奥州諸藩のほかに、会津のために戦った藩があったのをご存じだろうか。新撰組、靖兵隊、伝習隊…。旧幕臣が中心となり戊辰戦争を戦った隊名である。そんな中に、美濃国の小藩・郡上藩が会津へと派遣した隊があったのをご存じだろうか。
郡上藩・四万八千石、最期の藩主は第7代・青山幸宜である。藩主・幸宜は、佐幕派であったが、藩内では佐幕派と尊王派が対立し、慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まると、国元ではわずかひと月後の2月11日に新政府に恭順を示す誓書を差し出した。
このまま、新政府に組し維新を迎えていれば、何事もなく終わる筈であった。だが、そこが小藩の悲しさ。万が一、幕府が勝利した場合の藩存続へと思いを巡らした事が悲劇の幕開けであったのだ。藩の決定に不安を抱いた江戸家老・朝比奈藤兵衛ら強固な佐幕派が、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に、17歳の嫡男・茂吉を隊長とする藩士47名から成る凌霜隊を同行させるも、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分であった。
同年4月10日、本所中の橋菊屋に集合し江戸湾を出航した凌霜隊は、大鳥圭介率いる伝習隊に合流し、下野国・小山、宇都宮から日光街道を経て塩原へと転戦。
8月23日、若松の城下へと向かうも、城下には母成・滝沢峠を突破した西軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていた。凌霜隊は、辛うじて若松城の西口・河原町口郭門まで辿り着くが、そこから9月6日の入城までに約2週間を要し、白虎士中一番隊・二番隊の生存者で再編成された白虎隊士と共に西出丸の防衛に当たる。
籠城戦に入った会津城への入城は困難を極め、山川大蔵の彼岸獅子に扮しての敵前突破は有名だが、一度閉まった城門は、各地での戦から戻った藩士たちにも中々開く事はなく、山川に至っては、「門兵を殺しででも入れ」と叫び、漸く重い門が開いたと言われている。〈続く〉
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郡上藩・四万八千石、最期の藩主は第7代・青山幸宜である。藩主・幸宜は、佐幕派であったが、藩内では佐幕派と尊王派が対立し、慶応4(1868)年、戊辰戦争が始まると、国元ではわずかひと月後の2月11日に新政府に恭順を示す誓書を差し出した。
このまま、新政府に組し維新を迎えていれば、何事もなく終わる筈であった。だが、そこが小藩の悲しさ。万が一、幕府が勝利した場合の藩存続へと思いを巡らした事が悲劇の幕開けであったのだ。藩の決定に不安を抱いた江戸家老・朝比奈藤兵衛ら強固な佐幕派が、薩長政権を容認しない徳川家家臣の大量脱走に、17歳の嫡男・茂吉を隊長とする藩士47名から成る凌霜隊を同行させるも、彼らは青山家への責任を回避するため、脱藩身分であった。
同年4月10日、本所中の橋菊屋に集合し江戸湾を出航した凌霜隊は、大鳥圭介率いる伝習隊に合流し、下野国・小山、宇都宮から日光街道を経て塩原へと転戦。
8月23日、若松の城下へと向かうも、城下には母成・滝沢峠を突破した西軍が侵攻しており、城は籠城戦に入っていた。凌霜隊は、辛うじて若松城の西口・河原町口郭門まで辿り着くが、そこから9月6日の入城までに約2週間を要し、白虎士中一番隊・二番隊の生存者で再編成された白虎隊士と共に西出丸の防衛に当たる。
籠城戦に入った会津城への入城は困難を極め、山川大蔵の彼岸獅子に扮しての敵前突破は有名だが、一度閉まった城門は、各地での戦から戻った藩士たちにも中々開く事はなく、山川に至っては、「門兵を殺しででも入れ」と叫び、漸く重い門が開いたと言われている。〈続く〉
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