大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

新撰組の幕引きをした男 相馬主計 ~維新の後の誠 28 ~

2013年07月27日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 笠間藩預かりの謹慎の後、放免後とも脱走したとも伝えられるが、相馬主計は野村利三郎共々彰義隊に参加し、彰義隊頭並・春日左衛門(元旗本)の支配下に入り、上野の山での決戦に挑む。
 彰義隊の瓦解後は、野村と共に旧幕府陸軍・陸軍隊に加わり、磐城方面へと転戦するも「殊に器量の者なり」と賞賛される軍才を示し、幹部に就任する。
 そして仙台(石巻とも)で新選組副長・土方歳三と再会し、陸軍幹部として新撰組へと復帰し、蝦夷へと転戦する。
 蝦夷共和国では、新撰組は箱館市中の取締に着任するのだが、相馬もこの時、新撰組隊士として同任務に当たっている。因に土方は陸軍奉行並として、もはや新撰組を指揮するよりも、蝦夷共和国の軍事に当たったと言って良い。だが、完全に新撰組から離れた訳ではなく、言うなれば、新撰組は、土方の指揮下幾つかの部隊のひとつになったのだ。
 新撰組の正式な隊長には、元桑名藩士・森常吉が就任。
 明治2(1869年)年3月25日の宮古湾海戦時相馬は、旗艦・回天にて土方指揮の下、陸軍添役として参戦し、負傷している。野村は敵艦に斬り込み、討ち死に。
 新政府軍が函館に上陸すると、松前、木古内、二股口の戦いの後、新政府の箱館総攻撃に際し、新撰組は弁天台場を死守するべく守りに着く。
 5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始されると、弁天台場は新政府軍に包囲され、完全に孤立する形となり、籠城戦になる事が必須を考えられたが、それを嫌った土方が、弁天台場の援軍向かうも、一本木関門にて銃弾に腹部を貫かれて落命。
 籠城する新撰組が土方の死を知ったのは12日とされるが、5月15日の終戦を持って新政府軍への恭順の書状に相馬は主殿と名を変え新撰組隊長として署名する。
 相馬の隊長就任に関しては、土方の死を知った12日とし、終戦までの3日間だけの隊長とする説。元幕府奥詰医師・高松凌雲の書簡によれば、この署名を持って就任したとする説があるが、いずれにしても実質隊長としての日はないに等しかったのだ。
 にも関わらずである。新政府軍かえあすれば、誰でも良い。とにかく新撰組の尻拭いが欲しかったのだの理論は、当時は成立したのだろうが、それにしても酷い話ではないか。
 相馬が新参者であり、伊東甲子太郎暗殺どころか、京での新撰組の暗殺には一切手を染めていないどころか加入もしていない事は周知の筈である。
 また、ここで、何故に相馬が隊長となったのかが疑問である。ひとつには、生前土方から、万が一があった場合は隊長を頼まれていたためとも言われているが、蝦夷共和国の正式な新撰組隊長は元桑名藩士・森常吉であり、これを新政府軍が認めなかったとしても、古参の島田魁がいたにも関わらずである。
 この謎は、会津藩が敗戦にあたり、梶原平馬でなく萱野権兵衛が切腹したのと似たり寄ったりの不思議を感じ得るのだ(会津藩では戦犯として3名の家老の首を差し出す事を条件に出され、先に、田中土佐、神保内蔵助が切腹していたため、家老席次の上位であった萱野権兵衛が責務を負ったのだが、一番上の筆頭家老・西郷頼母は出奔、次は首席家老・梶原平馬である。また、この梶原こそが奥羽越列藩同盟を築き上げた抗戦派であった)。〈続く〉


ランキングに参加しています。ご協力お願いします。

人気ブログランキングへ

にほんブログ村 小説ブログ 歴史・時代小説へにほんブログ村



人気ブログランキング

人気ブログランキングへ