畑倉山の忘備録

日々気ままに

君は天皇を見たか(3)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭
私は『ヒロシマの嘘』を読み、福島菊次郎という原爆写真家に会い、大いなる疑問が私の胸の中に浮かぶのを抑えることができなかったのである。「国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってくれなかった……」

私は何かに憑(つ)かれたように、幾度も広島の街の中をうろついた。もちろん、原爆の痕跡をとどめるものはない。広島市内の古書店で、たくさんの関連書を買い込んだ。そして、広島の図書館にも行ってたくさんの本を読み、重要と思える本のコピーを取った。その過程で、私はドクター・ジュノーに偶然にもめぐり合うのである。

私は本だけでなく、いろんな雑誌にも注目していた。あるとき、中島竜美の雑誌論文「<ヒロシマ>その翳りは深く、被爆国の責任の原点を衝く」(1985年)に偶然巡り合い、初めてドクター・ジュノーを知ったのである。

マルセル・ジュノー(1904-1961)は赤十字国際委員会・駐日主席代表として、1945年8月19日に日本に着いた。戦火の旧満州・新京(現在の長春)から日本軍機で羽田に着いた。日本にいる捕虜の身体保全と傷病兵の救護が目的だった。ジュノーは米軍による原爆投下については何も知らなかった。この日本の東京で、ジュノーは原爆を知って驚くのである。

私は中島竜美を通してジュノーを知り、彼の著書『ドクター・ジュノーの戦い』(1981年。スイスでの原書出版は1947年)を読んだ。ジュノーは「日本も他の理由から、彼らに敗北をもたらした大破壊については、全く沈黙を守っていた。東京の新聞は、人々を降伏に備えさせる為、数日間原爆の破壊について大きく報道していたが、それが一切禁止された後では、大破局の実際の規模についての正確な報告は全くなされていなかった」と書いている。

ジュノーは広島の惨状を知るべく外務省を訪れるが、外務省はジュノーに原爆の情報を何ら伝えなかった。広島の惨状をジュノーに伝えたのは一人の日本の警官であった。9月2日、ジュノーは数枚の写真と、東京の検閲査証が押されていない電報の写しを与えられる。「……恐るべき惨状……町の90%壊滅……全病院は倒壊又は大損害……」

ジュノーはこの電文を携えて、マッカーサーが執務室を設けていた横浜商工会議所に出向くのである。4人の将官たちが彼と協議した。「この電報をお借りします。マッカーサー将軍に見せます」と約束した。マッカーサーはジュノーに15トンの医薬品と医療機材を提供し、その管理と責任をジュノーの赤十字に一任した。日本の天皇は、広島と長崎の惨状をマッカーサーにさえ隠そうとしていたのである。

ジュノーは9月8日、2人の将軍、物理学者モリソンと一緒に、広島から25キロ離れた岩国飛行場に着陸した。他の5機も近くに着陸した。15トンの医療品と共に。ここでジュノーは広島の医師・本橋博士と東大の外科医・都築正男と一緒に広島に入る。ドクター・ジュノーは次のように書いている。

「都築教授は、きらきらと光る眼をした熱血漢であった。彼は英語を話し、彼の考えはしばしば短い激烈とも言える言葉で表現され、それに身振りが加わって強調された。

『広島……ひどいもんだ……私にはわかっていた。22年も前に……』」

『ドクター・ジュノーの戦い』の「訳者あとがき」に、都築正男教授についての説明が付されている。

「原爆投下の22年も前に行われた都築正男博士のウサギを用いた先駆的実験が、学問的にはデトロイトで学会報告がなされていたにも拘わらず、国家権力によっては、その学問的成果が人道的にまったく生かされえなかった事実を、今日の国家の指導者も強く反省すべきである。この都築博士の実験報告こそは、アメリカの原爆投下が国際法違反であるという立場に、十分な論拠を与えるものである。」

核物質の危険性は既に知られていた。都築正男がその先駆者であった。だが、原爆は秘密裡に造られたのである。前述したヴィクター・ロスチャイルドの強制力が、チャーチル首相、ルーズヴェルト大統領を動かして。マンハッタン計画を知っていたのは、アメリカでは、ルーズヴェルト大統領、スティムソン陸軍長官、グローブス将軍、モーゲンソー財務長官と、物理学者たちであった。

トルーマン副大統領も、ウィリアム・リーヒ提督、マッカーサー、アイゼンハワーらの司令官も全く知らされていなかった。マンハッタン計画に従事した数万の人々も、自分達が何を造っているのかを知らされていなかった。このマンハッタン計画とその後の原爆実験で、アメリカでは広島・長崎を遥かに上回る数の人々が被曝して、今も苦しんでいるのである。

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)