探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・2

2013-11-04 01:29:22 | 歴史

・・2

諏訪家の内訌  ”諏訪の乱”

・・・・・ ・内訌・  一族間の覇権を争う内乱のこと

文明十五年(1483)正月8日、諏訪継満は、祭事にことよせ、惣領家政満一家を前宮神殿(ゴウドノ)に招き、酒宴をもって酔いつぶし、夜更け、隠れていた武装の一団を指揮し、嫡子宮若丸も含めて惣領政満と弟埴原田小太郎など一族を初め来客一同、10余人を皆殺しにした。
・・・それまでも、一族間に対立はあったが、ここで本格的な対立・内乱が起こる。時が文明十五年だったことから、後世にこの内乱を、諏訪家の「文明の内訌」と呼ばれるようになる。
この時の対立軸は、まず、大祝諏訪継満で高遠継宗が加担する。一方の惣領家は諏訪政満で、弟埴原田小太郎など一族などであった。
下社の大祝金刺氏は、当初傍観し、すぐ後に上社大祝諏訪継満側に加担するようになる。

諏訪家の内訌の原因・

一般的には、諏訪大祝継満が、成人を過ぎても大祝の職に留まり、戦国大名化を野望したためとされている。それまでは、大祝は、幼少の時期こそ神が宿るとされて、成人すると俗世に穢されるとされて退位して惣領家に入るか別家を立てるか、だったようだ。この神族や神官に関する部分は、自分の理解を超えるので、立ち入らない。
もう一つの遠因は、前年文明十四年(1482)に起こった高遠継満と代官保科貞親の荘園問題での対立と抗争にあると思う。この戦いは、やはり戦国大名を志向する高遠継満が領土拡大を目指して、大祝継満の荘園に手を出したものと見て良い。そこで、保科貞親は、大祝の代理戦争をした、といのが流れであろう。しかし、大祝の妻は高遠継宗の妹であった事から、やがて和睦した。当初代官保科貞親と同盟して一緒に戦った藤沢氏千野氏は、突然の保科貞親の和睦、寝返りに梯子を外され、惣領家と府中小笠原家に援軍を頼んだ。この時の惣領家は諏訪政満であり、同族が敵対したことにより、余計に政満に怨恨が残った。
と、この二つが原因のように思う。

文明の内訌の時、保科貞親はどうしたか、が興味深い。当然ながら、主人の大祝継満の重要な参謀であったことが想像されるが、和睦後は、大祝と高遠継宗の同盟のために働いたと思われる。ここで、大祝の居城であった武居城に、保科館の跡地と思われる「保科畠」が現在も残っているが、大祝と荘園代官の保科家が隣接していたと見る方が辻褄が合うが、保科貞親の居住の地が藤沢谷なのか武居城なのか、はたまた、どちらかが出張先の陣屋跡なのか、資料がないので定かではない。また、この文明の内訌の時に、貞親の嫡子が戦死している。

妻の実家・高遠継宗と下社方の加担もあって、惣領家の乗っ取りを企てた。この殺戮集団の中には政満の親類も多数いたといわれている。神聖な神殿を血で汚し、大祝継満自ら手を下し、返り血を浴びる光景を見て、神長官でさえも「まことに大祝とは申し難し」と憤る有様であった。
・・・ここで、大祝側は大きな誤算をする。本来関係性から、大祝の見方になるべき、神官長(守矢家)や神党の多くを敵に回してしまう。

惣領家方の憤怒も極まり、直ぐ敵討ちに立ち上がると、郡内武士の勢力の多くと神長官を初め社家方の枢要な人々も同心した。
前宮と周辺の社寺堂塔が焼かれ、継満は形勢不利をさとり、干沢(樋沢)城に立てこもるが、矢崎・千野・福島・小坂・有賀・神長官たちに攻め立てられ、遂に落城、一族残らず大雪の中、急峻な杖突峠を越えて高遠に逃げた。しかし継満の父、先の大祝・頼満は老齢で病身ため逃げ遅れ、城中で討ち取られた。64歳であった。
大祝継満にしても完璧な謀略を成し遂げた自信があった。しかし諏訪一族は、惣領家、大祝家等関係なく、あってはならない事態として猛反発した。

干沢城落城の日は大雪で寒気が厳しかった。特に内陸部の諏訪の寒気は厳しい。大祝継満は当初から干沢城籠城を想定していない。そのため兵糧の備えもない中、前宮神原に集住する大祝一族と家臣団の住居も、堂塔と共に焼き尽くされている。一族の非戦員の老幼女子も籠城せざるをえず。城内というが砦程度の山中の狭い敷地内であり、居住屋内の設備は堀立小屋程度でたかが知れている。寒気と疲労で、諏訪大祝の兵士と非戦闘員の老幼女子の多くが高遠逃亡の途上で凍死していた。・・・大敗北である。

下社は、文明十五年(1483)正月8日の上社内訌を好機として、一気に諏訪惣領家を略取し、起死回生を謀った。金刺氏は継満と組み高嶋城(茶臼山城)を陥落させた。その頃の高嶋城又は高島城と呼ばれる城は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山にあり、手長山の後ろの丘陵で、今は桜ケ丘とよばれている。
上下社領の境は、大和(おわ)の千本木川、諏訪湖、天竜川で、それぞれを湖南山浦地方と湖北と呼ばれた。高嶋城の築城は諏訪惣領家で、下社勢の大和と高木の両城の抑えと、湖北一帯の状況観察が意図されていた。 下社大祝金刺興春は百騎余りの兵を率い高嶋城を陥し、更に武津から上桑原一帯に放火し桑原城下の館を占拠した。更に桑原城の攻略に向かうも、惣領家に味方する矢崎肥前守政継を初めとする千野、有賀氏等の軍勢に駆り立てられて興春兄弟3騎を初めとする32騎と歩卒83人が敗死した。

文明の内訌で大祝継満が、高遠へ追放されると、惣領家支配となり茅野郷に本拠がある千野氏が城主として入城した。 上社惣領家勢は下社に討入り、社殿の悉く焼き払わった。守矢神長官は「為何御内證(本心)にて両社成広野」と嘆いている。金刺氏は没落するが、まだ余命は保っていた。諏訪惣領家と同盟する府中小笠原長朝も出兵していて、下社領の小野・塩尻郷を領有した。

大祝継満の再攻

高遠に逃げた継満は、義兄の高遠継宗と伊賀良小笠原政貞、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明十六年(1484)5月3日、兵300余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(いそなみ・まえやま;茅野市高部)に陣取り、は諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。・・・この片山古城は、別名武居城と呼ばれた。ここに大祝の居城・館があり、保科の館跡があったらしい。
・・・さらに、この時の再攻の主役は、高遠継宗のようである。
ここは、極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。 惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。

ところが小笠原長朝が筑摩、安曇両郷の大軍を率いて、片山の古城(武居城)を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが、東側の権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。

伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なかった。 継満も自らの残酷な妄動が、結局諏訪惣領家方の結束を強め、下社金刺氏をも無害にし、ここに始めて諏訪湖盆地を領有する一族を誕生させたことを知った。

以後の継満には、諸説があり、信憑性に欠くが、いずれにしても、継満一族は歴史上の本舞台からは消えた。 惣領家方は生き残った政満の次男・頼満に相続させると同時に、大祝に即位させた。5歳であった。

以上を整理してみると、諏訪家の四勢力の内、下社金刺氏と諏訪大祝家が、この文明の内訌で滅亡し、惣領家が生き残り、新しい大祝を立てて存続し、高遠家は、諏訪の勢力外と言うことで生き残った、と言うことになる。この時に大祝の所有する諏訪神領(荘園)は、どうも高遠家に帰属したと見るのが合理的な見方のようにおもう。以後、藤沢荘などの言葉が資料に見られなくなる。

 

文明の内訌の時、大祝継満と高遠継宗に援軍した、伊那の軍勢との関係は何であったのだろうか。この部分も興味が深い。

伊那の軍勢、伊那小笠原家

文明十一年(1479)伊那の伊賀良で兵乱が生じる。府中の小笠原長朝が伊賀良の小笠原政貞を攻めた。この時、深志の小笠原一族の重鎮・坂西光雅は伊賀良の小笠原政貞に属していた。坂西光雅は諏訪上社を信仰し、第8代将軍義政の時代の応仁二年(1468)には、頭役をやり遂げている。諏訪方はその関係もあり、小笠原政貞の援軍として、その本拠地伊賀良へ、大祝継満と高遠継宗が出兵している。
継満の妻は高遠継宗の妹で義兄弟になる。この時大祝継満は29歳であった。郡外にでるため一旦大祝を辞し、帰還後復位している。この時期大祝も郡外に出兵できる独自の兵力を養っていた事になる。それが文明の内訌へと繋がる。 文明十二年(1480)8月12日諏訪上社の兵が再度鈴岡の小笠原政貞支援のため伊賀良に出兵した。政貞の叔父・松尾の小笠原光康が甥の政貞を攻撃するため府中の小笠原長朝の援軍を要請したためであった。



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