いくつものささやき。
「かわいいね」
「お前といると心が安まる」
「大好きだよ」
いくつもの約束。
「花火大会に行こう」
「スキーに行こう」
「ずっとずっと一緒にいよう」
そして、突然の別れの言葉。
「ごめん」
「他に好きな人ができた」
「別れてくれ」
私は変わらず愛しているのに?
大学生最後の夏休み。隣町の公園で行われているフリーマーケットに足を運んでみた。
炎天下の中、衣料品を中心とした様々な店がならび、お手伝いらしき子供達が元気いっぱいに呼びこみをしている。
その喧騒から離れた隅のほうで、黄色い頭をした背の高い男の人がCDやレコードを並べていた。
一番に目に入ったのはコバルトブルーのウォークマン。『千円でお譲りします』という張り紙つき。かなり古い型というのがネックではあったが、「君、かわいいから八百円でいいよ」といわれたのに気を良くして、五百円まで値切って買ってきた。今晩からはこれで音楽を聞きながら眠ろう。
最近、あまり眠っていないのだ。ようやくウトウトしかけても、どこからか、私を振った〈彼〉の声がきこえてくる。それは幸せだったころの甘いささやきだったり、嫌になるほど鮮明に覚えている別れの時の言葉だったりするのだが、どちらであっても心臓が異常なほど波打ちはじめ、勝手に涙があふれだして寝ていられなくなる。頭をかきむしりたくなる衝動を必死で押さえながら、耳をふさぎ、朝がくるのをただじっと待つ。そんな夜が一ヶ月以上続いていた。
でも今夜からはこのウォークマンで耳をふさぐことができる。そうすれば〈彼〉の声も聞こえなくなるかもしれない。
MDをセットしヘットフォンを装着した。部屋を真っ暗にしてベッドにもぐりこむ。手探りで再生ボタンを押すと、ガチャッと大げさな音がして曲がかかりはじめた。一曲目は『雨だれのプレリュード』。静かな調べが心地よい。ショパンを聞くと落ち着く。
そういえば、〈彼〉と付き合っていた3年間は、ほとんどクラッシックを聴かなかった。〈彼〉が好きだという歌手の曲を聴き、一生懸命カラオケで練習した。喜んでもらいたくて。もっと好きになってほしくて。
「あ」
思わず、閉じていた目を開いた。ショパンが数曲かかったあと、〈彼〉のお気に入りだった歌手の曲が流れはじめたのだ。録音したことを忘れていた。
「この曲、あの時の……」
忘れもしない。〈彼〉と初めて結ばれた時に、ラブホテルの有線でかかっていた曲だ。私にとって初めての性経験だった。
かすれた女性歌手の声に導かれるように、あの時の記憶が体中を支配する。〈彼〉の指、〈彼〉の唇。〈彼〉の……。
「……あ」
〈彼〉の指の跡をたどるように、左手が耳、首筋、右胸、と下りていく。右手は右の膝から内股へ……それから下着の中へと。
濡れてるよ、という〈彼〉のささやきを思い出して体が熱くなる。中指にじっとりと愛液が吸いつく。そのままゆっくりと奥まで指をさしいれ、左手は左胸を痛いほど掴む。
もっと強く? 〈彼〉の声が聞こえる。
「もっと……」
天井を仰ぐ。声を思い出すだけで、絶頂がすぐ近くにやってくる。もっと、もっと、もっと。足をぎゅっと閉じる。両手を激しく動かす。数秒後には、頭が真っ白になって、身を仰け反らせた。でも。
「………バカみたい」
絶頂を迎えた2秒後には、どうしようもないむなしさが襲っていた。心と体がバラバラだ。
「バカみたい」
もう一度つぶやいた、その時。
『お嬢さん! お嬢さーん! オレの声きこえる? 聞こえてるよな!』
「え?」
なに? 今の声。
右手を下着の中にいれ、左手でTシャツをたくし上げた、なんとも間抜けな格好のまま、周りを見渡したけれど、もちろん誰もいない。
「空耳か……」
『空耳じゃねーよ!』
「うわっ」
思わず叫んでヘッドフォンを本体ごとベッドの上に放り投げた。今、確かに男の声がウォークマンから聞こえてきた。
気づかないうちにラジオでも撮ってしまったのだろうか?
火照った体も一気に冷めてしまった。部屋の電気をつけて他のMDを探し出す。
今度はサティにしよう。これは録音してすぐに爪をおったから大丈夫だろう。
MDをセットし、ヘッドフォンを耳にして、再生ボタンを……。
『だから空耳じゃないってばよ!』
「!」
まだ再生していない。それなのに声がする!
「な、な、な……」
『まて! ヘッドフォン外すな!』
体が金縛りにあったように動かない。いや、金縛りにあったように、ではなく金縛りだ。恐怖で頭が凍りつく。
「……な、なに?」
『オレはこのウォークマンの持ち主だ。ジェイクと呼んでくれ』
「ジェイク? 外人? ずいぶん日本語の上手な……」
『ちっがーう。芸名だよ。げーめー』
「ってことは、芸能人?」
わけがわからない。
『いや。なる予定ではあったけどな。ライブ活動とかやってて、事務所にスカウトされたこともあるんだぜ。横浜じゃ結構有名だったんだけどな。知らねえか?』
知らない。知らないしそんなことはどうでもいい。全身に鳥肌が立っているのが分かる。
『オレさ、バイクの事故で死んじまってさ。でもどうしてもやりたいことがあって、成仏しないでこのウォークマンにしがみついて、オレの声聞いてくれる奴を待ってたんだよ。今、何年なんだ?』
「!」
自分の意思とは関係なく、視線が机の上のカレンダーにむいた。するとヘットフォンのなかから男の溜息がきこえてきた。
『オレが死んでからちょうど二年か。結構たったなあ。ま、いいか。ようやく願いが叶う。あきらめないで待ったかいがあったぜ』
スカウトされたというだけあっていい声をしている。しかし相手は幽霊だ。金縛りで体は凍りついたまま動かないし、首の後ろがぞわぞわとして気持ち悪い。しかしどうにか声だけは出せる。
「願いってなに?」
『聞いてくれる? いい奴だね、あんた。じゃ、金縛りとくな』
ふっと体が軽くなった。どさりとベッドに腰を下ろす。信じられないような出来事だがこれは現実だ。こちらの戸惑いも気に留めないようにジェイクが明るく話し始めた。
『ところで、あんた誰? なんでオレのウォークマンもってんの?』
「……今日フリマで買ったのよ。背の高い黄色い頭の男の人が売ってたよ」
どこを向けばよいのか分からないのでとりあえずウォークマン本体に向かって話す。
『黄色い頭? ヒロキかな。なんであいつがオレのウォークマン売ってんだ?』
「CDとかレコードとかも並んでたよ」
『げっ。MDは? MDもあった?』
やけに慌てている。しかし記憶をたどってみるが覚えがない。
「たぶんなかったと思うけど。なんで?」
『あのMDがなけりゃ、今日まで成仏しなかった意味がないんだよ。オレの願いはただ一つ。オレが死ぬ直前に録音したMDをある人に渡してほしいってことなんだ』
「ある人って?」
『オレの恋人……美音子に』
「かわいいね」
「お前といると心が安まる」
「大好きだよ」
いくつもの約束。
「花火大会に行こう」
「スキーに行こう」
「ずっとずっと一緒にいよう」
そして、突然の別れの言葉。
「ごめん」
「他に好きな人ができた」
「別れてくれ」
私は変わらず愛しているのに?
大学生最後の夏休み。隣町の公園で行われているフリーマーケットに足を運んでみた。
炎天下の中、衣料品を中心とした様々な店がならび、お手伝いらしき子供達が元気いっぱいに呼びこみをしている。
その喧騒から離れた隅のほうで、黄色い頭をした背の高い男の人がCDやレコードを並べていた。
一番に目に入ったのはコバルトブルーのウォークマン。『千円でお譲りします』という張り紙つき。かなり古い型というのがネックではあったが、「君、かわいいから八百円でいいよ」といわれたのに気を良くして、五百円まで値切って買ってきた。今晩からはこれで音楽を聞きながら眠ろう。
最近、あまり眠っていないのだ。ようやくウトウトしかけても、どこからか、私を振った〈彼〉の声がきこえてくる。それは幸せだったころの甘いささやきだったり、嫌になるほど鮮明に覚えている別れの時の言葉だったりするのだが、どちらであっても心臓が異常なほど波打ちはじめ、勝手に涙があふれだして寝ていられなくなる。頭をかきむしりたくなる衝動を必死で押さえながら、耳をふさぎ、朝がくるのをただじっと待つ。そんな夜が一ヶ月以上続いていた。
でも今夜からはこのウォークマンで耳をふさぐことができる。そうすれば〈彼〉の声も聞こえなくなるかもしれない。
MDをセットしヘットフォンを装着した。部屋を真っ暗にしてベッドにもぐりこむ。手探りで再生ボタンを押すと、ガチャッと大げさな音がして曲がかかりはじめた。一曲目は『雨だれのプレリュード』。静かな調べが心地よい。ショパンを聞くと落ち着く。
そういえば、〈彼〉と付き合っていた3年間は、ほとんどクラッシックを聴かなかった。〈彼〉が好きだという歌手の曲を聴き、一生懸命カラオケで練習した。喜んでもらいたくて。もっと好きになってほしくて。
「あ」
思わず、閉じていた目を開いた。ショパンが数曲かかったあと、〈彼〉のお気に入りだった歌手の曲が流れはじめたのだ。録音したことを忘れていた。
「この曲、あの時の……」
忘れもしない。〈彼〉と初めて結ばれた時に、ラブホテルの有線でかかっていた曲だ。私にとって初めての性経験だった。
かすれた女性歌手の声に導かれるように、あの時の記憶が体中を支配する。〈彼〉の指、〈彼〉の唇。〈彼〉の……。
「……あ」
〈彼〉の指の跡をたどるように、左手が耳、首筋、右胸、と下りていく。右手は右の膝から内股へ……それから下着の中へと。
濡れてるよ、という〈彼〉のささやきを思い出して体が熱くなる。中指にじっとりと愛液が吸いつく。そのままゆっくりと奥まで指をさしいれ、左手は左胸を痛いほど掴む。
もっと強く? 〈彼〉の声が聞こえる。
「もっと……」
天井を仰ぐ。声を思い出すだけで、絶頂がすぐ近くにやってくる。もっと、もっと、もっと。足をぎゅっと閉じる。両手を激しく動かす。数秒後には、頭が真っ白になって、身を仰け反らせた。でも。
「………バカみたい」
絶頂を迎えた2秒後には、どうしようもないむなしさが襲っていた。心と体がバラバラだ。
「バカみたい」
もう一度つぶやいた、その時。
『お嬢さん! お嬢さーん! オレの声きこえる? 聞こえてるよな!』
「え?」
なに? 今の声。
右手を下着の中にいれ、左手でTシャツをたくし上げた、なんとも間抜けな格好のまま、周りを見渡したけれど、もちろん誰もいない。
「空耳か……」
『空耳じゃねーよ!』
「うわっ」
思わず叫んでヘッドフォンを本体ごとベッドの上に放り投げた。今、確かに男の声がウォークマンから聞こえてきた。
気づかないうちにラジオでも撮ってしまったのだろうか?
火照った体も一気に冷めてしまった。部屋の電気をつけて他のMDを探し出す。
今度はサティにしよう。これは録音してすぐに爪をおったから大丈夫だろう。
MDをセットし、ヘッドフォンを耳にして、再生ボタンを……。
『だから空耳じゃないってばよ!』
「!」
まだ再生していない。それなのに声がする!
「な、な、な……」
『まて! ヘッドフォン外すな!』
体が金縛りにあったように動かない。いや、金縛りにあったように、ではなく金縛りだ。恐怖で頭が凍りつく。
「……な、なに?」
『オレはこのウォークマンの持ち主だ。ジェイクと呼んでくれ』
「ジェイク? 外人? ずいぶん日本語の上手な……」
『ちっがーう。芸名だよ。げーめー』
「ってことは、芸能人?」
わけがわからない。
『いや。なる予定ではあったけどな。ライブ活動とかやってて、事務所にスカウトされたこともあるんだぜ。横浜じゃ結構有名だったんだけどな。知らねえか?』
知らない。知らないしそんなことはどうでもいい。全身に鳥肌が立っているのが分かる。
『オレさ、バイクの事故で死んじまってさ。でもどうしてもやりたいことがあって、成仏しないでこのウォークマンにしがみついて、オレの声聞いてくれる奴を待ってたんだよ。今、何年なんだ?』
「!」
自分の意思とは関係なく、視線が机の上のカレンダーにむいた。するとヘットフォンのなかから男の溜息がきこえてきた。
『オレが死んでからちょうど二年か。結構たったなあ。ま、いいか。ようやく願いが叶う。あきらめないで待ったかいがあったぜ』
スカウトされたというだけあっていい声をしている。しかし相手は幽霊だ。金縛りで体は凍りついたまま動かないし、首の後ろがぞわぞわとして気持ち悪い。しかしどうにか声だけは出せる。
「願いってなに?」
『聞いてくれる? いい奴だね、あんた。じゃ、金縛りとくな』
ふっと体が軽くなった。どさりとベッドに腰を下ろす。信じられないような出来事だがこれは現実だ。こちらの戸惑いも気に留めないようにジェイクが明るく話し始めた。
『ところで、あんた誰? なんでオレのウォークマンもってんの?』
「……今日フリマで買ったのよ。背の高い黄色い頭の男の人が売ってたよ」
どこを向けばよいのか分からないのでとりあえずウォークマン本体に向かって話す。
『黄色い頭? ヒロキかな。なんであいつがオレのウォークマン売ってんだ?』
「CDとかレコードとかも並んでたよ」
『げっ。MDは? MDもあった?』
やけに慌てている。しかし記憶をたどってみるが覚えがない。
「たぶんなかったと思うけど。なんで?」
『あのMDがなけりゃ、今日まで成仏しなかった意味がないんだよ。オレの願いはただ一つ。オレが死ぬ直前に録音したMDをある人に渡してほしいってことなんだ』
「ある人って?」
『オレの恋人……美音子に』