大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

義に死すとも不義に生きず ~会津魂 第三章 神保(井上)雪子 8 ~

2013年07月07日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 雪子は、会津藩軍事奉行添役・神保修理直登に嫁した、会津藩大組物頭・井上丘隅の二女である。
 夫の修理は、婚姻後間もない文久2(1862)年閏8月1日、藩主・松平容保の京都守護職を拝命に随行し、京に上ったため、その結婚生活は短いも、夫婦仲は良かったと伝えられている。
 そして、慶応4(1868)年2月22日、修理の切腹により、再び相見える事はなかったも、夫の遺志を受け、会津を戊辰の戦乱から救うべく恭順論を唱え続ける。
 会津戦争・白河口の戦いの最中にも、今からでも遅くはないと、家老・梶原平馬、原田種竜らに建言したが受け入れられる事はなかった。
 この時、実父・井上丘隅は、幼少寄合組中隊頭として、少年兵と呼ぶには幼過ぎる子どもたちを率いて滝沢口に布陣していたが、新政府軍の猛進撃に敗退し、甲賀町口郭門まで引き揚げ防戦に務めていたが、新政府軍の進撃は留まらず、甲賀町口の退路を遮断する形となった。
 退路を断たれた丘隅(享年55歳)は、甲賀町口郭門から百間(約180m)ほどの五ノ丁角の拝領屋敷へと戻り、妻・トメ(享年53歳)、長女・チカ(享年31歳)を刺した後に自刃する。丘隅、享年55歳。
 この時、雪子も座に控えていたが、丘隅は、「神保家に嫁しかたらには、神保家と命運を共にせよ」と婚家に戻すが、既に城下は銃弾の飛来激しく、一ノ丁の神保家へ戻る道も敵方の手に落ちていたのだ。
 止むなく西へと進路を改めた雪子は、そこで中野竹子ら後に娘子隊と呼ばれる婦女子の薙刀隊に出会い合流する。
 この娘子隊であるが、そもそも会津藩中においてそのような部隊はなく、後に名付けられたものである。
 彼女たちは、城門が閉まる前に入城ならなかった場合は、坂下の法界寺にて落ち合うと兼ねてから話し合っていたとされるので、雪子もそれを周知していたのかも知れない。
 だが、大垣藩兵に捕えられ捕虜となった雪子への処断は、斬首という極めて残忍なものであった。既に戦況は決しているにも関わらず、女子に対してもこういった断罪を下す新政府軍が、果たして官軍なのだろうか。
 そもそも、この戦自体が単なる遺恨に過ぎず、無益な殺生なのだ。丘隅の幼少寄合組に属していた少年を射止めた長州藩兵は、その夜の宴席に、その少年の生首を盆に乗せ、笑いながら盃を組み交わしたといった話も伝えられている。
 こうなると、織田信長の浅井久政・長政父子、朝倉義景の髑髏の盃どころではない残忍さではないか。
 戦場といった非日常が生み出した狂気なのか、そもそもの血脈の成せる技なのか。
 明治の世で、彼らが懺悔の思いを抱き、苦しんだ事を祈りたい。〈続く〉




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