大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浄瑠璃坂にみる大石内蔵助の真意 ~忠臣蔵の真実 4 ~

2013年06月02日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 もうお分かりではないだろうか。大石内蔵助は、録を失い路頭に迷う元藩士たちに仕官に道を求めたのではないだろうか。火事装束、本懐後の出頭共に「浄瑠璃坂の仇討」を彷彿とさせる。
 そしてこの仮説を信じうるものとする大石の発言がある。討ち入り当夜、「狙うは上野介ただ一人(いちにん)」。この大石の台詞は有名であるが、実際には、「上野介が見当たらなければ、義周の首を取れ」と言ったらしい。
 義周とは当時の吉良家当主(上野介は隠居)で、上野介の孫にして養子で当たる。実父は、出羽国米沢藩4代藩主・上杉綱憲。二男として産まれるも、吉良家に嫡子がいないことからわずか5歳で養子に出されたのである。
 義周=通称は左兵衛と吉良家と上杉家の関係には後に詳しく述べたいと思うが、上野介の正室は出羽国米沢藩の第2代藩主・上杉定勝の四女である。
 そしていよいよ、討ち入り当夜の元禄15(1703)年12月14日(正確には日にちが代わった15日未明の午前4時頃になる)の、吉良家の様子に入ろう。
 まずは、有名な雪のシーン。最近の映像では降り積もる雪を踏みならしてが定番だが、昔は、降りしきる雪の夜であった。だが、史実が、前日の雪が積もってはいたが、当夜は雪は止んでいた事が分かり、雪夜のシーンはなくなったようである。映像的には雪が降っていた方がロマンが募るのだろうが。
 さて、茶会の後の吉良家は、当然ながら寝入っていた。なので、吉良家家臣は、寝ずの宿直以外は、ほとんどが寝間着姿であったと思われる。 そしてここが問題なのであるが、大抵の映像では大石が山鹿流の陣太鼓を打ち、表門を打ち壊すシーンが定説であるが、まさかわざわざ敵に夜襲を知らせる訳もなかろう。これも大石が山鹿流軍学を修目ていた事から生じた演出であろう。
 しかも、旗本家ともあろう屋敷に、門番がいない訳もない。門番を斬り、表門は梯子をかけて登り、裏門は門を打ち破ったのである。〈続く〉




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