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限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第77回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その12)』

2012-07-01 15:42:28 | 日記
『1.12  小恵はリーダーのすべきことにあらず。』

最近の日本では、人の評価において『優しい』や『気配りができる』といった面があまりにも強調されすぎているように私には思える。こういった性格は個人としてはよいかもしれないが、リーダーの資質として見る場合には、必ずしも高く評価すべきではない、というのが冷徹な中国人の見方だ。

中国の史書には中国人の考えるリーダーの資質に関して参考すべき意見が数多く載せられている。とりわけ、漢書は中国の為政者にとって必読書と言われてきた。その理由の一つが、武帝や宣帝などの賢君がでたおかげで政治・経済が安定し、名臣が多数輩出したためだ。

その名臣の一人、丙吉(へいきつ)の言動に中国人の考える国のトップリーダーとしてのあり方が伺える。

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漢書(中華書局):巻74(P.3147)

丙吉が街中を巡察していた時のこと、公道で乱闘によって多数の死傷者が横たわっている場面にでくわした。丙吉は気に掛ける様子もなくその場を通り過ぎた。家来の掾史は『何故放置しておくのだろうか?』と不思議に思った。暫くすると、牛を追い立てている者に出くわした。牛は暑さのために舌をだしてぜいぜいしていた。丙吉は自分の車を止めさせて、使いをだして、『何里、牛を追い立てて来たのか?』と尋ねさせた。掾史は、丙吉は問うべき事を間違っていると非難した。丙吉が答えていうには、『民が乱闘し死傷者がでたら、長安の長官や京兆尹が取り締まればよい。丞相としての私の役割は、年末に彼らの人事評価をして、賞罰を与えることだけだ。宰相は小事に関わらないものだ。公道の出来事などは、気に掛ける必要ではない。しかし、まだ早春で、例年ならそれほど熱い時期でもないのに牛が少し歩いただけでぜいぜい言うなら、これは異常気象だ。対処しないと作物の出来具合が大変なことになる。私の三公としての職務は陰陽の調和だから、この事態を憂慮したのだ。』家来の掾史はこれを聞いて、納得し、丙吉は抑えるべき政治のツボを知っていると思った。

丙吉又嘗出,逢清道群鬪者,死傷横道,吉過之不問,掾史獨怪之.吉前行,逢人逐牛,牛喘吐舌.吉止駐,使騎吏問:「逐牛行幾里矣?」掾史獨謂丞相前後失問,或以譏吉,吉曰:「民鬪相殺傷,長安令、京兆尹職所當禁備逐捕,歳竟丞相課其殿最,奏行賞罰而已.宰相不親小事,非所當於道路問也.方春少陽用事,未可大熱,恐牛近行用暑故喘,此時氣失節,恐有所傷害也.三公典調和陰陽,職所當憂,是以問之.」掾史乃服,以吉知大體.

丙吉、また嘗て出で,清道に群闘者の死傷し、道に横たわるにあう。吉、過ぎて問わず。掾史、独り怪しむ。吉、前に行き,人の牛を逐うにあう。牛、喘ぎ舌を吐く。吉、止どまり駐す。騎吏をして問わしむ:「牛を逐い行くこと幾里なりや?」掾史、独り丞相、前後、問を失えりといい、或は、以って吉を譏る。吉、曰く:「民、闘い相い殺傷するは,長安令、京兆尹のまさに禁備・逐捕すべきところの職なり。歳竟に、丞相、その殿最を課し,賞罰を奏行するのみ。宰相、小事に親しまず。まさに道路に問う所にあらず。方に春の少陽、事を用うに,未だ大熱すべからざるに、恐らくは牛、近行にして暑をもっての故に喘ぐ。此れ、時気、節を失えり。恐らくは傷害するところあるなり。三公、調を典どり、陰陽を和す。職のまさに憂うるところなり。ここをもって問うなり。」掾史、乃ち服し,吉をもって大体を知るとなす。
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丙吉は道路に横たわる死傷者などは処理は警察官に任せてておけばよいが、異常気象のような国民全体にかかわる問題は一国の大臣として自分が率先して対処しなければならない、と考えた。つまり、役職ごとの職務分担と職務権限を明確に分離し、宰相(大臣)としての自分の職務に専念したわけだ。

この丙吉のエピソードは単に宰相は職務に専念すべきだ、という意味合いよりも、為政者の持つべき心構えを指摘した、という風にとらえるべきだと私は考える。その意味を明確に表したのが、北魏の孝文帝の言動に対して、資治通鑑の編纂者である司馬光が与えた評価だ。

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資治通鑑(中華書局):巻138・ 齊紀4(P.4338)

孝文帝が肆州にきて、道路わきに跛(びっこ)、眇(すがめ)を見た。それで、乗り物を止めて、彼らを慰労し、生涯にわたり、衣食を与えるよう命じた。

魏主至肆州,見道路民有跛、眇者,停駕慰勞,給衣食終身。

魏主、肆州に至る。道路に民の跛、眇あるを見る。駕をとどめて慰労し、衣食を終身、給す。
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尚、上の文では跛(びっこ)や眇(すがめ)といういわゆる『差別用語』が使われているが、こういった語句の使用に関する私の意見は、下記のブログに述べてある。
【参照ブログ】
 百論簇出:(第112回目)『目に余る、単語の魔女狩り』



さて、孝文帝のこの行為に対して、胡三省は次のように批判している。

『胡三省の注』
孝文帝はたしかに恩恵を施したが、政治を知らない。目に見える範囲の人に給付したとしても見えない人に対して遍く給付できないではないか!昔の政治家は孤児や未亡人、不具者を援助する制度を整備した。そうしたら、自分の見える人だけに恩恵を施す必要などないではないか。
(此亦可謂惠而不知爲政矣。見者則給衣食,目所不見者,豈能偏給其衣食哉!古之爲政者,孤獨廢疾者皆有以養之,豈必待身親見而後養之也!)

つまり、孝文帝のこの行動は政治のトップに立つ者がすべきことではない。このような小事ではなく、社会的弱者を救済する制度づくりに励めと胡三省は指摘しているのだ。

この文の後に、孝文帝の『ヒューマニズムに溢れる』エピソードがもうひとつ語られる。

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資治通鑑(中華書局):巻138・ 齊紀4(P.4338)

大司馬で安定王の拓跋休が兵士の中で盗みを犯した者3人を捕えた。軍中を引きまわし、まさに首を刎ねようとした時、たまたま孝文帝が視察に来た。孝文帝はこの3人を赦してやれと言った。拓跋休は『ダメです。陛下は自ら大軍を率いてこれから江南を制圧されようとしているではありませんか。その矢先に盗みを働いたこれらの悪人を処罰せずして、どうしてこれから兵士を統率できましょう!』孝文帝が答えた。『貴殿のいうことはもっともだ。ただ、王者の体裁というものがあって、時には例外的な恩恵も施さないといけない。この3人は確かに死罪に相当しよう。しかし、私の目にふれたのだから、軍法に違反するとしても特例として釈放してあげて欲しい。』そして、司徒(文部大臣)の馮誕に言った。『大司馬(軍部大臣)の法の執行は厳格なので、諸君も心するように。』軍隊中がしーんと静まり返った

大司馬安定王休執軍士爲盜者三人,以徇於軍,將斬之。魏主行軍遇之,命赦之,休不可,曰:「陛下親御六師,將遠清江表,今始行至此,而小人已爲攘盜,不斬之,何以禁奸!」帝曰:「誠如卿言。然王者之體,時有非常之澤。三人罪雖應死,而因縁遇朕,雖違軍法,可特赦之。」既而謂司徒馮誕曰:「大司馬執法嚴,諸君不可不愼。」於是軍中肅然。

大司馬・安定王・休、軍士の盗をなす者三人を捕え、もって軍に徇え、まさに斬らんとす。魏主、行軍して、これに遇う。命じてこれを赦さんとす。休、不可なりとして曰く:「陛下、六師に親御し、将に遠く江表を清めんとす。今、行の始め、ここに至り、小人のすでに攘盗をなし、これを斬らざれば何をもってか奸を禁ぜん!」帝、曰く:「誠に卿の言のごとし。然るに、王者の体,時に非常の沢あり。三人の罪m死に応ずと雖も、縁に因りて朕に遇う。軍法に違うと雖も,特にこれを赦して可なり。」既にして司徒・馮誕に謂いて曰く:「大司馬の法を執ること厳なり。諸君、慎まざるべからず。」ここにおいて、軍中、粛然たり。
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現在の日本でこれら2つのエピソードを語ると、たいては、これらは孝文帝のヒューマニズムを称えるものだと考えるに違いない。しかし、資治通鑑の編集者、司馬光がこれらのエピソードを取り上げたのは別の意図であった。司馬光は資治通鑑のところどころに自分の意見を述べている箇所があるが、彼の意見は、個人的意見というより、宋代の士大夫の代表的な意見といえよう。孝文帝のこの言動がどのような評価を受けていたか、司馬光の批評に耳を傾けてみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻138・ 齊紀4(P.4338)

私、司馬光は次のように考える。『国の元首が国を治めるというのは、喩えてみれば、遠方や国境のことも自宅の庭のようにはっきりと把握でき、優秀な人を採用し、任務を与え、人民のために政治を行い、自国内で不満のないようにするようなものだ。これが、《黈塞耳,前旒蔽明》、つまり、耳と目にすだれをたらして、視覚や聴覚でなく、理性を働かせて国のすみずみまで洞察するということだ。孝文帝の行った弱者の救済は、各地方の長官に任せておくべきだ。道でであった人だけに施しをするとは、施せない人の方が多くなってしまうではないか。それが果たして仁なのだろうか?あまりにも見る範囲が狭すぎるではないか。その上、法を曲げて罪人を赦すなど、もっとも国君に相応しくない行いだ。孝文帝は北魏の賢君なのに、残念ながら、このようなつまらない言動もあったのだ。

臣光曰:「人主之於其國,譬猶一身,視遠如視庭,在境如在庭。舉賢才以任百官,修政事以利百姓,則封域之内無不得其所矣。是以先王黈塞耳,前旒蔽明,欲其廢耳目之近用,推聰明於四遠也。彼廢疾者宜養,當命有司均之於境内,今獨施於道路之所遇,則所遺者多矣。其爲仁也,不亦微乎!況赦罪人以橈有司之法,尤君之體也。惜也!孝文,魏之賢君,而猶有是乎!

臣・光、曰く:「人主の其国におけるや,たとえればなお一身のごとし。遠くを視ること庭を見るがごとし。境に在るは庭に在るがごとし。賢才を挙げ、もって百官に任じ、政事を修め、もって百姓を利すれば,則ち封域の内、その所を得ざるはなし。これをもって先王、黈、耳を塞ぎ,前旒、明を蔽う。その耳目の近用を廃し,聡明を四遠に推さんとするなり。彼の廃疾者は宜しく養うには、まさに有司に境内に均しくせんことを命ずべし。今、ひとり道路の遇う所に施せば,則ち、遺すところの者、多し。その仁たるや、また微なるかな!況わんや、罪人を赦すに有司の法を橈げるは、もっとも人君の体にあらざるなり。惜かな!孝文、魏の賢君、而してなお、是れあるかな!
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司馬光が孝文帝を非難するのは、貧民救済を制度(システム)ではなく、個人的な目の届く小さなスケールでものを考えていた点である。小さな恩恵を施すことで、孝文帝は大いなる自己満足を得たのかも知れないが、それは個人としては誉められるべき性質のものであっても、決して国のリーダーとして評価されないと司馬光は考えた。

ところで、世間ではよく『中国では、儒教の国なので、儒教精神に則って政治が行われてきた』と言われているが、私は、これは大いなる誤解だと考えている。確かに高級官僚の選抜試験(科挙)には儒教の聖典(四書五経)からの出典が多いので、彼らは儒教の本の内容は熟知している。しかし、実際の政治においては、儒教の根本思想である仁をベースとした政治では、国という大きな単位を統治することはできない、仁政とは単なる観念論に過ぎない、と彼らはとっくに承知していた。士大夫たちは実際的には、たとえ胥吏の跋扈によって、思い通りには行かなかったとはいえ、法制度を整備して、システムとして政治すべきだとの法家的見地に立っていたことは、この司馬光の批判からも分かる。政治の実態をしらず、言葉だけのうわべの理解では中国は分からない。

【参照ブログ】
 【2011年度授業】『国際人のグローバル・リテラシー(10)』

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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