小笠原長棟
*小笠原長棟は分裂した、伊那小笠原家を屈伏させ、小笠原家の統一に成功した。また、隣国の諏訪家とは講和を結び、領内の治政の安定化に努め、信濃国人衆をまとめ上げた。
------------------------------------
小笠原長棟
時代 戦国時代
生誕 延徳4年3月19日(1492年4月15日)
死没 天文18年10月8日(1549年10月28日)
・・・没年を天文11年とする説があるが、これは仏門に入った年で、没は上記が正しい。
改名 豊松丸(幼名)、長棟
別名 又二郎、民部(通称)
官位 従四位下、信濃守、大膳大夫
幕府 室町幕府信濃守護職
氏族 府中小笠原氏
父母 父:小笠原貞朝
兄弟 長高(高天神小笠原氏)、長棟、定政、大日方長利
子 長時、信定、清鑑、洞雪斎(貞種?)、統虎
女子(藤沢頼親室)、女子(村上義清正室)
・・・・・寛政重修諸家譜による
-------------------------------------
小笠原長棟(1492-1549):法名「天祥正安広澤寺」
小笠原貞朝の子。豊松丸、又二郎、大膳大夫、修理大夫、信濃守、信濃守護。
明応元年、林ノ館に生まれる。
小笠原定基を討ち、次男信定を松尾城に入れた。下條氏の元にあった小笠原家伝来の家宝、書籍は長棟の物となった。こうして小笠原長時は一族の内乱を鎮圧した。
子は長時、信定、清鑑、貞種、統虎。
概容・・・
小笠原長棟は戦国時代の武将。府中小笠原氏の当主。貞朝の次男。
歴史
林城を本拠とする府中小笠原氏出身。智勇に優れた人物で、天文三年(1534)、対立する松尾小笠原氏の当主長基を打倒し、分裂していた小笠原氏を統一した。さらに敵対していた諏訪氏と和睦するなど、小笠原氏の戦国大名としての基礎と最盛期を築き上げた。 しかし後継の子に恵まれず、弟の長利を養子とした。その後に長時が誕生し、長利とは不和とり、長利は小笠原の家を離れ安曇郡に移り、対立関係にあった村上氏配下の香坂氏に身を寄せて大日方氏を称したと伝えられる。・・・天文十年(1541)に長棟は出家し、嫡男長時に家督を譲った。翌年の長棟の死後、八年で信濃小笠原家は滅亡に至った。
詳細・・・
小笠原貞棟は戦国大名へ・・・。信玄が松本平を狙った時期に、筑摩・安曇両郡の領主は府中小笠原氏でした。・・文亀元年(1501)8月、府中の長朝が没し、子の貞朝が跡を継ぐ。一方同族の松尾の定基は、伊賀良庄を領して南信濃の実力者として君臨していた。同年、尾張守護の斯波義寛が、定基に遠州鎮定の協力を求め、敵に味方しないようにと書状を出しました。永正三年(1506)には、駿河守護の今川氏親が小笠原定基へ書状を送り、三河の戸田憲光兄弟が敵方になったので、協力しないように依頼しています。・・永正三年9月、伊豆の北条早雲(伊勢長氏、新九郎、宗瑞)が、子供の氏綱や三河の戸田憲光とともに同国今橋(豊橋市)城主牧野成時を攻めるに際し、誼を通じて、戦況を定基に知らせています。さらに、9月に早雲は使者を派遣して定基に協力を求めています。このため十月、定基も三河の横林へ、早雲支援の兵を出しています。・・小笠原定基は、隣国の大名から協力を求められる力と関係性を蓄えていたようです。・・府中小笠原氏は明応二年(1493)に松尾とともに、鈴岡を攻めて事実上これを滅亡させています。これで小笠原惣領職をめぐって松尾と府中が争うことになりますが、長朝の時期には一応の平静でした。長朝は永正十二年6月に亡くなり、長棟がその跡を継ぎました。長棟は天文二年(1533)7月に五百騎で伊那に着陣し、28日に知久頼元や高遠頼継の軍勢と戦って勝利し、8月に頼継と会見しています。その後長棟は府中に戻りますが、府中小笠原氏はその勢力を下伊那にまで及ぼしていたのです。・・天文三年前後、長棟はついに松尾小笠原氏を圧倒し、定基を松尾から追放します。政秀伝来の小笠原文書をも手に入れ、松尾城に次男信定を置きました。府中小笠原氏は、安曇郡・筑摩郡、と伊那郡を手に入れ、守護職も手に入れたのです。府中小笠原氏は戦国大名への道を歩み始めなす。・・だが、諏訪氏と小笠原氏の関係は悪化していました。天文六年2月には、諏訪頼重の軍が塩尻を攻め、赤木・吉田の辺にまで放火して侵入します。10月には、頼重は塩尻の城を攻め落とします。諏訪氏に呼応する山家氏は、薄川の谷沿いを領しており、この年に小笠原氏と戦っています。・・長棟は天文七年10月、府中内での戦争が苦戦続きで、諏訪上社に神鷹二羽を小池左馬尉を使いに奉納しています。長棟も、軍神としての諏訪社を大事にしていたようです。翌年の天文八年6月に小笠原長棟と諏訪頼重との和睦。同年11月に頼重の祖父である頼満が亡くなり、16日に荼毘に。長棟は高遠頼継との関係が悪く、翌日になって上社へ弔問しています。ようやく小笠原氏と諏訪氏との関係は好転し、諏訪郡から松本平への攻撃はなくなりました。・・こうして、府中小笠原氏は村上氏と並んで信濃でも最大の勢力を誇るようになりました。
参考:(寛政重修諸家譜)
小笠原長棟の項・・・
小笠原長棟・・・
幼名・官名:豊松丸、又次郎、大膳大夫、修理大夫、信濃守、従五位下、信濃国守護
母:海野三郎成頼が女。
明応元年林の館に生る。さきに祖父長朝より一族左京大夫政秀に家伝の式を相伝せしかば、政秀これをとり行ふ。ときに門葉遠江守光康が孫六郎左衛門尉定基(後徹泉齋)信濃国松尾に在て、伊那六郎長政と号す。日々政秀が許にいたりて教をうけ、終に家伝を相伝す。しかるに定基、政秀が領地伊賀良庄をよび書籍等を掠めとらんと欲し、二年正月四日政秀歳首の嘉儀として松尾に至るの時、隙をうかゞひて殺害し、なをその子小次郎長貞も同国名子熊にをいてこをを害す。故に宗康が系統断絶す。このとき家臣等政秀が妻及び家の書籍等を携えて同国下條におちゆく。よりて家伝の書は失はずといへども、代々の影像、足利家の文書等は定基が為にうばはる。長朝これをきゝ兵を率し松尾をせめしばゞ合戦に及び、家臣溝口越前某父子等戦死す。其後政秀が室死してかの書籍財宝下條にわたり、二十余年が間ふかくこれをかくしをけり。定基これをしりふたゝびうばヽむと欲し、偽て下條源太時氏をまねく。時氏松尾に来るのときその途中に兵をふせ、毛賀沢の坂にをいてこれを害し、翌日下條に攻寄しに、時氏が父伊豆守元経防戦してうち死し、其父元弘入道雲石一人生き残りてこれをふせぐといへども、戦ひ甚危かりしところに長棟兵をひきいて援け来り、定基と合戦することすでに三年、定基終に力屈して降参をこふにより、一命をたすけて逐電せしめ、則長棟が二男民部大輔信定をして松尾城にをらしむ。このとき雲石より遠江守貞政入道正○(金偏に夷)、溝口美作守長友をして、さきに政秀に奪はれし所の当家重代の書籍家宝の名剣及び器物等ことゞく長棟にをくりしかば、ふたゝび家に収む。天文十一年二月十五日仏門にいり、十八年十月八日卒す。年五十八。天祥正安廣澤寺と号す。