限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

翠滴残照:(第1回目)『連載を始めるに当たって』

2021-01-17 21:46:41 | 日記
私が本格的に読書を始めたのは、以前のブログ『徹夜マージャンの果てに』でも書いたように大学3年生の20歳の時であった。振り返れば、すでに40年以上も前の話である。それから、濃淡はあったが、読書はずっと続けてきた。その経緯については、最近ビジネス社から上梓した『教養を極める読書術』に書いた通りである。

始めのうちは、本の著者に対しては敬意を払っていた。というのは、「自分の名前公にして、世の中に本を出すのであるから、まともに調べ、深く考えて書いているに違いない」と信じていたからだ。それで、丁寧に読んでいて、理解できない点があれば、自分の未熟さをはがゆく思ったものだった。

しかし、そのようにして何百冊かを読んでいくと、次第に納得できない記述に出くわすようになってきた。一例が、『教養を極める読書術』にも書いた、和辻哲郎の『風土』である。特段、和辻に恨みがあって個人攻撃をする訳ではないのだが、文化勲章を受章している人で学識も申し分ないはずだが、論理が通っていない、トンデモ本のように私には思えた。『風土』の最初の辺りには「ふむふむ」と読んでいたのだが、次第にどうもやりきれなくなって、途中から引き返して、再度初めから読み返してみた。その結果、はじめの個所にもやはりおかしい個所ばいくつか見つかった。和辻以外にも、トンデモ本はあるが、まだ存命中の著者もいるので、名前を出すのは控える。



いずれにせよ、『教養を極める読書術』でも書いたように、性根を入れて読書してみて始めてショーペンハウアー(Schopenhauer)が口をすっぱくして言っていた Selbstdenken(自ら考えること)の重要性を身に染みて感じた次第だ。実際、ドイツやアメリカの留学中にしばしば経験したが、欧米人と議論していると、時折、日本では経験したことのないような非常に鋭いつっこみに出くわすことがあった。何回も真剣な議論をしてみて、ようやく私は「健全な懐疑心」こそが欧米文化のコアであることを納得するに至った。それは元をたどればギリシャ精神にまでたどり着く。決して、キリスト教などではないことも重要な点だ。

ドイツやアメリカでの留学を通じて「健全な懐疑心」を肯定的にとらえることができた。そうすることで、そこまで何となく感じていた、世間の常識や伝統的な考え方に対する違和感の正体が明かになった。つまり、これらの常識や伝統的な考えかたにはゼロベースで理性的に考えると正しくないものがあるが、だれも敢えて異を唱えない。一例として、江戸時代の年貢を考えてみよう。歴史の授業などでは、農民に重税が課せられたと言われるが、理論的に考えると「年貢は四公六民以下」でないと辻褄が合わないにも拘わらず已然として、江戸時代は重税で農民は苦しい生活を強いられたと教える。(詳しくは次のブログを参照して頂きたい。)
惑鴻醸危:(第25回目)『定説への挑戦:江戸時代の年貢は四公六民以下だった!』

理論だけでなく、実際の記述をチェックしてみよう。江戸時代に長崎から江戸まで旅行した外国人の書き物がある。例えば、有名なのは、次の3冊:ケンペル『江戸参府旅行日記』、 C.P.ツュンベリー『江戸参府随行記』、シーボルト『江戸参府紀行』。彼ら口を揃えて、当時のヨーロッパの庶民より、日本人の方がよほど暮らし向きがよかった、と述べている。こういったことから、私が導きだした答えが間違いではなかったことを確信した。

このように、私は本に対し「健全な懐疑心」を持ち、「権威に寄りかかったり、屈する ことなく、自主性をもって読書」する方針を貫いてきた。この「翠滴残照」(すいてき・ざんしょう)ではそのような方針の成果として私の読書感想を綴ろうと思う。まず最初は、「隗より始めよ」という言葉にもあるように、私自身の最新刊『教養を極める読書術』を俎上に載せて批評しよう。ついでに、書き忘れたことや、書き足りなかった点も付け加えたい。

続く。。。
コメント
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