時は明治が進もうとも、世の中の動きに見放されたかのようにひっそりと浅草蔵前に佇む浄念寺。何時しか、居場所を失った御霊や妖たちの集いの場へとなっていった。
「ええい。五月蝿いぞ。ここは寺だ。酒なぞ呑むな。騒ぐな。おおい六助、目付であろう。どうにかせい」。
「ですがね、あっしはあの世の御霊の目付でして。妖は範疇の外でさ」。
「だったら、牛御前様。この者たちを追い払ってください」。
牛鬼と六助の姿は、常に瑾英の傍らにあったそうな。ひじ傘雨は、妖や御霊を連れ去る事は忘れていたようである。浅草蔵前化用山浄念寺。大正の大地震や昭和の戦火にて家屋は崩壊するも、木造阿弥陀如来立像な難を逃れ、今も本堂に安置されている。
鹿内主税
慶応三年新撰組に入隊。鳥羽・伏見の戦い前後大坂にて脱走。堀家へ戻ったのか否か。その後の記録はない。
天海勝之進
慶応三年新撰組に入隊。鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、会津戦争へと転戦。慶応四年葉月の母成峠の戦いに敗走後、仙台にて離隊。後の医師になったと伝えられる。
中島登
慶応三年新撰組に伍長に就任。土方歳三と共に転戦後は、榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡り、明治二年皐月、弁天台場にて降伏。その後は、青森、弁天台場にて謹慎を経て、明治三年静岡藩お預けの後に放免された後は、浜松に定住し、様々な商いを試みる。
山本満次郎
旧幕府より諸役御免、名字帯刀の特権を取り上げられた事で、特権を継続するように申し入れるも、時代の変遷と共に、訴訟相手が新政府に変わった。明治政府相手に裁判を行うも敗訴となり、明治四年弥生二十一日、東京より多摩へ帰る途中の旅館にて、割腹自殺を遂げる。
河鍋暁斎
明治元年、徳川氏転封とともに静岡へ移る。明治三年神無月、上野不忍池の長酡亭にて開催された書画会にて、新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして逮捕の後に投獄。翌年の出獄後は、安愚楽鍋や西洋道中膝栗毛の挿絵を手掛け、ウィーン万国博覧会など世界へと進出し、明治十七年、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承した。
札差大黒屋
江戸幕府崩廃業人追い込まれた中、明治元年師走、浅草蔵前の一帯が大火に見舞われ、これを機にほとんど没落していった。札差大黒屋の主・惣右衛門も根岸の寮に隠居し、跡を嫡男宗太郎が継ぐ。
大黒屋宗太郎
横浜に牛鍋屋・大黒縄のれんを開業の後、牛鍋が廃れ始めると早々に洋食屋へと商いを変えるが、明治十九年に突如隠居し、弟の正二郎に店を譲ると、ついぞ行方が分からなくなったが、子爵家の跡を継いだとも伝えられる。
堀直明(晃仙)
戊辰戦争で早々に新政府に与した事から、功績を評価され、新政府から賞典禄として五千石を下賜され、明治二年の版籍奉還で藩知事となるも、明治四年の廃藩置県で免官となり、明治十年、元来の姓であった奥田姓に復姓し、明治十七年のは子爵となる。だが僅か二年後の明治十九年長月十八日に東京にて死去。享年四十八歳。
瑾英
蔵前の化用山浄念寺の住持となり、明治を生き抜く抜くが、幾年過ぎようが、浄念寺からはおかしな奇声が聞こえたり、住持が空に向かい警策を振り冠るなどの、奇行も見られたと伝えられる。
そして大正十四年に八十一歳の大往生を遂げると、時は夏であったにも関わらず、浄念寺境内の椿の老木が、血のように赤い花を咲かせたと不思議がられている。
そして、瑾英と共に浄念寺を去った牛鬼、瓦町伝助親分の下っ引き六助、天社土御門神道の泰権の行方を知る者はいない。
※ 長い間ご愛読ありがとうございました。「ひじ傘雨」はこれにて最終回です。次回作へのご要望などございましたら、ご一報くださいませ。
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「ええい。五月蝿いぞ。ここは寺だ。酒なぞ呑むな。騒ぐな。おおい六助、目付であろう。どうにかせい」。
「ですがね、あっしはあの世の御霊の目付でして。妖は範疇の外でさ」。
「だったら、牛御前様。この者たちを追い払ってください」。
牛鬼と六助の姿は、常に瑾英の傍らにあったそうな。ひじ傘雨は、妖や御霊を連れ去る事は忘れていたようである。浅草蔵前化用山浄念寺。大正の大地震や昭和の戦火にて家屋は崩壊するも、木造阿弥陀如来立像な難を逃れ、今も本堂に安置されている。
鹿内主税
慶応三年新撰組に入隊。鳥羽・伏見の戦い前後大坂にて脱走。堀家へ戻ったのか否か。その後の記録はない。
天海勝之進
慶応三年新撰組に入隊。鳥羽・伏見の戦いを経て江戸に帰還し、会津戦争へと転戦。慶応四年葉月の母成峠の戦いに敗走後、仙台にて離隊。後の医師になったと伝えられる。
中島登
慶応三年新撰組に伍長に就任。土方歳三と共に転戦後は、榎本武揚ら旧幕府海軍と合流して蝦夷地へ渡り、明治二年皐月、弁天台場にて降伏。その後は、青森、弁天台場にて謹慎を経て、明治三年静岡藩お預けの後に放免された後は、浜松に定住し、様々な商いを試みる。
山本満次郎
旧幕府より諸役御免、名字帯刀の特権を取り上げられた事で、特権を継続するように申し入れるも、時代の変遷と共に、訴訟相手が新政府に変わった。明治政府相手に裁判を行うも敗訴となり、明治四年弥生二十一日、東京より多摩へ帰る途中の旅館にて、割腹自殺を遂げる。
河鍋暁斎
明治元年、徳川氏転封とともに静岡へ移る。明治三年神無月、上野不忍池の長酡亭にて開催された書画会にて、新政府の役人を批判する戯画を描き、政治批判をしたとして逮捕の後に投獄。翌年の出獄後は、安愚楽鍋や西洋道中膝栗毛の挿絵を手掛け、ウィーン万国博覧会など世界へと進出し、明治十七年、改めて狩野永悳に入門し、狩野派最後の絵師を継承した。
札差大黒屋
江戸幕府崩廃業人追い込まれた中、明治元年師走、浅草蔵前の一帯が大火に見舞われ、これを機にほとんど没落していった。札差大黒屋の主・惣右衛門も根岸の寮に隠居し、跡を嫡男宗太郎が継ぐ。
大黒屋宗太郎
横浜に牛鍋屋・大黒縄のれんを開業の後、牛鍋が廃れ始めると早々に洋食屋へと商いを変えるが、明治十九年に突如隠居し、弟の正二郎に店を譲ると、ついぞ行方が分からなくなったが、子爵家の跡を継いだとも伝えられる。
堀直明(晃仙)
戊辰戦争で早々に新政府に与した事から、功績を評価され、新政府から賞典禄として五千石を下賜され、明治二年の版籍奉還で藩知事となるも、明治四年の廃藩置県で免官となり、明治十年、元来の姓であった奥田姓に復姓し、明治十七年のは子爵となる。だが僅か二年後の明治十九年長月十八日に東京にて死去。享年四十八歳。
瑾英
蔵前の化用山浄念寺の住持となり、明治を生き抜く抜くが、幾年過ぎようが、浄念寺からはおかしな奇声が聞こえたり、住持が空に向かい警策を振り冠るなどの、奇行も見られたと伝えられる。
そして大正十四年に八十一歳の大往生を遂げると、時は夏であったにも関わらず、浄念寺境内の椿の老木が、血のように赤い花を咲かせたと不思議がられている。
そして、瑾英と共に浄念寺を去った牛鬼、瓦町伝助親分の下っ引き六助、天社土御門神道の泰権の行方を知る者はいない。
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