本日は!
宮大工棟梁 西岡常一 の話。
法隆寺大修理、薬師寺伽藍に尽力した
名棟梁 西岡常一 の話によれば・・・・
飛鳥から奈良時代の建築は
木の性質を見極めて使っていたという。
室町時代あたりからの建築は
腐りやすく、すぐに修理が必要になるという。
江戸時代の建築は、まったく何も考えていない。
なるべく安くあげようとしているという。
西岡常一 ほど、
仕事に誇りを持ち、貧乏の筋を通した人はいない。
民家建築には
いっさい、手を染めず・・・・
慢性的な生活の困窮を
田畑を耕して食いつなぎ・・・・
それでもお金の無いときは
表札を作って、わずかなお金にし・・・・
お米代の心配が無くなったのは
還暦を過ぎてからだという。
西岡常一 は言う。
「宮大工というても、
毎日仕事があるわけではありませんのや。
寺のこまごまとしたところを直したりして食える時代でも
ありませんでしょ。終戦(昭和二十年)のころの私が
法隆寺からもろうていたのが一日、八円五十銭や。
そのころ米一升二十五円でっせ。
そんなもん食っていけませんわ。
そのころ民間の大工はもう六十円やったのに、
私は八円五十銭やもんな。
仕事ないときはお金もらえるわけやないし、
お寺さんの仕事したからゆうて高いお金もらうれけやないし、
しかたありませんわな。
私らは田畑をもっておりました。
毎日仕事があるわけではありませんので、
用事のないときは田畑をやって、自分と家族の
食いぶちをつくれということだったんでっしやろな。
家族を養っていくために、代々受け継いでき
た畑や山を少しずつ手放しました。
残ったのはこの家だけです。
こないして、なんとか宮大工をやって来られたんです。
私は民家は一軒も造りませんでした。
自分の家もよそさんに造ってもらいましたのや。
民家は造ると、どうしてもいくらで何日までに
上げねばならないと考えますし、
もうけということを考えな、やっていけませんやろ。
家を造ります大工さんは、造っていくらになると
いうことが一番ですな。
宮大工は仏さんに入ってもらう伽藍を造るんですから、
造ってなんぼというわけにはいきませんのや。
もうけのこと考えてたんでは宮大工はつとまりませんのや。
心に欲があってはならんのです。
貧乏しましたけど、私らは自分で国宝守るために、
黄金の釘を打ち込んでるんだという意地がありました。
自分ができる仕事を精一杯する。これだけですわ。」
ヒマコ!
中途半端な貧乏は、アカンゆうこっちゃ!