大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

故郷を失った男たち 凌霜隊 ~もうひとつの会津戦争 第一章 21 ~

2013年07月20日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 凌霜隊・最年少の隊長・朝比奈茂吉は、常に先頭に立って、隊士たちを叱咤激励し戦っていた記録が残され(隊士・矢野原与七著「心苦雑記」)、日光口から追撃してきた新政府軍との激戦を戦い抜いた中でも、大内峠に於いては狭隘した地形を利用し、スペンサー銃で薩軍を4時間以上釘付けにしたという。
 だが、会津若松開城後、彼らに郡上藩青山家から下された処分は過酷極まるものであった。生き残った者26名は、会津から群上へ護送されるが、戦犯首謀者・朝比奈茂吉なる罪人札を括り付けられた罪人籠にてである。これは、会津藩士の東京への護送よりも厳しい処遇。それも、これも郡上藩のどっち付かずの曖昧さが招いたにほか成らないのだ。
 罪人として国元に戻った彼らは、東殿山のふもと赤谷村の揚屋(牢獄)にて半年間の幽閉生活を余儀なくされるも、これもまた、劣悪な環境であり、戦いに生き残ったにも関わらず病死者を出す始末であった。
 そして明治2年5月、領内寺僧の嘆願により自宅謹慎を経て、翌年3月晴れて自由の身となるのだが、青山家が彼らに手を差し伸べることはなく、新政府の目を気にして、賊扱いの彼らに国許での居場所はなかったのである。
 いずれにしても、どちらにも良い顔をしておこうといった、実に日本人的かつ村社会の円滑さを図る田舎の小藩の浅智恵が招いた結果である。そして彼らは戊辰戦争屈指の被害者と言えるだろう。
 平穏時であれば、いや、藩命がなければ、家老家の嫡男として、家督を約束されていた朝比奈茂吉だったが、罪人として故郷を追われながらも、名も義彦と改め、父・藤兵衛の実家である近江国・彦根藩井伊家の重臣・椋原家の養子となれた事は幸運である。
 これは一重に、実家が家老職であったから出来た事で、ほかの隊士に関しては不遇の後半生を送った者もあっただろう。そして、そんな名もない者たちの記録は残されていないのが常であるが、名のなき者たちの屍の上に現代は成り立っているのだ。
 例えば、新撰組を例に挙げてみても、浪士組設立からの戦闘での死者は六番隊組長・井上源三郎のみである。副長・土方歳三は、戦死時には事実上旧幕府軍の指揮官となっていたのでカウントせず、十番隊組長・原田左之助も、同様に彰義隊として上野の戦にて戦死のため、こちらも無カウント。名もなき一兵卒が歴史を作り上げていると言っても過言ではないだろう。
 話が逸れたが、藩命により命を欠けて戦いながらも、罪人にされた無念の程は察して余ある。会津の悲劇は語り継がれても、会津とは何らしがらみもない美濃の小国の若者たちが流した血の涙を知る人は少ないであろう。
 維新後、椋原義彦(朝比奈茂吉)は、滋賀県犬上郡青波村の村長を務め、明治27年に急逝(享年43歳)。父と朝比奈家を継いだ弟・辰静の家族も呼び寄せ養ったと伝えられる。酒に酔うと隊を切り捨てた藩を痛烈に批判し、臨終に際しては、「凌霜隊、白虎隊」と呟いたと伝わる。〈次回は、会津の盾になった少年たち 二本松少年隊〉




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