Dogma and prejudice

媚中派も媚米派も同じ穴のムジナ
従属主義的思考から脱却すべし
(言っとくけど、「媚米」と「親米」は違うんだよ)

日英同盟終焉の経緯

2007-05-28 | 歴史認識
 日英同盟時代は日本の安全にとっては、最良の時代でした。英国と日本という世界最強の海洋国が同盟しているのですから、空軍がない時代、日本の安全は一〇〇%守られ、また世界七つの海の航路と資源は日英同盟の思うままでした。それに、英国は米国と違って、日本に経済侵略を仕掛けませんでしたし。

■第1次世界大戦

 その日英同盟に試練が訪れるのは、第1次世界大戦で、日本が、英国に対して、同盟国としてどこまで協力するかでした。

 しかし、日本は結局、陸兵の派遣は見送り、海軍も巡洋戦艦の要請は断って駆逐艦の派遣にとどめました。

 日本が積極的でなかった理由は、日本が虎の子の巡洋戦艦を失うと、戦後の軍事バランスで不利になるという計算があり、さらにその裏には、山県有朋は白人間の戦争が終わると、今度は白人諸国が連合して日本に向かってくると考えていたからです。(この山県の懸念は、太平洋戦争として実現します。)

 こうした日本の中途半端な姿勢に対して、米国は桁はずれの大軍と大艦隊を送りました。それだけでも、戦後処理の過程で英仏が日本より米国の言い分を聞いたのは自明の理です。

 後年日英同盟廃棄の際、英連邦側の中で、賛否両論が伯仲していたことを考えると、日本がもう少し同盟の証しを立てようとしていれば、あるいは結果は変わっていたかもしれないとする専門家の意見もあります。しかし、貧乏国の日本としては致し方ないことだったかもしれません。

 一九一七年一月、米国のウィルソン大統領は、従来の帝国主義外交を否定する十四原則を発表し、これを掲げて四月に対独参戦します。 ここにアメリカ外交が世界の舞台に登場し、その後の二十世紀の国際社会は、理想主義と孤立主義の間を揺れ動くアメリカの世論と、国際政治の現実との相克の波間に漂うことになります。

■国際連盟の発足

 国際連盟規約はパリ会議で採択され、国際連盟が発足しました。しかし、アメリカの上院では、批准に必要な多数が得られませんでした。ウィルソン大統領は、共和党のハーディングに敗れて万事休します。米世論が、米国が国際世界の安全にコミットして旧世界の紛争に巻き込まれるのを警戒したからです。ここから米国は孤立主義の色濃い時代に入っていきます。

 その当時のアメリカの外交意図は二つありました。

 一つは建艦計画見直しです。建艦というのは、他国との軍事バランスを考えてやっているわけですから、予算削減のためには、他国との軍縮交渉が必要になります。

 もう一つは、中国において、日本及び欧州列強の特殊権益を排して、機会均等を得ようという従来の政策の継続です。

 上記二つの外交意図は、両方とも日英同盟廃棄の方向性を持っていました。

 ワシントン会議は一九二一年八月、軍備及び極東を議題として開かれますが、それに臨むアメリカの腹は「日英同盟廃棄」であったわけです。

 二一年一月の米上院で、海軍長官は、日英同盟があるかぎり軍縮は望めない、と発言しました。米国は、日英同盟の海軍力に対抗できるようになるまで建艦をやめない、という趣旨です。

 実は、日英同盟はその十年前に事実上米国をその対象から除外しているので、日英両国は直ちに反論していますが、こうした米国の動向を受けて、ロンドンで開かれた大英帝国会議では、日英同盟継続問題が中心議題でした。

■意見別れる英連邦

 豪州、ニュージーランドは存続論でした。ヒューズ豪首相は「敵としての日本より同盟国としての日本の方が望ましい。日英同盟の廃棄は、西欧諸国グループから日本を排斥(はいせき)するに等しくなる。また、日本が英国のような文明国と同盟することは、日本にある種の抑制を課することになる」と論じています。

 南アフリカは、同盟という第一次大戦の惨禍をもたらしたシステムによらず、国際協同体の精神の下の協議によるべきだという、ウィルソン主義の公式論を述べます。

 カナダは、最も強力な同盟継続反対派として秘密会では討議をリードしますが、公開の席では、中国を含めた協議を提案しています。孫文は日英同盟に反対しているのですから、中国を含めるということは、即ち反対です。

 英国政府内は、カーゾン外相、チャーチル植民地相、連盟担当のバルフォア枢密院議長、チェンバレン国爾尚書、陸海軍大臣、参謀総長まで、全て同盟継続派でした。

 もし日本が、同盟堅持を言えば、英国はとうてい自分から廃棄を言い出せず、また、当時の英米の力関係から言っても、米国のいうことを全て聞かねばならないわけでもなかったのですから、同盟は継続したでしょう。  

 ところが、日英同盟を最終的に切ったのは、日本代表幣原喜重郎でした。

 原敬は幣原を深く信頼し、ワシントンでの交渉は、まだ閣僚でもない幣原にまかせきりとするほどでした。

 英国は、妥協策として、(1)日英米の協議条約を作る(2)必要に応じて、その中の二国は軍事同盟を結ぶ自由を有する、という試案を作りました。それを蹴って、単なる日英米、それに仏を加えた四カ国協議条約という、その後の歴史が示す通り、何の役にも立たない条約にしたのが幣原です。

 つまり、旧来の列強による勢力均衡という習慣を悪しきものとして断ち切り、中国での機会均等という米国の理想主義に全面的に同調したわけで、幣原はその後の幣原外交で、この信念を貫いていますが、結果から見れば、それは失敗でした。

 幣原のような理想主義者は、アメリカの説く美しき建前論にころりと騙されるわけです。これは、今の構造改革論者にも当てはまることです。

 後年の「国際連盟脱退」が日本の孤立化を招いたと主張する人が多いですが、「国際連盟」などもともと有名無実の存在です。むしろ、日英同盟を失って日本は国際的に孤立したのです。

 松岡が、日独伊三国同盟を締結した事を非難する人がいますが、これも日英同盟なきあとの国際的孤立状態のなかで、日本が取った窮余の一策だったのではないかと思います。

 「『日独伊三国同盟を締結した』松岡を責めるのであれば、まず「『日英同盟を終焉させた』幣原を責めよ」と私は主張します。


(参考)  「百年の遺産―日本近代外交史(34)」【日英同盟の終焉】(産経新聞)


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2 コメント

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Re:よく分かる解説ですね! (上田真司)
2007-05-29 03:55:00
ろろさん、コメント有難うございます。

「明治維新を体験した世代」と「そうでない世代」
「戦争を体験した世代」と「そうでない世代」
という世代論ですか。そういう説も一理あると思います。

ろろさんの説を前提にすると、日本人というのは、国難を経験して初めて覚醒する、普段は平和に安住している呑気な民族のようです。
それが当っているのかもしれません。
日本人は、外交に手練手管を発揮するような英国のようにすれた国民ではないし、そのような事をむしろ厭う国民なのでは無いでしょうか。
困った国民性ですが、それはそれで、日本人の良いところの様な気もします。

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よく分かる解説ですね! (ろろ)
2007-05-29 01:03:47
>もし日本が、同盟堅持を言えば、英国はとうてい
>自分から廃棄を言い出せず、また、当時の英米の
>力関係から言っても、米国のいうことを全て聞かねば
>ならないわけでもなかったのですから、
>同盟は継続したでしょう。  

  間違いなくそうでしょうね。お互いに損をすることが全くないのですから。

>ところが、日英同盟を最終的に切ったのは、
>日本代表幣原喜重郎でした。

  協調外交で日貨排斥をつけあがらせた阿呆ですね。
  こういう阿呆の個人的資質は確かにあると思うのですが、問題はそういう阿呆がなぜ政府の要人になれたのかということです。おそらく、明治の元勲達が表舞台を去り、栄光ある日本しか知らない世代が台頭してしまったからだと思うのです。
  首相の原敬は安政3年生まれで、物心が付いた頃にはすでに維新が始まっていました。幣原も明治5年生まれで、江戸時代を知りません。守成は創業より難しと言いますが、頭では分かっていたのでしょうが、元勲達の維新の時の血の滲むような苦労、イギリスやロシアに対する強烈なコンプレックスは、彼らには分からなかったでしょう。
  故人を責めたくはないのですが、彼らには、一等国日本という思い上がりがあったのではないでしょうか。だから、海の王者イギリスと平気で袂を分かってしまったのです。
  これは、戦中の苦労を知っている世代が一線を退いた90年代に、異常な事件・現象が相次いだことと重なります。創業者である戦前・戦中世代ではなく、2代目の団塊の世代が豊田商事事件を起こし、援助交際やオヤジ狩りなどという言葉をメディアに登場させてしまいました。

  簡単に言えば、創業の苦労を知らない世代は、リアリズムを持ちにくいのです。だから現場で苦労するよりも、机上の空論を振り回す官僚のようなエリートになりたがります。だからこそ、

>中国での機会均等という米国の理想主義

  という、美しい理想論に飛びついてしまうのでしょう。現代であれば、グローバルスタンダードや構造改革です。
  伊藤博文や大久保利通が、「何か裏があるに決まっている」と疑ってかかり、こんな提案を真面目に検討するはずがありません。イギリスと組んで、米国を太平洋西部から追い出しにかかったに決まっています。

  いつまでも創業者の苦労を忘れないというのは大変なことだと思います。しかし、近代の日本は「なんとかなるさ」と思い、その苦労を民族の歴史として語り継ごうとしてきませんでした。自虐史観が蔓延ったのと、近代日本人の悪い癖が、無縁だとは思えません。
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