畑倉山の忘備録

日々気ままに

小沢氏を巡る裁判は江戸時代のお白州と同じ

2013年12月15日 | 国内政治
 昨日(2011年10月6日)、陸山会事件を巡る小沢一郎氏の初公判が開かれましたが、小沢氏が行った意見陳述は、事件の本質のみならず、我国が置かれた危機的状況にまで言及しており、よくまとまった内容となっています。読み返す価値があると思いますので、少々長いですが、以下引用します。

 起訴状への見解を申し上げます。検察の不当な捜査で得た調書を唯一の根拠にした検察審査会の誤った判断に基づくものに過ぎず、裁判は直ちに打ち切られるべきと思います。百歩譲って続けるにしても、罪に問われる理由は全くありません。政治資金収支報告書に間違った記載をした事実はなく、虚偽記載に当たる事実はありません。まして、虚偽記載の共謀をしたことは断じてないのであります。検察は、特定の意図で国家権力を乱用し、議会制民主政治を踏みにじったということにおいて憲政史上の一大汚点として残るものであります。

 そもそも政治資金規正法は収支報告書に間違いがあったり不適切な記載があった場合、会計責任者が総務省に報告書を修正することが大原則と思います。贈収賄、脱税、横領など実質的犯罪でないものについて、検察などが報告間違えや不適切な記載を捜査すると、自由な政治活動を阻害する可能性があります。国民主権を侵害する恐れもあります。何百件、何千件と数え切れない報告間違えがあっても実質的な犯罪でないものは、すべて収支報告書の修正で処理されてきました。唯一、私と私の資金管理団体だけが、実質的犯罪を犯した証拠は何もないのに、東京地検特捜部によって強制捜査を受けたのであります。

 もちろん私は収賄、脱税、背任、横領など実質的犯罪はまったく行っていません。なぜ、私だけが単純な虚偽記載で、何の説明もなく、突然に原則を無視して強制捜査を受けなければならないのか。到底、公正で厳正な法の執行とは言えません。

 西松事件の強制捜査、陸山会事件の強制捜査など、延々と捜査を続けたのは明らかに常軌を逸していたと思います。検察が政治家・小沢一郎個人を標的としたとしか考えられません。政治的、社会的に抹殺することが目的だったと推認できますが、明確な犯罪事実と根拠がないのに特定の政治家を対象に強制捜査をしたのは明らかな国家権力の乱用であり、民主主義国家では到底許されない暴力行為であります。

 特に許せないのは国民から何も負託されていない検察・法務官僚が議会制民主政治を踏みにじり、公然と国民の主権を侵害したことであります。一昨年の総選挙の直前、証拠もないのに検察は国家権力を乱用し、野党第1党の代表である私を狙ったのであります。とりわけ2年前の総選挙は本格的な政権交代が十分に予想された特別なものでした。こんな時に、総選挙の行方を左右しかねない権力の行使が許されるなら、日本はもはや民主主義国家とは言えません。

 戦前、軍人と官僚や検察・警察官僚らが結託し、マスコミを巻き込んで国家権力を乱用し、政党政治を破壊しました。その結果は無謀な戦争への突入と敗戦という悲劇でありました。昭和史の教訓を忘れ、権力の乱用を許すなら、日本は必ず同様の過ちを繰り返すに違いありません。

 東日本大震災からの復興はいまだ本格化せず、福島第1原子力発電所の事故は収束のめどすらつかず、加えて欧米の金融財政危機による世界恐慌の恐れが目前に迫ってます。政治の混迷が深まると、国民の不安が遠からず爆発して、偏狭なナショナリズムやテロリズムが台頭し、日本の将来は暗たんたるものになります。悲劇を回避するには、国家権力の乱用をやめ、政党政治への信頼を取り戻し、真の議会制民主主義を確立するしかありません。まだ、間に合うと私は思います。裁判官の皆様の見識あるご判断をお願い申し上げ、私の陳述を終わります。ありがとうございました。

 呆れたことに、我国の裁判制度(法意識と言った方が適切かも知れません)は、江戸時代と変わっていません。近代的な装いの裁判所も、お白州と同じなのです。

 我国の司法制度は欧米由来のものですが、基本原則は「疑わしきは罰せず」です。1000人の犯罪者を見逃すことより、1人の冤罪を作り出す方を恐れているのです。だから欧米の有罪率は半々ですが、日本の場合は99.9%です。つまり、起訴されたら殆ど有罪が確定したようなものなのです。起訴されただけで犯罪人扱いされるのは、このためです。

 有罪率99.9%は凄い数字ですが、これにはトリックがあります。有罪になりそうもない案件は、起訴されないのです。警察や検察はかなりの裁量権を持っているわけですが、逆に言えば、確実に有罪になるケースでも、彼らの胸先三寸でお構いなしにできるということです。だから身内の犯罪にはどうしても甘くなります。

 小沢氏のケースは、検察が不起訴にしたわけですから、彼らの強引な手法でも有罪に持ち込めないことが判っていたのです。ですから、今回の検察審査会による起訴も、勝てる見込みは殆どありません。裁判を長引かせて、小沢氏の政治生命を断つのが狙いです。何とも汚い連中です。

 今回の裁判について、テレビなどで識者がコメントしていますが、誰も皆、司法制度を理解していません。4億円の原資についてどんな金なのか明らかにせよと述べていますが、こんなことは裁判とは関係ありませんし、法廷は真実を明らかにする場ではありません。この辺に大きな誤解があるようです。

 真実が存在することは確かですが、神様でない限り、それを知ることはできません。人間にできることは、それに近づくことだけです。ましてや、世間知らずの裁判官に真実など判るはずはありません。法廷に存在するのは、告発する側にとっての真実と、弁護側の真実だけです。両者が弁論を戦わせたところで、真実は明らかにはなりません。裁判官は、法律に照らして犯罪を構成するかどうか判断するだけです。

 これはもちろん、裁判そのものが成立するとした場合の話です。そもそも裁判自体が成立しなければ(起訴すること自体無効ならば)、真実性など問われる筋合いはありません。たとえそれが犯罪がらみの話であってもです。それを明らかにするには、別の司法手続きを必要とします。

 今回の裁判の問題点はただ一つ、指定弁護士による起訴自体が無効であることです。検察役の指定弁護士は、焦点の4億円の借入を収支報告書に計上せず虚偽記入したとしていますが、この訴因について検察審査会は処分当否の審査をしないまま議決をしています。手続きに瑕疵があり、これでは起訴は成り立ちません。

 刑事事件では、裁かれるのは行政(検察)側であって、被告人ではありません。法律の専門家を含めて、一般の人は被告人が裁かれると思っていますが、これは間違いです。法曹関係者がこれを理解していないのて、日本の司法制度は前近代性を抜け出せないのです。

 強大な権限を持つ検察に告発されたら、国民はとても太刀打ちできません。これでは冤罪を防ぐことはできませんから、逮捕から起訴に至るまで、詳細な手続きが定められています。この手続きにわずかでも瑕疵があれば、有罪に持ち込むことはできません。法廷は、検察が行った手続きが適法なものであったかどうかを問う場でもあるのです。近代司法制度の下では、今回の検察審査会による起訴は無効であり、後の争点は瑣末なものに過ぎません。

 こうした無法が罷り通るところに、日本の社会が持つ暗黒面が表れています。デビッドが失脚したことで、こうした旧弊も改められると思いますが、司法や行政サイドの浄化を待っているだけでは根本解決にはなりません。見識を持った日本人を育てることが急務で、そうしなければ我々の権利は守られないのです。

(陽光堂主人)http://yokodo999.blog104.fc2.com/blog-entry-405.html