限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第355回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その198)』

2018-04-26 21:21:42 | 日記
前回

【297.狡猾 】P.870、BC57年

『狡猾』とは「悪賢くて、ずるい」という意味。しかし、漢字本来の意味を探ってみると「狡」とは「小さい犬」であり、「猾」とは「乱れる」という意味であったようだ。しかし、その内に「猾」が「黠詐(はらぐろく、だます)」という意味になり、「狡」は「猾」と同じ意味を持つようになった。漢字にはよくあることだが、「狡猾」とは「猾猾」と、全くダブった言葉になった。考えてみるに、現在のように文書で伝播することがほとんどなかった古代の中国では ― もっとも、中国に限らず世界中どこでもそうであったが ― 言葉というのは、視覚的要素(文字)ではなく、音的要素(声)で意味が正しく伝わるようでなければいけなかったはずだ。それで「カツ」という単純な音では必ずしも「ずる賢い」という意味の「猾」が伝わらないため、わざわざ意味的にダブルことを承知で「コウカツ」と長めの音にして意味を正しく伝えようとしたと考えられる。一方、視角的観点から「狡猾」という字を眺めてみると、どちらも「ケモノ扁」が付くことが分かる。これによって、「コウカツ」の字を見ると、どことなく否定的なニュアンスが立ち昇ってくる。

「狡猾」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。総体的に近世・近代にはあまり用いられず、どちらかというと古代において用いられた語句であることがわかる。



辞海(1978年版)を見ると、「狡猾」の一番目の意味として「狂乱」をあげ、二番目の意味として次のような説明を挙げる。
「方言『小児多詐謂之狡猾』。按、今亦謂人詭譎多端、曰狡猾」(《揚子方言》には『子供は多くの場合「詐」のことを「狡猾」と言う』とある。また、今、人々は「詭譎多端・うまく言いくるめてだます」ことを「狡猾」とも言っている。)

ここで「方言」というのは、前漢末の文人、楊雄が著した『揚子方言』のことである。つまり、この説明から紀元前後の中国ではすでに「狡猾」が「だます」という意味で使われていたことが分かる。それだけでなく、漢代には「狡猾」のネガティブイメージがすでに定着していた、として辞源(1987年版)は次のような説明を挙げる。
「漢時律令有狡猾不道之文、常見於劾奏文書」(漢の時代の律令には「狡猾不道」という単語が使われているが、これは常に弾劾の奏上文に見える。)


人を弾劾する時には、単なる「狡猾」では言い足らず、常に「不道」(道に外れた)という言葉とセットになっていたということだ。実際この「狡猾不道」が使われている場面を資治通鑑から見てみよう。

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韓延寿が蕭望之に代わって左馮翊になった(現在の日本に喩えると首都・東京都の都知事につぐ地位の神奈川県知事のようなものか?)。蕭望之は韓延寿が東郡に任官されていた時に役所の金、千数百万銭(数十億円か?)を部下にばらまいたという不祥事をつかんだ。それで、部下の検察官に調べさせた。韓延寿がそれを知り、対抗手段として部下に蕭望之が馮翊(知事)の時に、祭式のために備蓄していた金、百数十万銭を勝手に使っていたのではないか疑って調査させた。蕭望之はそれを聞くや、いち早く自から帝に奏上した「私の職務というのは世の中の監督です。何か不審なことがあれば調べずに済ますことはできません。このために、韓延寿にでっち上げの罪をきせられました。」宣帝はこれを聞き、韓延寿は不正直なヤツだと思った。そこで、韓延寿と蕭望之のそれぞれのケースを調査させたところ、蕭望之の件は事実無根であることが判明した。蕭望之は検察官を派遣して東郡の韓延寿の関係者を調べさせたところ、祭礼の時の騎士たちが、規則を無視して贅沢三昧し、その上、国庫から勝手に銅を盗み出し、月食の時に刀剣に鋳込むなど、あたかも専門の部署(尚方)のような事を行っていたことが分かった。また、国庫の金銭を使い、下っ端役人や庶民を私用にこき使ったり、乗り物や武器・甲冑、合わせて 300万点以上を無断で飾り付けたり、と次々に金銭の不正流用が明るみになったので、とうとう韓延寿は「狡猾不道」の罪で、公開処刑されることになった。処刑の当日、庶民、数千人が都の渭城まで韓延寿の乗った車に付き従い、争って酒と肉を韓延寿に差し出した。韓延寿は庶民の好意を断るに忍びず、出される酒を全て飲んだので、とうとう一石(日本でいう一斗)も飲むはめになった。韓延寿は部下たちに見送りに来てくれた人たちにお礼を述べさせて「わざわざ遠くから私のために足を運んでくれて感謝に耐えない。これで、死んでも思い残すことはない!」と言った。この言葉を聞き、涙しない者はいなかった。

韓延寿代蕭望之為左馮翊。望之聞延寿在東郡時放散官銭千余万、使御史案之。延寿聞知、即部吏案校望之在馮翊時廩犠官銭、放散百余万。望之自奏:「職在総領天下、聞事不敢不問、而為延寿所拘持。」上由是不直延寿、各令窮竟所考。望之卒無事実。而望之遣御史案東郡者、得其試騎士日奢僭制;又取官銅物、候月食鋳刀剣、効尚方事;及取官銭私仮徭使吏;及治飾車甲三百万以上。延寿竟坐狡猾不道、棄市。吏民数千人送至渭城、老小扶持車轂、争奏酒炙。延寿不忍距逆、人人為飲、計飲酒石余。使掾、史分謝送者:「遠苦吏民、延寿死無所恨!」百姓莫不流涕。
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韓延寿は現代的観点からいえば「公金横領」という罪であるが、決して、全ての金を自分の懐に入れたのではなく、いわば公共福祉のために使ったのだ。つまり、政府が徴税した金を自分の独断で民間に還元したということだ。ただ、中国ではこういった金は必ずしも、公平に分配される訳でなく、当然のことながら韓延寿一派には手厚くなる。この場合は、その分配の不公平がかなり度が過ぎたので、厳罰の処されることになったのではないかと思われる。

韓延寿は蕭望之を陥れようとして、返り討ちにあってあえなく敗れ、処刑されることとなったが、庶民にとっては善政の人であったようだ。と言うのは、罪人の見送りに何千人も集まったからだ。それも、お義理ではなく、心から韓延寿の今までの恩恵に報いたいと庶民が思ったからだ。歴史上では罪人とされている人でも本当の価値は、教条的な観点からでは正しく判断できないということがよく分かる例ではなかろうか。

続く。。。
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