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まほろば俳句日記

毎日見たこと聞いたこと感じたことを俳句にします。JーPOP論にチャレンジ。その他評論・エッセー、学習ノート。競馬も。

【俳句の此岸】ブラウン管で見たことのある人々/私とは誰か~プレおたく世代の現在(14)

2017-03-17 05:44:38 | エッセー・評論

マニアックとヒューマン昭和の日となれり   まほろば

70年代の終わりに近付いた1978年の秋頃に、私は吉祥寺の井の頭公園の野外ステージで歌う若者の集団に遭遇した。後に、ニッポン放送の深夜番組の主題歌を担当することになるKKとその仲間たちであった。この時の顔ぶれの中には、当時のサブカルチャーを盛んに紹介していた「平凡パンチ」誌に全頁コラムで紹介されたSK、ヒゲタ醤油の現社長のHなど面白いメンバーが揃っていた。このKKの人脈は凄く、11PMの台本や狩人の「あずさ2号」の作詞で知られた、当時のナンバー!放送作家のO氏や演歌の作詞・作曲家N 氏など、多くの有名芸能人と接する機会が出来た。現在のような、ITネット社会と違って、まだアナログの人脈つまり人と人のつながり(縁)で社会は出来ており、私のような下宿やジャズ喫茶で詩集ばかり読んでいた者も、人を見る眼の秀でた先行者たちに好ましいものとして映ったようだ。この頃はまだ【おたく】という概念は生まれておらず、玄人ばりのマニアックやヒューマン(無償の人間愛)が主流を占めていた。世の中は今より遥かに生き易かったのだ。このKKの人脈で、テレビ(広告)制作者と有名お笑い系プロ所属の放送作家にめぐり会った。KKのライブスポット出演などに付いて回りながら、芸能界の隅っこでブラウン管(当時、テレビ文化を指してこう言った)でよく見かける人々の間を駆け巡る日々が続いた。・・・《続く》


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あのドアを開けてみたってあなたはいない/J-POP論・POP詩の宇宙

2017-03-16 06:03:28 | J-POP論/POP詩の宇宙
あのドアを開けてみたって あなたはいない/暗い闇が私を待ってるだけよ  酒場にて』(唄 江利チエミ 他)
もうすぐ夜が明ける。ヤフーブログの前記事の【第三弾!演歌ナイト】で採用した『酒場にて』(原曲 江利チエミ)のカバーが一つの記事では入りきれないほどYOU TUBEにあった。この曲は1974年に発売された。江利さんにとっては初めての演歌だったように思う。当時、私は1970年代の新しいジャズの流れと同時に、ニューミュージックそして歌謡曲にどっぷり浸っていた。そのあげく、何人かのシンガーや作曲家と接するまでになっていた。俳句と出遭うのが1979年だから、そのかなり前に【演歌】とも出遭っていたことになる。俳句と演歌の違いは【口誦】の有無だけである。俳句はわずか17音であり、歌唱の1フレーズと合致する。私たちは俳句を作るともいい、詠むともいう。詠むとは歌うことに通じるものを、その根底に持っているのではなかろうか。私はほぼ毎日10句以上作っているが、心の中に浮かんだウイットに加え、挫折や愛飢や孤独感といった人間の情念に思わず身を沿わせることも多々あるように思う。1974年という時点で、20歳代になったばかりの私は、この曲の秘めた何かを全身で受け止め得たのだろうか。それから40年以上の月日が経ち、日々句を詠む渦中で人間の情念の在処に思い至ることもしばしばである。・・・《続く》

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ぽんぽん大将/新雑句雑感(189)~プロローグ5の終わり

2017-03-15 20:15:41 | 新雑句雑感

オタクとは滅びの美学冴返る  平成はや獣の領分冴返る  ぽんぽん船のぽんぽん大将冴返る(1960年代のNHK人気ドラマ)  I shall be releasedまたも冴返る(ボブディラン&ザ・バンド)  冴返るスカイツリーのもっと上  猫を追ふ足のもつれに冴返る  APA森友まだ滅ばざる冴返る  心経を胃で撹拌す冴返る  プレおたく世代の現在冴返る(当ブログで連載中)  「過渡の詩」がまたも入札冴返る(坪内稔典著の画期的俳論1978)  グレゴリア暦では真冬冴返る  造影剤効かぬ歯がゆさ冴返る  永山則夫の「無知の涙」よ冴返る  冴返る回転木馬加速せり  ハーケンの影深々と冴返る


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【俳句の此岸】誰もが見上げた70年代の空虚/私とは誰か~プレおたく世代の現在(13)

2017-03-15 02:45:49 | エッセー・評論

1976年の八王子アローンは出演予定のミルフォード・グレーブスの突如の出演中止で徹夜討論の場と化していた。もう41年もの時が過ぎ去り、記憶にはその時のいくつかの場面と人の顔が残っているだけだ。おそらく、こういうことだったように思う。ミルフォード・グレイブスの演奏は彼一人の独占物ではなく、聴衆一人々々に共有されるべきものであった。それが、彼一人の独断で消滅してしまったのはどうにも理不尽であるということである。彼の演奏の不在を我々はどのように受け止めればよいのか・・というどうにも出口の無い意味不明の【空虚】の中に誰もが放り出されていた。ただ出演予定者に対する怒りはそれほどなかったように思う。たとえ不成立に終ったにしても、そこに足を運んだ自分の【現在】の在り方にさしたる変化はなく、むしろ【不成立】という出来事を共有するという突発的な状況を楽しんでさえいたのかもしれない。終電時刻の0時過ぎが迫ると帰る者が出始め、終電が過ぎると、店のスタッフがクルマで送るという呼びかけもなされた。それでも、大半が始発の4時半までフロアに座り込んだり、店の前の路上に立ち竦んでいたりしていた。そこにいた誰もが1970年代後半のとば口の、何もかもが宙に浮いた行き先不明の時代の空間にあって孤絶しており、このようなことが起こってもそれほどの衝撃は無かったように思う。謂わば、この手のことは気分として日常にありふれたことだったのかもしれない。いずれにしても、1970年代の国内におけるフリージャズ・シーンの一大イヴェントは水泡に帰した。この年から3年間は相変わらずの昼夜逆転生活が続き、日夜、現代詩を読んだりフリー・ジャズのイベントを企画したり、ジャズスポットで友部正人さんのライブを企画したり・・の日々が続いていた。このフリージャズのアーチストと出遭ったのは、あの日比谷野音の小スペースでの彼らの定期ライブでのことで、聴衆は何と私一人であった。ちなみに、このアーチストはこの数年前にジャズ雑誌で16歳の天才ドラマーと騒がれていた。この時代は、誰もが単独者として共通の【空虚】と向き合っていたのだ。友部正人さんの場合も、会場側もジャズ以外のアーチストは初めてで大いに乗り気だったのを覚えている。友部さんとは中央線の吉祥寺の縁で何度か会っていたが、彼との最初の出遭いも高円寺の小ホールでのライブであった。この時の聴衆も私一人だったように記憶している。・・・《続く》


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【俳句の此岸】俳句革命の出発点『過渡の詩』が到着!/坪内稔典を読む(序・続)

2017-03-14 18:36:34 | エッセー・評論
永き日の俳句革命成就せず   まほろば  最新作  即興
 
真の革命とは、元々レーニンの世界革命、トロッキーの永久革命、毛沢東の継続(文化)革命・・と人類の続く限り終わることのないもの。21世紀に至り、俳句形式もついに【定型性】を剥奪され、未知なる人間の意識の産物に変容しつつあるようだ。
 
 
ヤフオクで落札した坪内稔典著『過渡の詩』(牧神社1978)が到着しました。出品者はおそらく大阪の古書店でしょう。今夜中にザッと目を通すつもりですが、1970年代の後半に各誌で書かれた坪内氏の評論を集めたもので、私が俳句に入門したのはこの書が出た翌年の1979年のことなので、その時点では初出に目を触れることはなかったわけです。俳句にも【近代批判】や【俳句=定型論】があったわけで、短歌ではかなり前から前衛短歌というものがあったわけですから、当然のことだったと言えます。そして、その俳句批判の主体は70年安保世代の坪内氏らだったのですから、二重の驚きでした。俳句とは全然古臭い上に、俳句(結社)屋というお話にも何にもならない保守反動の輩のやっていることで、簡単に打倒出来たはずのものでした。ところが、この時まで戦後33年もの間、子規・虚子らの一行の《定型詩》としての【近代俳句】は延命し、前衛俳句や社会性俳句の激しい揺さぶりにもかかわらず【一億総中流】の《老化》の著しい長期化を支える【慰安】の道具の一つとして長らえました。ところが、80年代以降の若者文化の再生(サブカル)を支えた【おたく】という批評シーンの進化過程において、俳句の《近代》や《定型性》そのものが人間の精神の祖形(ベーシック)から遊離し、ただそこらへんをふわふわと浮遊するモンスターアイテムの一変種と成り果てています。坪内稔典(俳号 ねんてん)もまた、夏井いつきのトモダチキャラの一人ということなのでしょうか。・・・《続き》

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