相馬主計にどれくらいの葛藤があったかは今となっては知る術もないが、相馬は、元新撰組隊士で函館でも共に戦った、豊岡県権参事を務めている大野右仲の説得または仲介により、同県へ十五等出仕として、司法方面の勤務に就いた。
だが、わずか二年後の明治8(1875)年2月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
同じ抗争にて千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。そして僅かな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えるも、某日、妻・マツに用事を言い付け外出させると、割腹して果てた。
生前相馬は、「他言無用」を厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死亡年月日、菩提寺。享年など、死に関する詳細は現在も不明である。
この突然の自刃に際し、「近藤、土方が死んだのに、隊長だったお前が何故生き延びているのだ」などといった非難嘲笑があったとも真しやかに囁かれているが、相馬程の器の大きな男が、金棒引きの言葉に耳を貸すとは考え難く、やはり新政府への失念や、戊辰戦争での心の痛みなど、大きな失望があったと思われる。
また、蝦夷共和国にて、新撰組隊長に就任した旧桑名藩士・森常吉も、桑名藩の全責任を引き受け、明治2(1869)年に釈放された後、自刃している。享年44歳。
奇しくも新撰組隊長2名が、自らの命を絶った訳とは…。
新撰組隊士としてはほとんど無名であり、幕末を戦い抜いた戦史にも彼を知る人は少ない。だが、ここまで実直に生き抜いた相馬主計というひとりの人間がいた事をしっかりと記憶に刻んで欲しいと願って止まないのだ。
もし、赦免になっても島に残っていれば、恐らくは平穏な人生を全う出来たであろう。
相馬の死後マツは、新島の実家の植村家へ戻り、大正12(1923)年76歳で没している。彼女もまた、戦乱に人生を狂わされたひとりであった。〈次回は、新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三〉
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だが、わずか二年後の明治8(1875)年2月。豊岡県内部の抗争により、突如免官されると、相馬は東京へと戻る。
同じ抗争にて千葉へと移動になった大野が、そこでの要職を用意するが相馬は新政府への希望を失っていた。そして僅かな期間ではあったが移り住んだ浅草に居を構えるも、某日、妻・マツに用事を言い付け外出させると、割腹して果てた。
生前相馬は、「他言無用」を厳命し、マツもそれを守り通したため、相馬の死亡年月日、菩提寺。享年など、死に関する詳細は現在も不明である。
この突然の自刃に際し、「近藤、土方が死んだのに、隊長だったお前が何故生き延びているのだ」などといった非難嘲笑があったとも真しやかに囁かれているが、相馬程の器の大きな男が、金棒引きの言葉に耳を貸すとは考え難く、やはり新政府への失念や、戊辰戦争での心の痛みなど、大きな失望があったと思われる。
また、蝦夷共和国にて、新撰組隊長に就任した旧桑名藩士・森常吉も、桑名藩の全責任を引き受け、明治2(1869)年に釈放された後、自刃している。享年44歳。
奇しくも新撰組隊長2名が、自らの命を絶った訳とは…。
新撰組隊士としてはほとんど無名であり、幕末を戦い抜いた戦史にも彼を知る人は少ない。だが、ここまで実直に生き抜いた相馬主計というひとりの人間がいた事をしっかりと記憶に刻んで欲しいと願って止まないのだ。
もし、赦免になっても島に残っていれば、恐らくは平穏な人生を全う出来たであろう。
相馬の死後マツは、新島の実家の植村家へ戻り、大正12(1923)年76歳で没している。彼女もまた、戦乱に人生を狂わされたひとりであった。〈次回は、新政府の生け贄にされた赤報隊・相楽総三〉
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