畑倉山の忘備録

日々気ままに

君は天皇を見たか(2)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭
私は2008年に、『原爆の秘密(国外篇・国内篇)』を世に問うた。取材中のあるとき、報道写真家・福島菊次郎の『ヒロシマの嘘』(2003年)を読んだ。2007年秋、私は彼に会った。このことは「国内篇」の中で詳しく書いた。もうこれきりで帰ろうとしたときであった。福島菊次郎が突然叫ぶように言った。今も忘れることができないほどに私の胸をえぐったのである。

「君、スリーマイル島原発事故のことを知っているか」

私が会った時、福島は86歳。しかもガンの手術を3回もして痩せ細っていた。私はあのとき、原爆を書くことに熱中していたが、そこまでは頭が回らなかった。彼は突然に喋りだした。私は取材ノートに記録した。ABCC(原爆傷害調査委員会)のことについても知らなかった。彼は次のように語ったのである。このことは『原爆の秘密 (国内篇)』の中で書いたので引用する。

「君、あのとき(1979年のスリーマイル島原発事故)、アメリカ政府が放射能予防薬5万人分を急遽現地に急送した、という臨時ニュースが流れた。俺はそのニュースを聞いてピンと来たんだ。広島・長崎で10万人のモルモットから抽出した放射能障害の予防薬と分かったんだ。

俺は厚生省の役人に言ったんだ。「至急米国政府と交渉しろ。予防薬をとりよせろ」と。そいつは何と言ったと思うか。「国立予防医学研究所だ」というんだ。

俺はな、核禁団体、被爆者団体、そしてマスコミまで回って説いたんだ。

「てめえら命がおしくねえのか」と怒鳴ったんだ。

いいか、君、ABCCで抽出された薬はガンや発育障害を予防する薬として広くアメリカで売られているんだ。チェルノブイリ原発事故のときにも使われたんだ……。」

ABCC(原爆障害調査委員会) については、週刊朝日編集部編『1945-1971 アメリカとの26年』(1971年)に詳しく書かれている。要約する。

太平洋米軍総司令部の軍医などの主張によって、終戦後アメリカはいち早く広島に学術調査団を送り込んだ。この調査団が広島と長崎に研究所を設立した。厚生省の国立予防研究所が協力してできたのがABCC。1971年時点でもABCCは継続されている。

原爆患者の治療をしたのではない。患者の血を抜いたのである。その血をアメリカ人は結晶化し、薬に仕立てたというわけである。吉川清は『「原爆一号」といわれて』(1981年)の中で「治療は一切しないばかりでなく、検査の結果も何一つ知らせなかった。それではモルモットではないか、というのでした」と書いている。

被爆者が死んだときにはABCCは必ずやってきた。遺体を解剖させてくれというわけだ。1951年になると、ABCCは規模を拡大し、設備を充実して広島郊外の比治山(ひじやま)の上に幾棟かのかまぼこ型の施設を作って移転した。

広島に住む詩人・深川宗俊の主張を聞こう。

「占領軍が駐留していた頃は被爆者をもてあそんでいたくせに、今になって手のひらを返したように『世界人類のため』などとゴタクを並べて協力を要請する。そもそも原爆を落とした国が被害を受けた国に乗り込んで調査研究をやるというのは、人道上許せないことではないでしょうか」

このABCCを告発し続けたのが、私が前述した福島菊次郎だった。『ヒロシマの嘘』の中で彼は次のように書いている。

「政府は原子爆弾の被害に驚き、被爆直後に広島・長崎両市に『臨時戦災援助法』を適用した。しかし現地の惨状を無視して、わずか3カ月後の11月には同法を解除して30万被爆者を焦土のなかに野晒しにした。国家は戦争でボロ布のように国民を使い捨て、奇跡的に生き残った国民の命さえ守ってはくれなかった」

私はこの文章を読み返し、今、昭和天皇のことをいろいろと考えている。昭和天皇が「……天皇はご自分で原子炉の周りにあった柵を取り払って中に入り、階段を登って、原子炉の炉心部を、直接、ご覧になったんです……」

そうか、天皇も放射能を直接浴びたのか、それも自らの意思なのか……。

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)