼女がフォアハンドをネットにかけ
2時間43分、私は3度目の全仏オープン優勝を果たした

ブティックでスーツを買った 私は人生で何人もの人から影響を受けたが
このシャネルだけは私が自分で決めたものだ
そのスーツを着たのは1度だけ いつかは流行遅れになるが、それでも私はこれを着たいと思う


集中砲火

<1992 ウィンブルドン>
1991年の欠場をマスコミが蒸し返すことは分かっていた
どんな理由であれ、欠場したこと自体が、ロンドンのマスコミへの侮辱なのだ

案の定、タブロイド紙はまた私のかけ声を取り上げ、1つの癖ではすまなくなっていた
数人の選手が苦情を訴えていると書きたてた

どのグランドスラムでも自我、怒り、欲望が爆発しそうになる刺激的な大会だが、
ウィンブルドンは名声、誇大宣伝に翻弄されやすくなる
そこで勝ちたいという強いこだわりが選手の最良のものを殺してしまうことがある


<WTA公式ツアーブック 女子規則4・3・3>
うなり声など、通常のプレーを妨害する行為にはポイントが減ぜられる

最初に利用したのはナタリー・トージアだった
これまでも数々対戦し、一度もかけ声について文句を言われたことはなかった

準々決勝で私が6-1、第2セットで3-3になると、不意にナタリーは主審に話した
「セレス トージアはあなたのたてる騒音に困っているそうです」
私には何のことか分からなかった

プレーを続け、またナタリーは主審に言った
「声を落とさなければ、あなたに警告します」
「私は悪態をついたり、奇声を発したり、コートにラケットを投げつけたりはしていません」

私はそれまでいつもかけ声を発してきた それが今になって突然警告を受け
試合の流れを止められた 私はなんとしても勝とうと闘志がわき6-3で取った
翌朝のタブロイド紙には「セレシュ、かけ声で罰金」などの見出しが躍った

準決勝はマルチナ これまでウィンブルドンで9回優勝という輝かしい記録をもっている
第1セットは6-2で取り、第2セットはタイブレイク

その時、マルチナが審判に向かった
「セレシュ、ナブラチロワがあなたのたてる騒音に苦情を言っています」(マルチナまで!?
タイブレイクはマルチナが取った

第3セット 私が調子を取り戻したその時、またマルチナは主審に言った
「ブタ」という言葉が聞こえた 私はまた忠告を受けたが、その試合に勝った

マルチナの会見後、すれ違う際、

「モニカ、ちょっと話せるかしら? コートで言ったことについて謝らせて
 カッとして我を忘れてしまった ごめんなさい」

彼女は私の声を「ブタの叫び声のようだ」と言ったことが後に知らされた
彼女は、私の集中力をそぐような選手ではない
自分の調子が落ちるにつれて耳障りになったのだろう
きちんと直接謝罪してくれて嬉しかった

それでも新聞にはマルチナのコメントが載った
「彼女が意識的にしてるのは分かりますが、意識的に止めることはできるはずです」

私の味方は誰もいなかった
テレビでは私に罰金を科すべきか、試合出場を禁止すべきか議論を戦わせ
これ以上耐えられず、打ち方を変える決意をした 打つ時に息を止めるようにしたのだ
それは私の人生最大のミスの1つだった

決勝戦の相手はグラフ
雨の3度の中断で5時間半に及んだが試合時間はたったの58分
2-6 1-6で負けたことより、決勝戦では誰も私の声をやめろとは言わなかった
やめたのは私の決断だ

父は試合前に言った
「自分のテニスのスタイルを守らなくてはいけない 全員の意見に耳を貸すことなどできないのだから」

私はまだ18歳で、誰からも好かれたかった
約1ヶ月、私は方々から叩かれ、崩壊寸前だった

タブロイド紙の餌食にされたのはグラフも同じだ
でも、彼女の記事は父親の問題だった


ほんとうの強さとは

<1992 全米オープン>
私が落ち込み、スタジアムの観客席でほかの選手の練習を見ていると
アーサー・アッシュが横に座り、いろいろ話した
彼にはなんでも話せた

「タブロイド紙のことを考えるのはもう止めなさい
 ただ、自分のテニスのことだけ考えて、突き進めばいい

彼こそこれまで数え切れないほどの困難を経てきた人だ
1943年に彼が生まれた当時は、人種差別が法としてまかり通り
黒人というだけでどのジュニアトーナメントにも出られず
陳情活動を経て、1961年全米学校対抗トーナメントに出て優勝し
UCLAに進学し、大学の代表チームを全米学校対抗選手権シングルス優勝に導いた

プロ転向後も、彼を認めたがらない人々と戦い
1975年ウィンブルドンを制し、世界ランキング4位になった
マスコミが彼の病名をエイズと突き止め、世界中に報道してからも
優しく実直な性格は変わらなかった

その彼からの言葉がどれほど意味があったか
おかげで私はサンチェスを下して再び全米オープンを制した

肝心なのは、自分の考えなのだ
それが出来て初めて人はほんとうに強くなるのだ




PART7 恐怖から勝利へ




<1993 全豪オープン>
20時間以上の飛行機内で首を寝違え、トーナメント・ディレクターから
カイロプラクティックをすすめられ、いきなり反対の方向に首を回した
骨の鳴るすさまじい音がして、痛みが取れるまで3日ほどかかり
それだけ経てば良くなっていたのではないだろうか(w

今回は家族全員が一緒で、終わってみれば、これまでのグランドスラムで一番楽しめた大会だった

NO.1になると、自分の地位を守らなければと思いながら留まるのはとても難しいことだ
ハシゴを登るほうが、一番上にいて、誰かに蹴落とされるのを待つよりずっと易しい
私は守りのテニスをしていたが、また自分本来のテニスを取り戻せた
3度目の全豪オープン優勝に興奮した

今回はシカゴでも優勝できた

パリでは疲れが出たが、ダブルスにはぜひ出たかった
試合は23時にやっと始まり6-4 4-6 私もベッツィもとにかく負けず嫌いな性格
握手するまで諦めるつもりはさらさらなかった

勝利したのが午前2時 準々決勝はその日の11時から
その日のことはほとんど覚えていない

決勝戦はマルチナ 第3セットでは吐き気さえ覚えたが勝ち
フロリダに戻ると、診断は悪性のウイルス感染
休養を指示され、兄とジャマイカに行き、砂浜に横たわると
たび重なる移動と試合でどれほど自分が疲れていたかやっと分かった

前人未到の全仏オープン4連覇の前にバルセロナに出たかったが
まだ体調が万全でなかったため、ハンブルクのシチズンカップにした

1つ気になることがあり、1991年以来ドイツには行っていなかった
ホテル前で車を降りようとした時、知らない男がいきなり裁判所からの召喚状を突きつけ
男は英語が話せず、私はドイツ語が分からない
まだ私にはボディガードはおらず、運転手が間に入った

私がまだユーゴスラビアのジュニア選手の頃、代理人だったドイツのエージェントからの書類で
アメリカに移り、別の代理人を選んだことに告訴する内容だった

トーナメントが始まる4日前に「ワイルドカード」を申請した
出場予定のなかった選手の出場を認めるもので、一定数設けられており
ランキングは低くても人気のある選手や、上位選手などに適用される


セナの死
1993年に学んだのは、永遠に勝ち続けることは誰にも出来ないということ

<事件から1年後の1994.4.30>
私はベッツィらと過ごしていた
ベッツィの兄が言った
「悲しい知らせだ アイルトン・セナがたった今レース中に事故で死んだ」

1993年にイタリアの彼のトレーラーで話したのを覚えている
「あなたは運がいいわ 自分が大好きなことをして、今の私のように恐れる必要もないから」

セナ:
僕はレース中に刺されたりした経験はないからどんな気持ちか想像できないけど
マシーンに乗ってコーナーを曲がる時に感じる恐怖はよく知っている
それを乗り越えれば、素晴らしい気分が味わえる

彼は一瞬一瞬がまるで人生最後のように生きて死んでしまった
事故から1年たっても私はまだ人生を生きていなかった
来年までには人生をほんとうに生きられるようになろうと強く思った


メイ:あなたは自分のためにテニスをしなくてはなりません
毎晩ナイフが夢に出てきて、血まみれのシャツの臭いがして・・・

メイ:前進するためにはそれを受け容れなくてはいけない 診療を受けているのもその第一歩です

11月、1年を通じて最も勇気ある若いアスリートに与えられる
アレテ・アウォードのプレゼンターとして授賞式に招待された

マネージャー:
受賞するのは、ソニヤ・ベルという13歳の盲目の体操選手で、あなたは彼女のヒーローなのよ

その少女は目が不自由にも関わらず、平均台で宙返りをしたり出来るのだ
人々の前に姿を現すのは約1年ぶりだが、とにかく行くことにした

少女と彼女の両親のいるテーブル前を通り過ぎると

「あなたがモニカ? あなたのことはいつも見てる
 すぐに分かるわ だってかけ声が聞こえるから」

とうとう私のかけ声を評価してくれる人が現れた!
本当に素晴らしい夜だった


今を生きる

<1994.11>
私は友だちを訪ねてシアトルにいた

その男の人は、大きなデパートの雨よけの下で歩道に座っていた
傍らには中型犬がいて、とても可愛らしく口にカップをくわえていた


ホームレスとして生きるのはどんなに厳しいことだろう
履歴書に書く住所もなく、連絡をとる電話番号もなく、どう職につけるのか

私はおずおずと声をかけ、コーヒーを2杯買い、男の隣りに座り話し始めた
私は普段それほど人に簡単に心を開くタイプではないが、
その時はとても自然に感じられた

「私はテニスプレイヤーだったんです でも、試合中に刺されたの」

「オレはヴェトナム帰還兵で、今も戦争が頭から振り払うことが出来ないんだ・・・」

私たちは1時間近くも話した 最後にいくらか現金を差し出した

「私は明日ここを離れるから、もうあなたに二度と会えないと思う
 だからお金は受け取ってくっださい ただ1つ約束して欲しいのは
 これでお酒やタバコを買わずに、あなたの犬になにか美味しいものを買うってこと
 ほんとに可愛くて、連れて帰りたいくらい」

「約束する できるならこの犬をあげてもいいが、こいつはオレの命綱なんだ
 オレが話しかけ、抱きしめることのできるただ1つのものなんだよ」

私はこれからもっと現在に心を向けなければ
もう二度と“明日から”という言葉を口にすまい “今”から始めるのだ
そろそろまた人生を始めてもいい頃だった


事件のビデオ

<1994.12.2>
21歳の誕生日 もはや誰も子どもだと大目に見てくれなくなる
私の気持ちはまた次第に下降線をたどった
明日から1日5000kcalも食べるのは止めよう 明日から、明日から、明日から・・・

家族は私の誕生日を祝いたがり、ケーキが用意された
「願いごとをして」

私は小さい頃、とても迷信深い子どもだった
だが、今は願いごとなど信じないと叫びたい

父が私に家族からとシンプルな金のブレスレットを渡した
「来年はもう面倒なことなんて何も起きないよう、みんなで祈ってる」
私の気持ちはまた少し軽くなり、実際、いいほうに向かい始めた

クリスマスの日、両親はもう1つブレスレットを買いたいと言い
亀とてんとう虫のどちらかと聞いた
亀は長寿、てんとう虫は幸運のシンボルだ
私は亀を選んだ 長生きができればどんなことでも乗り越えられると思った


<1995.1>
メイ:
そろそろ事件のビデオを見るべきでしょう
そうすることで、あなたはその叫び声を本来の場所に返して、次の段階に進むのです

私は両親とともにハンブルクの試合の録画を再生した
見たのが夜だったため、不気味な悪夢のような雰囲気になった

コートチェンジ 悲鳴が聞こえた それは傷ついた動物の鳴き声のように聞こえた
私はヨロヨロと前に進み、背後に男性が現れ、その人に肩を抱かれて倒れこんだ

私ははじかれたように立ち上がり、部屋を出た それ以上見るのは耐えられなかった
とても辛い夜だったが、私にとって前進するきっかけになった


「クラブハウスのコートで打ってみたい」ある朝、私は父に言った

その夜、他にもテニスをしている人が何人かいて、
「どうか試練を乗り越えて復帰してください」と言われ
私は初めて泣かなかった


幸運のブレスレット

<1995.2>
マルチナから電話があった
「私は長いこと練習してないの 少し相手をしてもらえない?」

彼女は愛犬KDと一緒にきた キラー・ドッグの略で
ある年の全米オープンで、彼女は試合中、更衣室にKDを残していた
私が入ろうとするとKDが今にも咬みつきそうな勢いで立ちはだかり近づけない
最後に係員を呼んで出してもらった(w

その日、マルチナとラリーをした後、トランポリンで飛び跳ねた

「私たちはみんな、あなたにツアーに戻ってほしいと心から思ってる
 決めるのはあなただけど、みんなが歓迎することは知っていてね」

帰る際には、美しいブレスレットを外して、私に渡し

「これは私にたくさんの幸運を運んでくれたものよ」
「もらうわけにはいかないわ」

「それじゃ、あなたがカムバックした時に返してくれたらいい」
「カムバックしなかったら?」

「返さなくてもいい それでもそれはあなたに幸運を運ぶはずよ」

マルチナはとても寛大な人だ
そのブレスレットをなくしたらどうしようと数ヶ月に1度しか身につけなかった
悪夢で眠れないような夜には眺めた 少しずつ自分のカムバックについて考えるようになっていた


カムバック
3月半ば、私は初めてカムバックのことをベッツィにほのめかした
どうツアーに復帰すればいいか 問題はいくつもあったが
彼女の夫マークはうってつけの人物で喜んで手を貸してくれた

「私たちは過去を追いやり、前に進むべきと考え、
 IMGの責任者に手を貸していただきたい
 スポンサーとの訴訟、ドイツテニス協会と係争中の警備の不備に関する訴訟
 この2年間の費用を弁済したい」


マーク:
計画の第一は練習の強化
第二は、2年間公式戦を離れていたから、エキシビションから始めるのがいいと思う
カムバックは1995.7に考えてみよう 4ヵ月後には君はコートに姿を現す

警備の規準が話題になった

父:
モニカは2つのボタンのついたイスに座っているようなものだ
1つのボタンを押すと100万ドルが入る
もう1つを押すと彼女は死んでしまう


それは見事に言い当てていた 私はバスルームに駆け込み涙を止められなかった
私は彼に負けてないことを示したくて戻るのではない
テニスがしたい欲求を抑えがたいからだ

早速、毎日、練習し、ダイエットに励んだお蔭で3月末にはかなり調子が良くなった

パルヘは2度目の公判に臨もうとしていた 今度こそ罪を免れないと確信していたが
ドイツのマスコミは前回と180度論調を変え、再公判の支持の代わりに、私に攻撃した
私は哀れな子羊を糾弾するスタープレイヤーにされた

弁護士「あなたにもドイツで証言してもらったほうがよさそうです」
私を刺して、自白しただけでは有罪に不十分だというのだ
証言の間、パルヘに背を向けて座るのだけは絶対に耐えられなかった

ドクター・メイはその役目を快く承諾してくれ、私の精神状態についてはっきり証言してくれた
その後、電話で「今の君にはかなりの負担だったろう」と認めた

マネージャーから電話があり、「パルヘはまた無罪になったわ」
2年の保護観察付きの執行猶予という最初の判決が二審でも支持された

「これ以上重い刑罰は不適切 我々の法律は“目には目を”の原則ではない

弁護士は最終上訴の準備に取り掛かったが、私は自分の恐怖しか考えられなかった
タクシーに乗り「どこでもいいから走って」
何時間もタクシーに乗っていた

もう正義は勝ち取れそうにない テニスに戻るか、ほかのことをするか
とにかく、これを乗り越えなければ先には進めない

エキシビションの相手にはマルチナが決まった


新しい人生
6月の全仏に合わせてフランスに行くことになり

マーク:
その前に身体障害者のためのスペシャルオリンピックの国際大会がある 1995年最大のスポーツイベントだ

私の試練の2年間、ヨネックスは企業として驚くほど協力的で
思いやりのある人たちだった(!

ほかの数社の代表者との会見も希望したが、会う機会は持てず
結局、約1年半係争することになった

2人のカメラマンが走り寄ってきた
これで世間はセレシュがパリで姿を現したと騒ぎ始めることだろう
計画がしっかり固まるまでは秘密裏にことを運ばなければならない


復帰第一戦
<1995.7.25 モニカ、コートに復帰 対マルチナ戦 CBSで生中継>

記事:
事件前までの戦績は、出場した8大会中、7度の優勝
マルチナは1994年11月にシングルスから引退したが
グランドスラム優勝18回、通算167優勝の記録を誇る
男女問わずテニス史上最も総合的な力のあるチャンピオン
また、シングルス、ダブルスとも最多の連勝記録保持者
今月のウィンブルドンではグラフと組む予定もある(!


スペシャルオリンピック国際大会で、私はできるかぎり選手の指導に努めた
トニーは、私のためにソニアと話せる手配をしてくれ、素晴らしい再会だった

その日は1日中、父、トニー、広報担当のリンダが付き添い
世界中から集まった300以上のマスコミが私の動向を逐一追った

出会った選手一人ひとりに私は心を揺さぶられた
その数週間後、私は「今月の真面目なアメリカ人女性」に選ばれ
その賞金はスペシャルオリンピックに寄付した


エキシビションまで3週間 まだ決まっていないのは会場だけ
大きな会場は数ヶ月先まで予約が詰まっていた
ようやくアトランティック・シティ・コンヴェンション・センターに取ることができた

スタンドの数千人の観客、世界中のテレビ視聴者の前でいいプレーができるのか?
2週間前になり、両膝が痛みだし、歩くのも苦痛になった
診断は腱炎 休養はムリなため、内股を強化する運動をして、ランニングはすぐ止めるよう言われた

車から降り立つと歓迎のセレモニーが始まった
「彼が来たらどうしよう? また襲ってきたら?」
「シーザーズ・パレス・ホテルは最高水準の警備を誇る」とマークが言った

コートには大勢の記者が待ち構えている
ベッツィとマークで夕食に出かけたが、極度の緊張で食べられなかった
ベッツィ「ただ愉しむことだけ考えて」

奇妙な夢ばかり見た コートに向かうのに何度もつまずき
怪物の顔が現れ、あっという間に朝になり、気づくとコートに向かう時間

父はコーチではなく父親としてアドヴァイスをくれた
「ただコートに行って愉しんでおいで お前にはもうそれが出来るんだから」

更衣室ではマルチナが

「人生にはいろいろなことが起きる でも、肯定的にとらえることね
 私も最後のシングルスの試合ではとても緊張した
 人の期待に応えようなんて思わないこと

コートに入った途端、割れんばかりの拍手と歓声が起き、総立ちになった
これがどれほど意味があるか、どう伝えられるだろう? もう大丈夫と自分に言い聞かせた
私は復帰最初のサーヴをダブルフォルトして笑わずにはいられなかった

素晴らしいショットもあったが、酷いミスもして6-3 5-2となった時
突然どうしてもゲームを終わらせることが出来なくなった
マッチポイントを握りながらダブルフォルトを重ね、
なんとも弱々しいサーヴでマルチナはリターンエースを狙ってきたがわずかにラインを割り
私の勝利が決まった

マルチナ:見事に復帰を果たしたわね あなたは立派に復帰したのよ



PART8 私は負けない




ランキング問題
私はどこまで順位が落ちていようとツアーに復帰するつもりだったが
私の順位は1つも落ちなかった

WTAツアー・プレイヤーズ協会会長マルチナのおかげで
グラフと同じ1位にすべきだと提案してくれた
彼女の主張は周囲の猛反対を受けた

WTAから書類が送られ、私はただサインした
残念なのは、その後ウィンブルドンでトップ選手が話し合いの場をもち
マルチナの提案に同意できないと声明を出したことだ

WTAと選手の間で数週間話し合われ、結果提案が通った
私はその地位に恥じないプレーをして、みんなに示したいと思った

WTAの決定には別の思惑もあった
復帰すれば私がいいプレーをすることは分かっていた
彼らは私をワイルドカードで出場させたくなかった
序盤戦でトップ選手と当たる事態を避けたかったのだ



孤独なプレーヤー
事件後、さまざまな記事を見たが、中には「セレスはマスコミの馬鹿騒ぎを愉しんでいる」
「ツアーを離れたのは保険金を手に入れるため」など根も葉もないものが多々あった

記者やコメンテーターの中には、自分たちの目的のために利用する者もいた
「大した怪我でもないのに、世間の注目を浴びたいために大げさに騒いだ」など

トップテン選手はツアーの同じレヴェルの選手と友だちにはなれない
友だちは互いに秘密を打ち明け、弱さを共有し合うものだが
ツアーでは誰にも弱味を見せることはできない

それに対して下位の選手同士は緊密な友情が生まれやすい
遠征の費用を分担し、部屋やレンタカーを共有しなくてはならない
少しでも稼ぐためにダブルスを組むこともある

トップ選手は友情を育てる時間がないのも実状だ
たとえば全米オープンで、試合が13時から始まるとする
朝食、ストレッチ、会場で30分の練習、試合に向けて集中

試合後、シャツを着替えて会見、ホテルに帰り休息
その後は、ツアーに関係ない家族や友だちと過ごしたくなるものだ

トップ選手と唯一愉しく過ごす機会はエキシビションマッチぐらいだろう


確かな勝利
世の中には決して人に害悪を及ぼさないものがある
「レイト・ナイト・ウィズ・デイヴィッド・レターマン」
(アメリカのテレビ司会者によるトーク番組)もその1つ

私はレターマンのファンで、事件前にトーク番組に出演したこともあった
事件後もスタッフから依頼が来ていたが、私は何も話すことはないと思っていた

1995.8 ようやくデイヴと会う心の準備が整った
私は番組では道化になろうと思った
それがスタジオに入るなり、聴衆は総立ちで、番組が終わる頃には
私はまた人生の流れに乗りはじめたとはっきり思えた

私はツアーに復帰したが、エキシビション以来左膝の腱炎が悪化しており
8月のカナディアンオープンを選んだ
ベッツィはスポーツチャンネルESPNのコメンテーターをする予定で心の支えになり
大会初日の夜、みんなで復帰祝いパーティを開いてくれた

最初の試合は8.15 観客が一斉に立ち上がりウェイヴをつくり拍手した
6-0 6-3 で勝利を収めた

3回戦はナタリー・トージア
私のかけ声で何度も審判に抗議したのが最後の試合だ
それも過去のこと 祝いの言葉はなくても、挨拶ぐらいはしてくれるのではないかと期待したが
彼女は何も言わず私の前を素通りした
6-2 6-2 で勝利 かけ声の抗議は一度もなかった

トロント滞在中にはベッツィらとヴァン・ヘイレンのコンサートにも行った

準々決勝はアンケ・フーバーを6-3 6-2で下した

準決勝はガビー 私は大きな試合を前にするといつも悲観的になる
それは事件の前も後も変わらない
6-1 6-0 48分で勝利し、2年ぶりの公式戦で決勝戦まで進んだ

決勝戦はアマンダ・クッツァー
彼女は1回戦でグラフを破ったが、試合は51分 6-0 6-1で圧勝した

試合後、私はしばらく茫然としていた 父は泣いていた
私は、家族の絆の強さ、友だちの大切さをほんとうの意味で理解する人間になっていた


グラフ戦ふたたび

<1995 全米オープン>
2年ぶりのグランドスラム ベッツィの姿が見えない
6-3 6-1で勝ち、1回戦突破でこれほどの達成感を味わったのは初めてだった
父はまた泣いていた

ベッツィ:
私、ボックスを間違えちゃったの 自分ではちゃんと座っているつもりが
反対側を見たら、あなたのご両親がいるじゃない
でもスタジアムを周ってる間、試合を少しでも見逃すのがイヤだったから、ずっとそこにいたの
私を見つけた時のあなたの顔ったらなかったわね

翌日、セントラルパークを散歩していると、行く先々で「復帰おめでとう」と声をかけられた
ローラーブレードをつけた少年まで、ハイタッチしてくれた
MTVミュージック・アウォードのプレゼンターも務め、フットボールの試合も見た

4回戦 アンケ・フーバー 左膝が痛みはじめ、サポーターをして消炎剤を飲み
理学療法も受けたが悪化するのは目に見えていた
それでも6-1 6-4で勝利

準々決勝 ヤナ・ノヴォトナ7-6 6-2
モニカは必ず準決勝まで勝ち進むだろうと誰かが言ったとしても
私は決して信じなかっただろう 体重はいまだ超過気味で、充分な練習も出来ていなかった

準決勝 コンチータ・マルチネス 6-2 6-2のストレート勝ち
試合開始は17時 夕食後は、すぐに眠らなくてはならない

決勝戦 シュティフィ・グラフ
マスコミもファンも私たち2人の世界NO.1の対決をなにより待ち望んでいた
私は過去の出来事をなるべく考えないようにした
1ポイント1ポイントが接戦だった

第1セット シュティフィはリターンミスをして、私はガッツポーズし、完全にセットを取ったと思ったが
主審がラインパーソンのジャッジを覆した 「サーヴがラインを割っていました」
ラインに乗っていたと私は抗議したが、主審は一歩も譲らない
結局、第1セットを取られ、私の心は打ちのめされた

割り切って第2セットに進むことが出来なかった あのコールは不公平だと私は今でも信じている
(今の映像技術なら、当時の荒い画像でも分析可能じゃないかな

第2セットは6-0で取り、第3セットもまだ忘れることができないでいた
私の気持ちを変えてくれたのは観客だ 大きな声援を聞いて、私がほんとうに勝つかもしれないと期待していると知った

2-2 またもや主審はサーヴィスエースにアウトコールした
抑えようのない怒りがこみ上げ、すっかり集中力を失い、
シュティフィは全米オープンを制した

私は対戦相手に祝福の言葉をかけようとネットに行くと
シュティフィはボックス席に走り、母親を抱きしめた
かつてそんなことがあったか思い出すことができない
まず握手を交わしてから、家族らのところに行くのがマナーだ

後、シュティフィがその決勝戦を彼女の人生最大の勝利だったと言っているのを知った
だがそれ以上考えないことにした
トップ選手らが私は世界ランキング1位に値しないのではという疑念があってもそれは充分解消されたはずだ


あなたがいたから
選手の中には勝った時しかサインをしない人も多いが、私は勝っても負けてもサインすることにしている
負けた時もファンの温かい気持ちが伝わり、苦い敗北感を和らげてくれる
子どものファンを見ると、マルチナやクリスにサインを求めたつい数年前の自分を見ている気になる

私は卓球の世界選手権で中国選手にサインを求め、あっちへ行けと拒否されたことを覚えている
最後の一人にサインし終えるまでコートに残るようになったのは、そういう経験をしたからだ

ジュニアの頃、ジョン・マッケンローと一緒にカメラでポーズをとってもらったのもよく覚えている
彼は気さくにホテルのロビーに立ってくれた その写真は今でも大切にしている


事件前にもらったファンレター

「僕は9歳です あなたのようになって、両手でボールを打てるようになりたいです
 あなたのようにかけ声をあげたいです スコット」

事件後は、私の力になりたいという手紙がきた

「私はドイツ人だけど、どうか私を嫌わないでください ほんとにごめんなさい
 もしまた私の国に来てくれたら、私があなたを守ります バーバラ 8歳」


暴行、レイプされた女性など他人に話しづらいことを打ち明けるファンも増えた
重い病気をもつ子どもの親が、ハンディキャップを克服できるよう話をしてくれないかと訴えてくることもあった
事件後は、ボランティア活動に関わる機会が増えた

「私の息子は11歳で白血病ですが、治療を受けようとしません
 このまま息子が死んでしまうことを恐れています
 息子に電話して話していただけないでしょうか?」

治療を受けるようにという私の言葉に子どもたちは真剣に耳を傾けてくれた

ヒューストンの少女は、テニスが上手だったのに、事故で片腕をなくし、理学療法を拒みつづけていた
私は彼女と話し、治療の大切さ、またテニスができるようになると話した

試合に勝つか負けるかはどうでもいいこと 自分が好きかどうかがなにより大切なのだと話した
少女は治療を受けるようになってくれた

私はまだ若いので、子どもたちが心を開きやすいし、アスリートだからということもあるだろう
ファンは私のためにあるのではない 私もまた彼らのためにあるのだと分かった

また、テニスは人生の最初の通過点にすぎないことも分かった
引退後は、子どもに関わりのある仕事に就き、ファンが私に与えてくれた幸せを
私も与えられたらどんなに幸せだろう


光の中へ

<1996.1 ピーターズNSWオープン>
全豪オープンの前哨戦でシドニーに飛んだ
ピーターズ、全豪、東京 1ヶ月で3つの大きなトーナメントに出る野心的なスケジュールだった
体調も万全、プレーしたくてしかたないという気持ちだった

リンゼイ・ダヴェンポートとはピーターズの決勝戦で初顔合わせ
4-6 7-6 6-3でピーターズを制したが、鼠径部の筋肉を伸ばしてしまった

サンチェス×チャンダ・ルビン戦は、第3セットでチャンダが16-14で取り
女子テニス史上2番目に長い3時間33分で準々決勝を制した

翌朝、左手が肩より上にあがらないと気づいた
サーヴの時に鋭い痛みが走り、鎮痛剤を飲んでも効果なし
試合中は痛みをこらえる様子は見せず、6-7で第1セットを落とした

オーストラリアの誰もが私がこの大会を制することを期待している
1991~1993まで3連続優勝しており、
事件がなければ女子テニス史上前人未到の記録になっていたかもしれない
マスコミはこぞって、今大会で私が優勝するだろうと報じていた
すなわち私は勝たなくてはならないということだ 2年のブランクなど関係なく

第2セットは6-1 第3セットでマッチポイントを取られたが連取した

決勝戦 アンケ・フーバー 6-4 6-1
とうとうグランドスラムを制することができた
これが1996ではなく、1994のような錯覚に襲われた


「またドイツのトーナメントに出場しますか?」

「私にとって何より辛いのは、あなたも私の立場なら、私と同じ気持ちになると思いますが
 犯人が自由に暮らしている場所をまた訪ねて、身の安全を感じるのはとても難しいことです」

その2週間後、フェデレーションカップ監督のビリー・ジーン・キング
アメリカチームはドイツで戦うのを拒否すると発表した

「またドイツで試合をして初めて完全に回復したと言えるのでは?」男性記者はさらに突っ込んだ
「今はそのことは考えたくないんです」

私は不意に激しい感情に襲われた さっきまで悪夢とは無縁の気分だったのに
涙がとめどなくあふれ、野球帽を目深にかぶり隠そうとすると、激しいカメラのシャッター音が聞こえた
(マスコミはこの涙シーンが欲しかったのね

「このまま会見を続けても意味がありません」私は会場をあとにした
グランドスラムの勝者が会見途中で席を立ったのは2回連続のハプニング
全米オープンではシュティフィが父親のことで涙を流し、会見場を去った

私はドイツの人々も少しも恨んでいないと説明したい衝動に駆られた
いつか克服して、何人も友だちのいるあの美しい国でまたプレーがしたいと

メルボルンに「ヤング・エルダーズ」というバンドがあり
数年前に私の歌を作ってくれ、トニーの計らいで、スタジオを訪ねることができた
彼らはフライ、モニカ、フライ を歌ってくれた

夜はトニー、アンケ・フーバー、メアリー・ジョーでディスコに出かけ、ただ純粋に音楽を楽しんだ

この数年で私が学んだことは、何事も自分の思ったようにはならない
テニスを始めた頃、私は何かを自分に証明するために勝ちたいと思っていた
マスコミが私を優勝候補に挙げると、それに応えるために勝ちたいと思うようになった

だが、今はただコートに出て、いいテニスをすることしか頭にない
闇に包まれていた時、何より恋しく思ったことで、誰も私から奪えないものだ



【訳者あとがき 内容抜粋メモ】
久しぶりにモニカの勇姿をテレビで見た
全仏の準決勝 相手は今をときめくマルチナ・ヒンギス

両者のプレー態度は対照的だった 表情豊かなヒンギスに対して
見ていて息苦しいまでにプレーに集中し、表情を変えないセレシュ
逆転負けしてしまったが、コート外で奔放な言動が目立つヒンギスに勝負の厳しさを教えてほしいなどと
解説者が繰り返していた

試合後、イスで放心したようにいるセレシュが印象的だった
その時、父の健康状態が思わしくないことを伝えていた

本書は彼女の半生 まだ23歳の若さを思えば、1/4生を綴った自伝の全訳だ
事件後の800日の記録、トップに上り詰めるまでの生い立ちを巧みに織り交ぜたドキュメント

我が国でも地下鉄サリン事件、阪神淡路大震災などに巻き込まれた人々のPTSDが昨今問題になっている
日常に入り込んだ圧倒的な暴力に人生を狂わされた人々の
驚き、恐れ、怒り、哀しみ、不安、孤独、絶望はいかなるものだろう

彼女にはどうしてそれを克服できたのか

何より決定的だったのは、自分にとって何が一番大切か問いかけた答えが家族だと気づくことで
「ために」何かをするという、我々現代人が自らに課した束縛から解き放たれた
勝つためではなく、楽しむために始めたのだと改めて自覚するのだ

自分にとって何が一番大切か
この問いかけ自体、日々の仕事、家事、雑事に追われる我々が
忙しさの中で、案外見過ごしていることではないだろうか

1996.6








改めて、この本の出版年からして、彼女が20代前半で出版されたということに驚く
まるで、今、現在の成熟した大人になった彼女が、10代、20代を振り返って書いたようだ

人によっては、あまりに若いうちから人生の大半のことが詰まっていて
実年齢より、魂の年齢のほうが高い人がいるが、モニカもその一人なのだろう

「書いた」と言っても、こうした小説家ではない人が本を出す場合
インタビューを重ねて、ライターが文章としてまとめて構成、編集する場合も多い
最後に本人が読んでOKを出して、出版されるという形ではなかったかと思われる

読んでいると、早口で、表現力の高い彼女が、聞き手に向かって
あたかも今起きているかのように情熱的に話している様子が浮かぶ

そうなると、「自伝」とはいえ、他人の手が入り、出版社の思惑も入り、
モニカの嫌うタブロイド紙ほどの酷さはないにせよ、人々が最も知りたくて
本人が最も話しづらいことも多々あったことだろう
本人の記憶違いすらある可能性もある

ほんとうの「事実」とはどこにあるのか?
その時起きたこと、もう過ぎてしまった時間にしかないように思える

これは、裁判所や警察署にある記録ではなく、あくまで1人のアスリートである女性が受けた
想像を絶する事件をどうあがいて乗り越えたかという物語で
他にも同じテーマであらゆる記事が書かれた中で、最も「事実」に近いと思われる本だと信じるしかない

たとえ「自伝」にしても
「ここは、こんな風に話していない」「今思うとそう意味で言ったのではない」
と思う箇所もあるのではないか

時間はどんどん進んでいる

本書は全豪オープンで優勝した華々しい復活でめでたしめでたしで終わっていて、ホッとする反面、
このつづきのまたいろいろあったであろうテニス人生も本人の口から聞きたくなるが
彼女自身はもうこれっきり、詮索に終止符をつけるために
出版社からの依頼を止む無く受けたのかもしれない

人の好奇心、詮索心は尽きない性なんだな

モニカとグラフの数奇な縁も深いものだったとフシギな気がするとともに
私の中でグラフのイメージがだいぶ変わった

とても賢明であるとともに、国柄か、家庭環境の違いか、テニスに対する考えの違いなのか
とにかく、本書に書かれているグラフは、人間的に冷たく感じるけれども
みんな20代のテニス漬けの少女たちだったということか

トップの座を長年維持し、数多のとんでもない記録保持者の孤独、辛さは
私たちには計り知れない






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