「千代さん。あなたのお気持ちは」。
ふっと我に返った千代。寺尾安次郎が語った伊庭八郎生い立ちを思い出すのだった。
心形刀流宗家・練武館の嫡男であり、幕府に大御番衆として登用されると直ぐに奥詰に抜擢され、現在は、奥詰が改編された遊撃隊の一員であった。
全ての思いを打ち消すかの如く、頭を横に振った千代。
「伊庭様、私の生家は多摩の百姓にございます。御身分が違いまする」。
「身分など聞いてはおらぬ。あなたの思いを尋ねておるのだ」。
「女御の思いなど、何ものにもなりませぬ」。
婚儀は、家同士で決めるもの。本人の意向など、毛頭あろう筈もない。それでもそれなりに地位や財産のある男であれば、妾として好いた女御を囲う事は出来る。
だが、女御の思いが成就するなど、万にひとつもないと千代は考える。
現に姉の美緒の生涯に、美緒の思いが達せられたのは、死を選んだ事のみであった。
「私は、大奥へ奉公に上がると決めた折りに、女御の幸せは捨てました」。
八郎は、そのような回りくどい断られ方をされるとは、少しでも千代が己に好意を抱いていると勘違いしていたと、ふっと苦笑いを浮かべるのだった。
「確かあなたは、又従兄弟の方を好いているようでした。やはりそのお方と添いたいのですか」。
「好いていると思っておりました。ですがそれは、幼き頃よりの幻影だったのだと、あなた様が気付かせてくださいました」。
「千代さん。それでは」。
恥ずかしそうに俯く千代。だが、やはり好いているだけでは、どうにもなるまい。心形刀流宗家・練武館の嫡男であり、幕閣の肩書きが大きく伸し掛かるのであった。
「伊庭様、お会い出来て楽しゅうございました。私は、これにて」。
散り際の桜は美しいが、別れの涙を一層誘う儚さである。頬を流れる涙の筋を掌で拭いながら、文久三年、歳三が京へ立つ前に残したという、豊玉発句集の一句を思い出すのであった。
~しれば迷い しなければ 迷わぬ恋の道~
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ふっと我に返った千代。寺尾安次郎が語った伊庭八郎生い立ちを思い出すのだった。
心形刀流宗家・練武館の嫡男であり、幕府に大御番衆として登用されると直ぐに奥詰に抜擢され、現在は、奥詰が改編された遊撃隊の一員であった。
全ての思いを打ち消すかの如く、頭を横に振った千代。
「伊庭様、私の生家は多摩の百姓にございます。御身分が違いまする」。
「身分など聞いてはおらぬ。あなたの思いを尋ねておるのだ」。
「女御の思いなど、何ものにもなりませぬ」。
婚儀は、家同士で決めるもの。本人の意向など、毛頭あろう筈もない。それでもそれなりに地位や財産のある男であれば、妾として好いた女御を囲う事は出来る。
だが、女御の思いが成就するなど、万にひとつもないと千代は考える。
現に姉の美緒の生涯に、美緒の思いが達せられたのは、死を選んだ事のみであった。
「私は、大奥へ奉公に上がると決めた折りに、女御の幸せは捨てました」。
八郎は、そのような回りくどい断られ方をされるとは、少しでも千代が己に好意を抱いていると勘違いしていたと、ふっと苦笑いを浮かべるのだった。
「確かあなたは、又従兄弟の方を好いているようでした。やはりそのお方と添いたいのですか」。
「好いていると思っておりました。ですがそれは、幼き頃よりの幻影だったのだと、あなた様が気付かせてくださいました」。
「千代さん。それでは」。
恥ずかしそうに俯く千代。だが、やはり好いているだけでは、どうにもなるまい。心形刀流宗家・練武館の嫡男であり、幕閣の肩書きが大きく伸し掛かるのであった。
「伊庭様、お会い出来て楽しゅうございました。私は、これにて」。
散り際の桜は美しいが、別れの涙を一層誘う儚さである。頬を流れる涙の筋を掌で拭いながら、文久三年、歳三が京へ立つ前に残したという、豊玉発句集の一句を思い出すのであった。
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