限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第353回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その196)』

2018-04-12 21:46:18 | 日記
前回

【295.踴躍 】P.3234、AD370年

『踴躍』は、現在の日本語では「勇躍」と書き、「勇んでおどりあがること」という意味である。どちらも「ゆうやく」と読む。ただ、漢字辞典の辞海、辞源、諸橋大漢和、のいづれも「踴」は「踊」を見よ、と書いている。「踊躍」(ようやく)を辞源(2015年版)でチェックすると「踊躍」とは「歓欣奮起、争先恐後」(よろこび勇んで、先を争い、後になるを恐れる)と説明する。とにかく、積極的に前に出ていくという意味であるということが分かる。

「踴躍」の他に、類似の「勇躍」と「踊躍」を二十四史(+資治通鑑+続資治通鑑)で検索すると下の表のようになる。



この表を見て分かるのは、日本で使われている「勇躍」は資治通鑑と清史稿に、それぞれ一回づつしか使われていないことである。資治通鑑(巻139、P.4361)では《「勇」当作「踴」》(「勇」は「踴」と書くべきである)との胡三省の注記がある。一方、清史稿(巻333、P.10992)では「奮勇躍入殺賊」とあるがこれは、「奮勇、躍入、殺賊」と区切るべきなので、「勇躍」の使用例とは言えない。つまり「勇躍」は漢語ではなく日本語であるということが分かる。

【注意】いつも出している、この二十四史の検索結果は、機械的に処理しているため、このように本来の連句ではないケースもいくつか含んでいる。学術的に正確を期すには、本当は一つ一つの個所をチェックする必要があるが、私の方針は、「だいたいの目安が分かれば良い」との方針であるので、一件づつチェックしていないことを了解されたし。

また、「踴躍」と「踊躍」を比べてみると分かるのは、使われている時代に偏りがみられるということである。ざっくり言って、「踴躍」は近代、「踊躍」は古代に多く使われている。

ついでに日本でよく使われる「活躍」は漢文としては、使用例はゼロである。ただ、現代の中国では使われているのは、日本語からの借用語であることが分かる。

さて、資治通鑑で「踴躍」が使われている場面を見てみよう。

時は、五胡十六国時代。苻堅を補佐して華北を統一した前秦の名宰相の王猛が前燕の慕容評の30万人もの大軍を打ち破る場面。

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王猛が渭源に陣を布き、神々に次のように宣誓の言葉を述べた。「私、王景略(王猛の字)は国から恩を受けること厚く、宮廷内および軍事の両方の重責を負っている。今、諸君と深く敵の領土に侵攻している。まさに死力を尽くして闘うのみ。前進あって退歩なしだ。一緒に大功を立てて、国恩に報いようではないか。明君のいる王朝で爵位を得て、父母の目の前で祝杯を挙げることができるのは何と素晴らしいことではないか!」。それを聞いて、兵士たちは皆、踴躍した。退却はせず、勝利を確信して重い料理道具を叩き割り、進軍の邪魔になる食糧を捨てて、大声をだして競って突撃した。

猛陳於渭源而誓之曰:「王景略受国厚恩、任兼内外、今与諸君深入賊地、当竭力致死、有進無退、共立大功、以報国家;受爵明君之朝、称觴父母之室、不亦美乎!」衆皆踴躍、破釜棄糧、大呼競進。
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王猛の激励に兵士は皆、勇んで進軍したが、何しろ相手は大軍なので、そう易々とは打ち負かすことはできない。王猛の部下の将軍・鄧羌に破格の褒賞(司隷校尉)を約束したおかげで、鄧羌が大活躍して、みごと敵軍を打ち破っただけでなく、敵(前燕)の都・#9134;を陥落させることができた。

この時の鄧羌の行動は、日本人には見られないものだ。つまり、鄧羌は期待していた褒賞が貰えそうもないので、戦争になっても、ふてくされてヤケ酒をくらっていた。自軍が窮地に陥ったので、王猛は慌てて鄧羌のテントに駆け付けて、鄧羌の当初の希望通りの褒賞を約束をして、ようやく鄧羌が張り切り、敵軍を壊滅したのだ。

敵に勝ってから、戦場の働きに応じて褒賞を与えるという言わば「後払い」が日本での慣習とすれば、中国では「先払い」が慣習であるということが分かる。法則化・一般化できるかどうかはあまり自信はないが、人を使う場合、日本流の相互信頼関係に基づく「後払い」は中国人には機能しないと考えた方がよさそうだ。

続く。。。
コメント
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