畑倉山の忘備録

日々気ままに

天皇一族のための戦争

2018年01月29日 | 歴史・文化
昭和16年12月4日入隊の津山章作が、北京から保定にいたる易県の、涞水見城にあった第十一中隊でのこと。北方トーチカまで四里の道を行軍すると、兵舎の前に朝鮮慰安婦がいた。

まさか第一線で兵と慰安婦が宿舎をともにしているとは、とても信じられなかった。涞水城内にも慰安婦がいて、本部へも自由に出入りしだした。

(中略)二年目に山東省南部の討伐後、本部に近い娼家をたずねた。

戦地の9割以上が朝鮮慰安婦だった。・・・・・・行為の間、頬をこすりつけてきたぐらいで声もださず、とりみだしもせず、息もあらげず、物足りないより哀れであった。未熟の果物のかたさが消えない子だった。(『戦争奴隷』津山章作)

「18年に北支那慰問にでかけたアラカンこと嵐寛寿郎は、元帥以下将校が、夜な夜な芸者を抱いているのをまのあたりみて、戦争は負けやと、確信した」(『聞書アラカン一代』竹中労)

昭和19年の京漢作戦に、第十二軍の四コ師団が参加したとき、稲村大隊長は部下の将校と下士官を集め、猛烈な訓示を行なった。

「何がなんでも洛陽は一番乗りをしなければならぬ。洛陽にはいったら、私は両手でトウモロコシを取って、一度に処女を三人ずつ強姦してやる・・・・・」

大隊長は自己の部隊が一番乗りをするために、部下に気迫を叩きこみ、狂気を掻きたてるべく、中国婦女子への強姦を、公然と教唆したのだった。(『戦争奴隷』津山章作)

慰安婦を男意識で叙情的な礼賛で書かれる作家もおられるし、兵の記録にもそれがみられることがある。また、命令の前には木の葉よりも軽い生命の兵に、荒れを防ぐ意で慰安婦の必要悪が主張もされる。

だが、皇軍といわれた兵に、殺生働きを命じたあの戦争は、だれのための、なんのための、戦争だったのだろう。そのみきわめのないことには、慰安婦必要悪の主張は、戦争の肯定者となるのではなかろうか。

(山田盟子『慰安婦たちの太平洋戦争』光人社NF文庫、1995年)