限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

沂風詠録:(第201回目)『資治通鑑の文章に関しての質問への回答』

2013-03-24 19:46:47 | 日記
先日、サシさんから次のようなコメントを頂いた。

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疑わしいものとは… (サシ)

資治通鑑を最近読み始めたのですが、後漢書や三国志では詳細が書かれている内容が資治通鑑では簡素に記されている事が有ります(例えば、手紙の内容が省かれているとか、ある将軍の出自が判明する会話がカットされているとか)。これはつまり、司馬光が"疑わしいもの"と判断して省いたのでしょうか?
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これに関して、調べたこととや私の考えを述べたいが、その前に資治通鑑を通読することに関して、老婆心ながら一言述べたい。

資治通鑑を読むと世界観が完全に変わることだろう。確かに、読むのは非常に大変だが本当の中国を知るには必読の本であるのは、以前のブログ記事、通鑑聚銘:(第1回目)『連載を始めるに当たって』でも述べた通りである。
 結論を言おう。私は、資治通鑑を読んだあとに確信したのは、『資治通鑑を読まずして、中国は語れない、そして、中国人を理解することも不可能である』ということであった。

中国の本当の姿が分かるということは、日本が分かることでもあるので、サシさんのように資治通鑑の通読に挑戦する意欲を私は歓迎したい。ただ、紙ベースの本で読もうとすると、途中で挫折する危険性が非常に高い。と、言うのも私自身も当初、紙ベースで読みだしたが、途中でうまく行かなくなった。それは、登場人物の関連や引用されている故事が理解できなかった。それで検索システムの必要性を痛感したので、自前で漢文検索システムを作った。その概要に関しては、以前のブログ記事、百論簇出:(第38回目)『自家製漢文検索システム』を参照して頂きたい。ただし、email の連絡先は次のアドレスに変更した:

さて、サシさんの質問は次の点である。
 『元の後漢書や三国志で書かれていることが資治通鑑では省略されているが、これは司馬光が元の記述を疑わしいと考えたためか?』

結論からいうと、司馬光は該当文章を必ずしも疑わしいとは考えていなかったと、私には思える。その理由を下記の4点から説明したい。
 【1】資治通鑑の目的
 【2】資治通鑑の文章の分量
 【3】司馬光の性格面(内藤湖南の指摘)
 【4】資治通鑑の執筆者



【1】資治通鑑の目的
資治通鑑というのは良く知られているように、司馬光が当時の皇帝(英宗)が史書を読みたくとも、浩瀚すぎるため読む暇がないのを憂えて、私的に史書のダイジェスト版を作り献呈したのがきっかけだと言われている。その内容が良かったので、その後、神宗の全面的なバックアップを受け、潤沢な資金と数多くの編纂者を加えて、20年近い年月をかけて完成された。

資料収集においては、先ず関連するすべての資料を集め、『長編』と言われる資料集を完成させた。この中には、当然のことながら、後漢書や三国志の記事は省略せずに全文が収められた。しかし、資治通鑑の本来の目的が帝王が知るべき歴史的事項を網羅するという観点から、項目や文章の選定がなされた。この面から、たとえ内容的には正しくとも、採用するに値しないと考えれば削ったはず、と考えられる。また、複数の資料からどの記事を採用するかに関しても、検討したはずだ。例えば、後漢末に関しては、後漢書と三国志の両方に、また唐に関しては旧唐書と新唐書の両方に記事が載っているが必ずしも一方に偏っている訳ではない。

つまり、削除された文は帝王が読む必要がないと判断された可能性が高い。

【2】資治通鑑の文章の分量
資治通鑑が参照している資料は膨大であるが、コア部分は史記から五代史に至るまでの史書であろう。そのボリュームを概算してみよう。
(資料として、中華書局の本文と注を使う。概算のため、バイト数は、1Mバイト=1000Kバイト=100万バイトと勘定する。)
 a.史記から五代史までの全バイト数 -- 38Mバイト
  (ただし、南史、北史、新唐書、新五代史は、他の史書と内容が重複しているので省く)
 b.史記から五代史までの本文バイト数 -- 33Mバイト
  (中華書局の史記から後漢書には、注が約5Mバイトの分量があるので、それを差し引く。)
 c.資治通鑑の全バイト数 -- 11Mバイト
 d.資治通鑑の本文のバイト数 -- 6.5Mバイト


以上から、本文で比較すると、史記から五代史の本文の総文字数は資治通鑑の約5倍(33 / 6.5 = 5.1)あることが分かる。つまり、資治通鑑は元の史書の文章の4/5以上を削除しないといけなかった訳だ。

その上、資治通鑑の原資料には、史書以外のものも数多く(222種)あり、それらの情報も記載されている。例えば、『酒有別腸』(酒に別腸あり)という文句は史書には記述がなく、資治通鑑(後晋紀・巻283)にだけ載せられている。これから類推すると史書以外の情報が盛られているので、史書からの文章はさらに多く削除されていたと結論づけることができる。内藤湖南の指摘によると(下記【3】参照)、唐代の全資料(長編)は元来600巻あったが、通鑑ではそれを約して80巻にしたという。つまり、原資料の1/8程度しか使わなかったことが分かる。

【3】司馬光の性格面(内藤湖南の指摘)
明治の碩学・内藤湖南の『内藤湖南全集』(筑摩書房)第11巻、『支那史学史』には中国の史書についての解説がある。資治通鑑については、P.204 - 220、にまとまった記述がある。

今回のサシさんの質問(内容の取捨選択)に関連している湖南の意見を見てみよう。
 a.通鑑は巧みに野史・小説を利用し、殊に近い時代の党の野史・小説が多数に存したから、之を良く採用した。。。(P.210)
 b.。。。ともかく実録・案牘の如き表面の材料の外に野史・小説によって当代の裏面の生活を表わそうとしたのは、通鑑・新唐書ともに同一である。(P.210)

さらに、湖南は朱子語類(巻134)に見える朱子(朱熹)の通鑑評を載せる。
 c.司馬温公(司馬光)は権謀を好まなかった人で、歴史上権謀に関係あることは大部分削ったとある。(P.212)
 (温公不喜權謀、至修書時頗刪之。)
 d.司馬温公(司馬光)は己の嫌いな事を捨てる風があると。(P.213)
 (温公修書、凡與己意不合者,即節去之,不知他人之意不如此。通鑑此類多矣。)

以上のことを述べたあとで、湖南は:
 かくの如く司馬光の人物によって材料選択の影響された点があるけれども、これは歴史を己の著述として書く場合には何人にもあり得ることであって、その取捨に至っては各々の識見に任す外はない。
と述べている。つまり、原文のどの部分を削除したかで、司馬光の識見が分かるということである。
【参照サイト】朱子語類原文

【4】資治通鑑の執筆者
資治通鑑のメインの執筆者は司馬光であるが、それ以外にも当代の碩学が数多く参画している。通鑑の最後に、進書表(中華書局・P.9608)が載っているが、そこには代表者の司馬光以外に、次の人たちの名前が見える。司馬康、范祖禹、劉恕、劉攽。


通鑑の中で、項目の選定や文章に関してはこれらの学者たちの独自の史観も反映されているのではないかと私は思っている。つまり、通鑑の文章の中で省略されている部分には、司馬光以外の執筆者の史観から不要と考えられた部分もあるのではないか、ということだ。

結論としては、原文を削除されているのは、物理的にやむを得なかった、と共に司馬光やその他の執筆者各人の史観から帝王に必要なし、と判断されたためと考えられる。

以上で、サシさんへの回答としたい。
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1 コメント

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わかり易い回答 (サシ)
2013-03-25 12:11:05
をしていただきどうもありがとうございます
これで永年の疑問が氷解しました。感謝感激の至りです
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