ティコ・ブラーエ


パパとママの視点から
子供と建築探訪
こどものおやつから考える体にやさしいレシピ

近眼の世界

2010-03-19 | パパ
僕は、眼が疲れると、眼鏡を外してみる。
すると、今まで明確な輪郭をもってそこに独立して存在していたいっさいのものは、一つの色の塊として溶け合う。そして、今まで会話をしていた人たちは、一つの色の塊となって、揺れ動きながら、会話の音だけが、僕の耳に響いてくる。
イギリスのロマン主義の画家で印象派の先駆とも言える作品を残したウィリアム・ターナーの世界のようだ。


   


この状態だけで生きていけるのだとすれば、近眼というのもさほど悪くないと思う。特に帰りの夜道で眼鏡を外して歩くと、いままで機能的に辺りを照らしていた照明たちが、巨大な花火の光のように目の前にものとして現れる。そして、奥行きは消失し、2次元の平面になる。驚くのは、その2次元平面から突然、何かの光の渦がこちらに近づいてくることだ。それは、アバターとは違う新しい3D体験といってもいい。(危険ですが・・・)
しかし、近眼のロマンにわれわれは、浸ってばかりはいられない。他者という自身と明確に分離された世界で生きていかなければならないのが現実だから。そう、すべてが融合した近眼という眼の特性がもたらした世界は、非日常なのである。
「見る」という行動は、頭を使う行為を伴う。つまり、眼で捉えた映像に解釈を加えていくことによって、世界を構成していく。だから、疲れるのだ。「見ない」という行為もある。眼をつぶれば、それは実現される。しかし、耳から不気味なノイズが忍び寄ってくるので、孤独感に苛まれ、これはこれで疲れる。その間を行くのが近眼の世界だ。頭から開放された光の塊とノイズが重ねられた世界はわれわれを日常という倦怠から救い出してくれる。そこは、真面目さを少しずらして、ほっとできる空間だ。
近眼の人もそうでない人もたまには、「見る」ことをやめ、ただ世界を「見える」状態でそのまま感じてみてはいかがでしょうか。




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