畑倉山の忘備録

日々気ままに

君は天皇を見たか(4・完)

2017年08月06日 | 鬼塚英昭

昭和天皇とその一族、そして天皇に仕えた高級官僚や軍人たちは、原爆の被害の実態をマッカーサーにさえ知らせようとはしなかった。

ジュノーはスイスの赤十字国際委員会に電報を打ち、原爆患者を救うべく、医薬品を大量に送らせる準備をした。しかし、広島と長崎に医薬品が送られることはなかった。ジュノーの闘いは突然に終わりを告げた。日本赤十字社(日赤。当時の総裁は高松宮)がジュノーの申し出を拒否したからである。日本赤十字社の言い分は「医薬品は必要ありません」という簡単な理由によった。

奇跡的に生き残った原爆被爆者たちは、天皇一族により殺されていったのだ。私はそう思う。これが日本国家の偽らざる姿なのだ。

A級戦犯のある者は死刑となり、ある者は釈放された。彼らは全てCIAの要員となった。「ポドム」のコードネームは正力松太郎だが、他の連中にもコードネームが付いているはずである。ある者は朝鮮戦争のための物資調達係となり、ある者は政治家となり、多額の金をCIAから与えられ続けた。「ポドム」はマスコミの世界でアメリカのために働いた。

ジュノーは天皇に裏切られ、帰国を前にマッカーサーから声がかかった。ジュノーはマッカーサーの言葉を書き残している。

「現在の武器と、開発中の武器とで、新たな戦争が起これば、価値あるものは何一つ残らないだろう」

マッカーサーも軍人である。世界の権力を握る一部の人々には逆らえなかったのである。

マッカーサーがジュノーに「開発中の武器」と言ったとき、まだ原子力発電所は存在していなかった。第ニ次世界大戦後に発明された武器で最も大きな恐怖を生み出したものは、間違いなく、平和目的のために造られた核燃料発電所である。私たちは原子力発電所という言葉をそろそろ捨てたほうがいい。

講和条約が締結され、日本が独立した後も広島の原爆患者はABCCで採血され続けたのである。厚生省が協力し続けたのだ。

原爆写真家・福島菊次郎が、私をジュノーに会わせてくれたのであった。

私がこの項のタイトルにつけた「君は天皇を見たか」は、実は児玉隆也の『君は天皇を見たか』(1975年)からの借用である。児玉隆也は、赤提灯の「六歌仙」というー杯飲み屋に行き、その店を経営する原爆被爆者、高橋広子さんにインタビューしている。長い文章だから、ほんの終わりのところのみ記すことにする。昭和天皇の広島巡幸の場面である。

「あの人(昭和天皇)は、帝王学かなんかしらんが、自分の意思をいわん人やと聞いた。あの人に罪はない、原爆病院行くかわりに、自動車会社ヘ行かせた県や宮内庁の役人が悪いという人もいる。それならば、なぜ、戦争やめさせたのはあの人の意思やという “歴史” があるのですか。「神やない、おれは人間や」というたのですか。美談だけが残って、なぜ責任は消えるのですか。

うちゃあ情のうて、へも候(そうろう)や。」

日本の現代史はー杯飲み屋の女将さんの疑問に答える力を持たない。半藤一利、奏郁彦を頂点とする現代史家はこの女性の問いに答える力量を持っていない。あえて実名を書いて彼らに挑戦する。

私は『原爆の秘密(国内篇)』を書いているとき、一つの疑問を持つにいたった。取材も最後になっていた。長崎の原爆資料館でたくさんの本や資料を読んだが謎は解けなかった。長崎で原爆の本を書いている人に会い質問したが無駄だった。その日がいつだったのかは思い出せないが、ある晩、一人の少女が寝ている私に声をかけた。

「おいちゃん、あのね、あのね、アメリカの兵隊さんをね、私がね、原爆が落ちるから危ないからね、安全なところヘ連れていったの」

「どこへなの」

「裏山なの、友達みんなとー緒に連れていったの」

いまだに、そしておそらく生涯、この少女の顔も声も忘れることは断じてない。

私の謎が解けたー瞬だった。

その謎とはこうだ。原爆が8月6日の広島に、次いで8月9日には、長崎の三菱の巨大な兵器製造工場の真上で炸裂した。多くのオランダ兵、イギリス兵らの捕虜たちが収容所にいて死んでいった。アメリカ兵もたくさんいて、前日までは同じ工場で働いていた。しかし、アメリ力兵はー人も死ななかった。この謎を私は解こうとしていた。彼らは間違いなく、原爆投下を前にして、おそらく日本の軍艦で安全な場所に連れていかれたのだと知った。その場所を探すべく再び長崎ヘと旅立った。これが戦争なのだ。

私は原爆について、尻切れトンボのようだがこれ以上は書かない。突然、昭和天皇のことを書く気がしなくなった。私は天皇が原子炉の中を覗く場面を読みつつ、あの原爆少女の顔と声を突然思い出した。少女よ、君だったのか、天皇の手をひいて原子炉を覗かせたのは。

君は天皇を見たか?

(鬼塚英昭『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』成甲書房、2011年)