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『永山則夫』を覚えていますか?

2009年10月12日 | 雲の日記

『永山則夫』を覚えていますか?

 皆さーん、おはようございまーす^^           

爽やかな良いお天気です.. 気持ちのいい日になりました。小さな子供の遊ぶ
声が聞こえてくる穏やかな朝になりました^^ 

子供の頃の私は、兄の部屋にこっそり行くのが好きでした。そこは私にとって
宝の山のようでした。沢山の本、ギター、(何故か大きな)ベット、エアコン.. 

ベットの下に隠してあるHな雑誌を見つけると、何故かドキドキしたものです。
(今なら過激な本ではないのですが、当時は子供だったので^^) 本棚に並ぶ

沢山の本を取り出しては読みました^^(いつも1/3位で挫折)
その中に『永山則夫(ナガヤマノリオ)』の『無知の涙』という本がありました。

随分昔の話なのに、強い衝撃は今でも鮮明に思い出させてくれます。その人の
番組..『ETV特集死刑囚 永山則夫』を昨日やっていたので見ました。(敬称略)

皆さんは『永山則夫(ナガヤマノリオ)』を覚えているだろうか??

永山 則夫(ながやま のりお、1949年6月27日 - 1997年8月1日)は、1968年
から1969年にかけて連続ピストル射殺事件(警察庁広域重要指定108号事件)
を引き起こした元死刑囚(既に執行)である。
1969年の逮捕から1997年の死刑執行までの間、獄中で創作活動を続けた小説家
でもあった。1983年、小説『木橋』で第19回新日本文学賞を受賞。

永山則夫(ナガヤマノリオ)を語る時、この人の生い立ちを考えないとならない..

(引用始まり)
1949年6月27日、北海道網走市呼人番外地に、8人兄弟の7番目の子(四男)と
して生まれる。腕のよいリンゴの剪定師だったが博打に明け暮れる父親の放蕩
生活によって、家庭は崩壊状態であり、現在で言うところのネグレクトの犠牲
者であった。1954年(当時5歳)に、母親が1人分しか汽車賃が出せずに則夫を
含む4人兄弟を網走の家に残し、青森県板柳町の実家に逃げ帰ってしまう(後に
書いたノートで母は悔いている)。残された則夫を含む4人兄弟は屑拾いなど
極貧生活に耐えてギリギリの生計を立てたものの、1955年に、4人を見かねた
近隣住民による福祉事務所への通報をきっかけに、板柳の母親の元に引き取ら
れた。母親は行商で生計を立てた。

1965年3月、板柳から東京に集団就職する。就職の際に取り寄せた戸籍謄本の
本籍が網走無番地であり、網走刑務所生まれと考えたため(実際には刑務所の
外だった)。
渋谷の高級果物店に就職し精勤し新規店を任される話まであったが退職、その
後も職を転々として全国を転々、どこも長続きしなかった。1967年4月、明治
大学附属中野高等学校の夜間部に入学するも、同年7月、除籍処分を受ける。
1968年4月、同校に再入学しクラス委員長に選ばれる。初めての犯罪は横須賀
の米軍基地内での自販機荒らしであった。(引用終り)(Wikipediaより)


そして“永山則夫連続射殺事件”が起きるのである。

1968年10月から11月にかけて、東京都区部・京都市・函館市・名古屋市に
おいて発生した、ピストルによる連続射殺事件です。その後、1969年4月
7日に逮捕された。

10年を費やした1審の審議では、1979年に東京地方裁判所で死刑判決を受けた
が、2審の東京高等裁判所では、心境の変化(下記参照)家庭環境・生育状況が
劣悪であった事、配偶者を得たことを酌量による減刑の理由として、犯行時
未成年であったことからその更生を期して1981年に無期懲役に減刑された。
1990年、最高裁で死刑判決を受ける。(Wikipediaより)

何の罪も無い人が4人も殺された残虐な事件ではありますが、犯人:永山則夫
の生い立ちについては、高裁・最高裁共に..

『永山則夫が極貧の家庭で出生・成育し、両親から育児を放棄され、両親の
愛情を受けられず、自尊感情を形成できず、人生の希望を持てず、学校教育
を受けず、識字能力を獲得できていなかったなどの、家庭環境の劣悪性は確
かに同情・考慮に値する...』

と言っている。彼は19歳と10ヶ月で逮捕された時、読み書きが出来なかっ
たと言われています。貧しくても劣悪な家庭環境でも、立派に育つ人は世の中
にいるでしょう..

でも“貧しいが故に”犯罪に手を染める人もいる.. そこまでの貧しさを私達
の社会は容認してきてしまったとも言えるのではないだろうか? 

日本国民は『健康で文化的な最低限の生活』を保障されていたのではないのか? 
どう考えてみても、永山則夫は“その基準”の遥か下で生きていたことは事実
だろう..

最近は『福祉に使われるお金』を快く思わない人が多くなった。
“自業自得だろう!”が理由だろうか? 無年金者に対しても『怠け者の年金

を税金から出すのは嫌だ!』と平気で言う.. 差詰め、永山則夫も『悪い親を
持った不運な子』で終わってしまったのだろう.. 金持ちは貧乏人を軽蔑し、

貧乏人はもっと酷い貧乏人を軽蔑する..それが日本人だと言っていた人がいた。
だから『北九州方式』などと言われる福祉の締め出しが大歓迎されたりするこ
とがあったのだろう。

永山則夫は処刑される直前に『自分の書いた本の印税を、日本と世界の子ども
たちへ、特にペルーの貧しい子どもたちに使ってほしい』という遺言を残して
いたと言う。

彼の支援を受けた、ペルーの働く子どもたちの自主運営組織“ナソップ”の
代表の一人である18才の子が『ナガヤマは<人は変われる>と身体で証明し、
希望を与えてくれました。彼の遺志を受け継ぎます。』と話したそうです。

生きる希望の無かった永山則夫に生きる希望を与え、そして命を奪うという
残酷な運命を彼はどう受け止めたのだろうか?? 

死刑囚永山則夫は1997年8月1日の午前、東京拘置所内ににて処刑された。
48才。

『ヒトは教育を受けて初めて人間になる』という言葉を思い出しました。

穏やかな天候が続きますね^^
今日も元気で ファイト!!                     






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