ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

夏目漱石 行人

2009-12-26 | パパ
夏目漱石の「行人」に登場する兄さんの言葉に耳を傾けてみる。
彼は言う
「自分のしていることが、自分の目的(エンド)になっていない程苦しいことはない」と。

歩くと、ただ歩いていられないから走る(かける)。と漱石は書く。

走って生きていくだけであれば、実は簡単なことなのかもしれない。どこかで、急に止められ、そこから這い上がっていく時、人間は痛みを感じ、何かに踏みとどまろうとする。(今のタイガー・ウッズや鳩山さんのように)しかしゲルハルト・リヒターは言う。

「なにかができるということは、なにかをする理由にはならない」と。

人は自身に発した問いに答えを出していく以外しか道は無いのだと言っているようにも聞こえる。
ゴルフをする理由をウッズは答えなければならないのである。なぜなら彼はできるのだから。

「人間の不安は科学の発展からくる。進んで止まることを知らない科学はかつて我々に止まることを許してくれたことがない。徒歩から人力車、人力車から馬車、馬車から汽車、汽車か自動車、それから航空船、それから飛行機と、何処まで行っても休ませてくれない。何処までつれていかれるかわからない。実に恐ろしい。」
この言葉に友は言う。
「そりゃ恐ろしい」と。
でも兄さんは言う。

「君の恐ろしいというのは、恐ろしいという言葉を使っても差し支えないという意味であろう。実際恐ろしいんじゃないだろう。つまり、頭の恐ろしさに過ぎないんだろう。僕は違う。僕のは心臓の恐ろしさだ。脈を打つ活きた恐ろしさだ。」

確かに我々はあらゆる恐怖を情報として認識することができる。でもそれは、生きることを担保にした考えに過ぎない。ほんとうの恐ろしさは、生きることを現実において否定する不気味な力なのです。
夏目漱石の恐怖は、生きることを当たり前の状況においている限り見えてこないものである。

「自身に誠実でないものは、決して他人に誠実でありえない。」
そして最後にこう言う。

「孤独なるものよ、汝はわが住居なり」

我々は便利な誠実さに甘んじているのではないでしょうか?

孤独とは誠実さだけでは生きていくことのできない苦しみの状態であって、他人というものを介在させ、紛らわせてそれでよしとするものではないと思います。
問いは、停滞ではなく次の展開へと導く壁なのである。

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