ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

危険不可視社会

2010-05-08 | パパ
失敗学の創始者である畑村洋太郎氏の「危険不可視社会」という本が新聞で紹介されていた。日本は安全に対して過剰になりすぎたことによって、子供の身の周りの危険が隠蔽されるようになってきているのではないかという問いかけである。
昔は今に比べると危険な場所がたくさん存在するいわば混沌とした世界だったような気がする。ドラえもんにでてくる「原っぱ」などはそのような典型といえるのではないか。そのような場所では、自己責任が前提とされ、なにも起こっていないという現状は、今後も何も起こらないという信念となり、安全神話へと発展していった。しかし、安全神話も想定外の事態によって瓦解することとなる。それが、六本木ヒルズでの自動回転ドアによる男児の挟まれ死亡事故である。
神話の崩壊よって、拠り所を失った者たちは、自己責任という動物が本能としてもっている最大の防御に対して疑いのまなざしを向けるようになる。そして、子供の防御能力を排除して安全を制御することに血道を注ぐようになる。
しかし安全というものはそもそも絶対ではなく、想定でしかない。なぜなら、あらかじめ予想されうる異常を前提に、安全弁を設計していくからである。そこには不測の事態が起こりうるという厳然たる事実を省みる視線が欠如しているように思える。
子供たちが自身の身の危険に対して反応する免疫力を排除し、危険を見えなくしていく安全への配慮は時に不測の大事故へと直結していくように思えてならない。もし子供に痛みを感じる感覚がなかったとしたら、自分のからだを粘土細工のように切り刻んでしまって、大人になる頃には姿かたちがなくなってしまうだろうと本で読んだことがある。子供たちは危険に遭遇することを通して、自身の身体の大切さを学ぶ力を持っているのだ。子供の周りから危険を見えにくくすることは、その能力を退化させ、危険予知の行動をとれなくする。そして、大人たちは、ますます子供を管理下に置こうと躍起になる。
危険の排除が大きな事故を防ぐのか、小さな事故経験の積み重ねが免疫力を強化し大きな事故を防ぐのか?自分の子供に引き寄せて考えるとつい危険の排除に傾いてしまう。頭をよぎるその考えを乗り越えない限りは、「危険不可視社会」はますます広がっていくのだろう。

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