出世するには「運・鈍・根」が必要と、よく言われる。「鈍」とは、「繊細でない」という意味ではなく、「感情を抑制できること、物に動じないという」と理解できる。また、「根」とは「辛抱つよい、根気よく」だ。これら2つのものは、自分の修養次第で磨いていくことができるが、最初の「運」というのは自分だけの力ではどうしようもない。
イギリスの作家ミルトンは、「運(chance)」という語に対し、次のような辛辣な定義を与えている。
That power, which erring men call Chance. (失敗した人がChanceと呼ぶ力)
失敗した人間は、自分の実力が足りなかったのではなく、運が向かなかっただけと言い訳するということだ。「成功するのは実力、失敗するのは運」と考える人を皮肉っている。
一方、同じくイギリスの哲学者のサミュエル・クラーク(Samuel Clark)はもうすこし具体的にChanceを次のように説明する。
It is strictly and philosophically true in nature and reason that there is no such thing as chance or accident; it being evident that these words do not signify anything really existing, anything that is truly an agent or the cause of any event; but they signify merely men's ignorance of the real and immediate cause.
【大略】厳密な意味でも哲学的な意味でも、運とか偶然とかいうものは本来的にも理屈の上からも存在しない。明らかに、これらの単語(運、偶然)は何らの実体を指し示すものでもないし、何らかの現象を引き起こすものでもない。単に人間が本当の原因を知らないという無知さ加減を言っているに過ぎない。
クラークの指摘は「運とは実体もなく、捕まえることも測定することも不可能なものであるが、人間の叡智が高度になれば、今まで運だと解釈されていたものも、因果関係を説明できるようになるはずだ」と、理解することができる。おそらくクラークの言い分は「人間の叡智が高まって、神の領域に近づけば」という前提条件をわざとぼかして言っているのであろう。
【出典】"View of the Roman Forum from the Capitol" by Giovanni Paolo Pannini
ところで、この不可思議な「運」については、セネカの『ルキリウス宛道徳書簡集』《71》には次のような文句が見える。
(原文)Necesse est multum in vita nostra casus possit.
(私訳)我々の人生は運によって大きく左右されている。
(英訳)Chance must necessarily have great influence over our lives.
(独訳)Notwendigerweise hat in unserem Leben der Zufall großen Einfluß.
(仏訳)Comment le hasard n'aurait-il point sur notre vie un pouvoir immense ?
セネカは言わずとしれたストア派の巨匠であるので、ストア派のドグマである「宿命論」を信奉している。従って、不運に見舞われても神から与えられた試練として、忍従することが人として為すべき義務ととらえる。当然の事ながら、運には不運だけでなく幸運もあるが、その都度、喜怒哀楽の感情のジェットコースターに振り回されることなく平常心を保て、と説く。
さて、上に挙げたフレーズの後には
quia vivimus casu
「なんとなれば、我々は運によって生きているのであるから」という文が続く。
わずか3語ながら、この文はなかなか意味がとりにくい。というのは、ラテン語には奪格(英:ablative case)という格があり、英語やドイツ語のような近代ヨーロッパ言語の「前置詞+名詞」に相当する。近代語では前置詞で意味がおおまかに掴めるが、ラテン語の場合、一体化しているために、どの前置詞かはコンテキスト依存、つまり推測するしかない!この部分、英訳は「by chance」独訳は「durch Zufall」、仏訳は「au hazard」となっている。これらの訳を総合的に考えると「我々が生まれ、現在、息をしているのも運の賜物だ」と解釈するのが妥当だろう。
だが、もうここまでくると、ストアと仏教の「縁」とは指呼の間ではないだろうか!
イギリスの作家ミルトンは、「運(chance)」という語に対し、次のような辛辣な定義を与えている。
That power, which erring men call Chance. (失敗した人がChanceと呼ぶ力)
失敗した人間は、自分の実力が足りなかったのではなく、運が向かなかっただけと言い訳するということだ。「成功するのは実力、失敗するのは運」と考える人を皮肉っている。
一方、同じくイギリスの哲学者のサミュエル・クラーク(Samuel Clark)はもうすこし具体的にChanceを次のように説明する。
It is strictly and philosophically true in nature and reason that there is no such thing as chance or accident; it being evident that these words do not signify anything really existing, anything that is truly an agent or the cause of any event; but they signify merely men's ignorance of the real and immediate cause.
【大略】厳密な意味でも哲学的な意味でも、運とか偶然とかいうものは本来的にも理屈の上からも存在しない。明らかに、これらの単語(運、偶然)は何らの実体を指し示すものでもないし、何らかの現象を引き起こすものでもない。単に人間が本当の原因を知らないという無知さ加減を言っているに過ぎない。
クラークの指摘は「運とは実体もなく、捕まえることも測定することも不可能なものであるが、人間の叡智が高度になれば、今まで運だと解釈されていたものも、因果関係を説明できるようになるはずだ」と、理解することができる。おそらくクラークの言い分は「人間の叡智が高まって、神の領域に近づけば」という前提条件をわざとぼかして言っているのであろう。
【出典】"View of the Roman Forum from the Capitol" by Giovanni Paolo Pannini
ところで、この不可思議な「運」については、セネカの『ルキリウス宛道徳書簡集』《71》には次のような文句が見える。
(原文)Necesse est multum in vita nostra casus possit.
(私訳)我々の人生は運によって大きく左右されている。
(英訳)Chance must necessarily have great influence over our lives.
(独訳)Notwendigerweise hat in unserem Leben der Zufall großen Einfluß.
(仏訳)Comment le hasard n'aurait-il point sur notre vie un pouvoir immense ?
セネカは言わずとしれたストア派の巨匠であるので、ストア派のドグマである「宿命論」を信奉している。従って、不運に見舞われても神から与えられた試練として、忍従することが人として為すべき義務ととらえる。当然の事ながら、運には不運だけでなく幸運もあるが、その都度、喜怒哀楽の感情のジェットコースターに振り回されることなく平常心を保て、と説く。
さて、上に挙げたフレーズの後には
quia vivimus casu
「なんとなれば、我々は運によって生きているのであるから」という文が続く。
わずか3語ながら、この文はなかなか意味がとりにくい。というのは、ラテン語には奪格(英:ablative case)という格があり、英語やドイツ語のような近代ヨーロッパ言語の「前置詞+名詞」に相当する。近代語では前置詞で意味がおおまかに掴めるが、ラテン語の場合、一体化しているために、どの前置詞かはコンテキスト依存、つまり推測するしかない!この部分、英訳は「by chance」独訳は「durch Zufall」、仏訳は「au hazard」となっている。これらの訳を総合的に考えると「我々が生まれ、現在、息をしているのも運の賜物だ」と解釈するのが妥当だろう。
だが、もうここまでくると、ストアと仏教の「縁」とは指呼の間ではないだろうか!