畑倉山の忘備録

日々気ままに

昭和天皇とマッカーサー

2017年05月10日 | 天皇

(木下道雄侍従次長の)『側近日誌』は天皇退位について、「これが折角いままで努力したMの骨折を無にする事になるので、M司令部はやっきとなり」と記している。この「Mの骨折」とは、言うまでもなくマッカーサーによる天皇の戦争責任を免責するための「骨折」である。

英連邦構成国のオーストラリアが天皇を戦犯リストに加えて連合国戦争犯罪委員会に提出した(1946年1月22日)のに対し、マッカーサーは、1月25日、天皇が日本の政治上の決定に関与した証拠はない、との進言を本国政府に送ったのだった。

もちろん、この内容は直ちに天皇側に伝えられず、伝えられたのは3月20日であったが、3月はじめとは、マッカーサーにとって5月から始まる東京裁判に備えて、天皇を起訴することなく、戦犯から除外するためのもっとも重要な時期でもあった。もちろん天皇側にとっても最も緊張した時期であったにちがいない。

3月2日には各国検事・検事補からなる執行委員会が組織され、4日から最初の執行委員会の会議が行われ、翌5日には被告人の人数は20名を超えず15名が望ましいとの合意ができ、11日の会議から被告人選定がはじまった。

さらにまた、昭和天皇は、たぶん東京裁判に出廷させられた場合の準備と思われるが、3月18日から、側近で宮内省御用掛の寺崎英成らに自己の戦争との関わりを語り、口述させていた。寺崎の3月18日の日記には「陛下病臥中ナリ」とあるほど、切羽詰った中での聞き取りだった。

こうして、憲法改正問題を同時進行する東京裁判問題あるいは連合国の情勢と重ね合わせてみるとマッカーサーにとって、憲法改正草案要綱は一日でも遅らすことのできないものだったことがわかる。それは天皇に象徴という地位を与え、退位を思いとどまらせるためだけではなく、連合国に対して、とくに極東委員会と東京裁判のために必要だったのである。しかも、それは天皇が将来に向かって自ら積極的に平和と人権を尊重した憲法をつくろうとしていることの証として、日本国民に対するとともに、連合国に対しても必要な憲法であったのである。

しかもそのためには、戦争放棄条項が盛り込まれたこの草案要綱を、東京裁判の被告人選定の段階で、直接天皇の言葉である勅語を付して発表する必要があったのである。この意味では戦争放棄条項は、天皇を戦犯から除外するための戦略として憲法に盛り込まれたといえよう。

マッカーサーが草案要綱を連合国に知らせることをいかに急いでいたかは、できあがった要綱をGHQは「当日直ちに飛行機でアメリカの極東委員会に送り、関係国に交付」した、と楢橋書記官長から聞いた話として入江が書いていることからもあきらかである。

(古関彰一『日本国憲法の誕生 増補改訂版』岩波現代文庫、2017年)