畑倉山の忘備録

日々気ままに

天皇と内閣の君臣関係

2019年01月27日 | 天皇
内奏とは、所管大臣が天皇に国政上の報告をすることである。内奏は天皇と大臣の2人だけで行われる密室の会話となる。その内容は外部に漏らさないのが大原則である。

1948年3月、内閣総理大臣になった芦田均は、新しい憲法で天皇は政治に参画しなくなったので、内外情勢の説明にはいかないことにしたところ、天皇に「ときどき来てくれ」といわれ内奏すると、天皇は米ソ関係などについてくわしい質問をした。昭和天皇の「総覧者意識」はそう簡単には抜けなかったのである。

芦田は、内奏はすべきに非ずという考えであったが、吉田茂は違った。吉田は内奏の回数が多いばかりでなく、他の閣僚に対しても積極的に “政情奏上” をするように命じた。1953年8月だけでも、本人を含め保利茂農相以下8人が内奏に上がった。

さて、内奏が政治問題化したのが「増原発言」であった。田中角栄内閣の防衛庁長官である増原恵吉が内奏に上がったところ、昭和天皇は「近隣諸国に比べ(日本のもつ)自衛力がそんなに大きいとは思えない。なぜ国会で問題になるのか」「防衛問題はむずかしいだろうが、国の守りは大事なので、旧軍の悪いところは真似せず(自分が最高司令官だったことを忘れて他人事のように…)、良いところをとり入れてしっかりやってほしい」と発言した。そのことを増原が記者団に紹介したのである。

そのあと増原は「防衛2法の審議をまえに勇気づけられた」と話したため、「天皇の政治利用」として糾弾され、5月29日には辞任に追いこまれた。天皇は事件をしって「もう張りぼてにでもならなければ」と嘆いたという。

佐藤長期政権を経て自民党政権で定着した天皇と内閣の「君臣関係」は、白紙に戻されることもなく、昭和天皇の死ぬ直前の竹下登内閣までつづけられてきた。

内奏ができなくなったら「自分は張りぼて」にでもなるのかと嘆いた昭和天皇に、はたして日本国憲法の基本精神が理解できていたのかといえば、まったく無理・無縁であった。というより彼は新憲法を理解することよりも「自分の立場」=「天皇家の安寧と幸福」を最優先し、最重要視する皇室的価値観だけが問題であった。

昭和天皇にそうしむけた「臣茂」の封建思想にも問題があり過ぎるものの、なんといっても、裕仁自身の時代錯誤性が最大・最難の問題であった。息子の代(明仁天皇)になってからも「天皇と内閣の君臣関係」に変化はない。

日本国はそうした天皇を象徴に戴いている。

(社会科学者の随想)