限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【2010年授業】『ベンチャー魂の系譜(8)-- Part2』

2010-11-22 13:33:32 | 日記
【ベンチャー魂の系譜 7.言語に魅せられた辞書作り(James Murray、諸橋轍次、大槻文彦)】

モデレーター:セネカ3世(SA)
パネリスト:
 イノッチ(総人・1)
 リョウニシ(経・6)
 フジコー(医・1)
 ゆうたろう(総人・3)
 A:聴衆

前回から続く。。。

【James Murray の個人的パッション】

(SA):もうひとつ、マレー自身にも、個人的なパッションはあった。それは、どのようなものであ
ったと思うか?まず、マレー自身はどこに生まれたのか?
リョウニシ:スコットランドに生まれた。名前を挙げたいという、パッションはあったと
思う。言語学者としての知的好奇心。
(SA):社会貢献をしたいという人が世の中多いが、その人が輝いていない限り、社会貢献
はできない。その人が一番パッションを持って、これをやりたいというものがあるという
ことが大切。マレーも、20年も30年も、辞書作りのために毎日仕事をした。マレーや、
大槻や諸橋も、言葉というものに対して、非常にパッションを持っていた。マレー自身も、
「もう一度生まれ変わっても、また辞書作りがしたい」と言っている程だ。その原因を辿れ
ば彼が、イングランドとスコットランドとの国境付近で、方言が豊かに残っていた地域に生
まれたことにある。子供のころから、他の国の言葉を勉強していた。大学は行かなかったが、
高校の教師になるまでに、十何カ国語かやっている。
リョウニシ:ヨーロッパの言語はほとんどやって、最後はサンスクリット語を勉強した。

(SA):そのように、言葉自身にものすごく興味があった。それで、マレーは誰に交渉して、
辞書を作り始めたのか?マレーは、オックスフォードとは、どのような関係であったか?
雇われていたのか?
ゆうたろう:マレーと、その他の編集長達で、始め、雇われていたのではなかったのでは
ないか?
(SA):では、そのときのスポンサーは、誰であったか?
ゆうたろう:広く資金を募ったのではないか。どっからお金が出てきたかは、わからない。
リョウニシ:言語協会などではないか。
(SA):確か、The Philological Societyではないか。要は、イギリスの言語学の組織があ
って。このようなプロジェクトの必要性を訴え、マレーもそれに参加したいと思った。
リョウニシ:マレーは大学に行ってないが、本当に言語に興味があって、言語協会に何回
か論文を提出していて、注目されていた状況で、話がきた。
(SA):オックスフォードは初めから関与していたが、お金がかかるので嫌がっていた。あ
と、本を読んだらわかるが、マレーの人の関係と組織との関係は非常に悪く、何回もプロ
ジェクトが潰れそうになったし、マレー自身も何回も辞表を提出寸前までいくが、どうして
最後まで続けて、完成させることができたのか?
リョウニシ:オックスフォードの人を説得したのではないか。
(SA):第1分冊が発行された後(1884年)、イギリス王室から250ポンドの年金が下賜
された。とにかく、資金不足や編集方針の激しい対立があったが、ハクス・ギブスやジャゥ
エト・オックスフォード総長などもマレーの援護や仲立ちをしてくれて、プロジェクトを
成功に導いた。結局いまのベンチャーもそうだが、すべてにおいて、意思が強固な人で、
いい仕事をやっていれば、サポーターが出てくる。そういうところを、このマレーのやり
方から、知識として見習ってほしい。

【英語・日本語の綴り】

(SA):OEDは、何年くらいからの単語を拾ってきているか?
ゆうたろう:シェークスピアの時代ぐらい。
(SA):もっとも引用されているのは、その時代。この辞書の凄い点は、単語を発生順に並
べた。例えば、king cyning cyng kinge など時代によって書き方は違う。昔の綴りを知ら
ないと、この辞書を編纂できなかった。綴りが大幅に揺れ動いているということは、日本語
には少ない。当時、この辞書を作る大きなきっかけは、綴りがめちゃくちゃであったこと。
表音文字で表現されているので、耳から聞いたつづりで書いた。帝王を、テイオウと書くか、
それともテイオーと書くか。日本語も orthography(正書法)はいまだに確立していない。
古い建物などに行くと、ビルヂングなどと書いてある。日本語の場合は、いまだに解決して
いない。cha,tya, chya など現在、適当に書いている人を多く見かける。ところでローマ字の
ヘボン記法で有名なヘボンとはどういう人か?
イノッチ:音声学者。
(SA):ヘボンの本当の名前は、ヘップバーン。1859年(安政6年)に来日した。日本人に
ヘボン式の綴り方を教えた。これがいまめちゃくちゃ。日本語の辞書では、そのようなと
ころがはっきりしていない。その当時は、何を書いてもいいと思われていた。
英語では、古フランス語から入ってきた、pursueという綴りも、もとはpro-sequi。O が U と
変化(なまり)し、R と U の位置が入れ替わった。

【狂人マイナー博士について】

(SA):ところで、マイナーは、どのような人であったか?

リョウニシ:アメリカ人で、医者だったが、軍医になって南北戦争に行った。処刑を軍医
に負かされていたらしく、処刑をしたことで、トラウマになった。夜になると、人に襲わ
れる妄想をした。イギリスに休養を取るために行ったのだが、殺人事件を起こし、精神病
院に入れられた。生きる目標がなくなっていたことに、OEDのボランティアを募っているの
を見つけた。
(SA):グリムの辞書とOEDの辞書を比べたときに、OEDの辞書のほうが圧倒的にいいと思
うが、そのポイントは、ボランティアの存在であったと思う。そのボランティアというも
のは、どのようなものであったか?
イノッチ:マレーが主体となってやったのは事実だが、一人で文献を調べるには限界があ
る。そのボランティアとして、各単語を調べる人がいた。
(SA):何人くらいいたと思うか?
リョウニシ:何百人単位でいたと思う。
(SA):どうやってその何百人を集めたか?ボランティアなので、お金を払っていないの
か?
リョウニシ:本、ジャーナルなどに広告を出して募った。

(SA):実際は何万人ものボランティアに手伝ってもらった。用例を探してくれる人を募る
紙を本に挟んでもらった。マイナーもそれを見て応募した。OEDとグリムの辞書を比べると、
イギリス人のほうが、圧倒的に組織力に長けている。もうひとつの大きな特徴は、フォン
トやレイアウトが非常に見やすい。グリムやそれ以前の辞書は、そのような配慮はまったく
ない。グリムの辞書より、圧倒的に読みやすい。OEDは、読みやすさを追究した。OEDには、
彼の執念が貫かれている。ぜひ、「言葉の情熱」を読んでほしい。そのパッション、自分が
言葉が大好きということと、大英帝国に相応しい辞書が必要だと感じていたことが、何
十年もの間、毎日十時間も働いても疲れない理由だ。しかし、条件は劣悪であった。私は、
マレーのこの熱意に感激している。しかしイギリス人にジェームス・マレのことを聞いて
ほとんどの人は知らない。これは非常に残念である。これはちょうど日本人が、諸橋の大
漢和辞典を知らないのと同じように、イギリス人もマレーのことを知らない。しかし、彼
らが辞書にかけたパッションのおかげで、いま我々が情報を簡単に手に入れることができ
るのである。おおいに感謝すべきであろう。



【大漢和辞典について】
(SA):諸橋轍次は、何年ごろにどこに生まれた?
リョウニシ:1883年。明治16年ごろ、新潟三条市に生まれる。青年時代に、中国に留学した。
(SA):大漢和辞典の第一巻の諸橋轍次の序をぜひ読んでほしい。また、第十三巻に鈴木一平
社長の出版後記がある。このふたつを読むと、魂が揺さぶられ泣けてくる。
鈴木社長は、とにかくいい辞書を作りたいと思っていた。鈴木社長が諸橋徹次に漢和辞書の
作成を依頼したら、諸橋轍次から、もっと内容が豊富な分厚いものを作ろうと逆提案され
た。そこで鈴木一平さんは、「先生が納得いくまで、お金を出します」とお願いした。実は、
当時、原稿が出来上がるまでの、お金は著者持ちであった。つまり諸橋轍次が原稿作成にか
かる費用を自腹で調達していたのだ。

(SA):私の試算では、この大漢和辞典を作るのに、現代の貨幣価値で約300億円くらいかか
っている。諸橋は当初、「2,3年で出来る」と思っていたが、結局トータルで30年かか
った。鈴木さんは、その諸橋轍次の苦労を見て、自分はまだ苦労は足りないと思い、鈴木
さんの息子さんが3人いて、帝国大学や高等学校などに行っているのだが、それを途中で
退学させて、辞書作りを手伝わさせた。20数年かかけて、原稿ができた。13巻分、1万
3千ページほどの組版が終わって、第1巻を刷った後に東京大空襲があり、組み版が全部燃
えた。何十年間の苦労が、パーになったはずであったが、ところが運がいいことに、最終
稿をコピーが、二部だけ疎開して残っていた。しかし、活字が全部焼けてしまって、鉛の塊
になって使えなかった。諸橋は、「おれの人生は終わった」かと思った。

(SA):第二次世界大戦の前は、活字を彫る職人が多くいたのだが、戦争以後、こういった職
人がいなくなった。5万字もの活字を何種類も掘りなおさなければならない。困っていたと
ころ、写植印刷の会社、写真植字機研究所の石井茂吉社長に頼んで、すべて作り直してもら
った。石井さんは、当初「これは無理だ」と断わった。しかし諸橋博士と鈴木社長の懇請に
動かされ、この為に死んでもいいと思い、仕事に取り掛かった。この石井さんがいなければ
、この大漢和は完成しなかった。昭和の30年ごろに、戦後初めて、大漢和辞典が売り出され
た。この初版の大漢和にはかなり誤植がある。出典が間違っていることが多くあった。例え
ば「資治通鑑」は1万ページあり、ある巻にあると書いてあったが、実際載ってなかったの
で、もう一度探し直すことになった。その後、引用の箇所を正確にチェックし直すだけに、
20年間かかっている。

(SA):さて、この話は、ウェブスターとも関連する。ウェブスターのもの以外にも、様々な
辞書があったが、アメリカの辞書では、ウェブスターのものが一番有名である。なぜその差
がでてきたのか?
イノッチ:精密性。
リョウニシ:普通の人にわかりやすい。
フジコー:ノア・ウェブスターは、イギリス英語のスペリングが難しすぎると考えて、自
分でわかりやすいようにスペルを変えて残した。それで、いろんな人にわかりやすくして、
いろんな人に使われたから。
(SA):イギリス英語で書かれたものも売れているが?
フジコー:それは、イギリス人だから。
(SA): Funk & Wagnalls (The Standard Dictionary of the English Language in 1894)
の辞書は、アメリカ製だから、アメリカ綴りであるが。
ゆうたろう:教育の関心があり、綴りも小学生向けに作った人。教育的配慮がある。わか
りやすく、使いやすい辞書。

(SA):ウェブスターが他社に勝てた理由は、改訂を続けたことにある。他社は、辞書が売
れているときに、改訂をしなかったが、ウェブスターは改訂を続けた。改訂するのには、
お金がかかり、売れた利益から、改訂の為に再投資することを他社は嫌がったが、ウェブ
スターはそれをやった。諸橋轍次の大漢和辞典もそれをやった。つまり、辞書は、新しい
単語を取り入れたり、間違いを訂正する、という地道な努力が生命線である。

(SA):ちなみに、ウェブスターもオックスフォードも、parrhesia(表現の自由)の語源を
para(side)+ rhsiaと間違えている。正確には、pan+rhesia(全て+言う)。
ウェブスターの第3版は、1961年のものだが、数年に一度、少しずつ単語を増やしている。
ブラッシュアップするのが大事。

               (完)
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