大江戸余話可笑白草紙

お江戸で繰り広げられる人間模様。不定期更新のフィクション小説集です。

浄瑠璃坂にみる大石内蔵助の真意 ~忠臣蔵の真実 5 ~

2013年06月03日 | 武士(もののふ)に訊け~真の武士道とは~
 そして上野介を探す一方、浪士たちは、家臣が住まう屋敷を取り囲む長屋を表から打ち付け、出られないないようにした。それでも義周が吉良家に入る時に上杉家から従った山吉新八郎盛侍は、それを打ち破り駆け付けている。
 山吉新八郎盛侍は重傷をおうも一命は取り留め、義周の信濃国高島藩への配流に従うのだが、この時に顔に負った傷が余りにも酷く、幕府から髭を蓄えることを許されたと伝えられるほどの奮戦を果たす。
 因に長屋に閉じ込められていた家臣は、100名ほどとされているが、吉良家の石高からして、家臣総数で100名弱になろうと思われるので、閉じ込められていた数はもっと少なかったか、または映像によくあるとおり、浪人者を雇い入れていたか考えるのが通常である。
 だが討ち入り後の幕府の検死役の書によれば、中間小物共89名(士分に関しては不明)。桑名藩所伝覚書では、上杉弾正(大弼綱憲)から吉良左平(左兵衛義周)様への御付人の儀侍分の者40名程、雑兵180名程参り居り申し候よしと記されているので、石高の倍以上、200名前後が抱えられていたとすれば、吉良家家臣団の不甲斐なさが伺える。
 また、こちらも映像では有名なシーンであるが、逃げ惑う女中たちの姿がある。だが、実際には当夜、吉良家に女はいなかったとされている。
 そもそも武家屋敷で女が仕えるのは、奥方や姫の身の回りの世話役であり、当時吉良家の女人は上野介の正室の富子のみであった。
 この富子も、既に上杉家に辞していたため、女中そして上杉から入った小姓はみな、上杉に戻っていたのである。
 なぜであろうか。これも諸説あるが、そもそも4200石の旗本が、上杉15万石(3代藩主・上杉綱勝が跡目を残さず死去したため、減封された)の姫を正室に迎えたたため、吉良家では富子を大切にし、上野介は側室も持たなかった。
 これも映像で、エロ爺として描かれているあたり、かなりの悪意を感じる。
 と、余談になったが、そんな仲睦まじかった富子が、どうして屋敷を去ったかに関しては、「浅野殿が切腹なさったなら、あなた様もお腹を召しなされ」と言ったことから亀裂が入ったという説もあるのだが、真実は不明である。〈続く〉





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