『1.13 細かい点をうるさくいわないのがリーダーの器量。』
日本人で日本文化を英語で発信した人と言えば、『武士道』の新渡戸稲造や禅の鈴木大拙が挙げられる。私は個人的にはこの二人の日本文化や仏教に関する見解に必ずしも賛同しないものの、日本文化が世界に理解されることに貢献した意味では大いに評価している。
一方中国人では、林語堂(りん・ごどう)が中国文化を世界に広める役割を果たした。林語堂は、キリスト教の家庭に育ち、また幼いころから英語による教育を受けたので、中国人でありながら、中国のことをあまり知らなかったと、自著で述べている。しかし、その後、独力で中国文化を網羅的に理解し、そのエッセンスを彼独特のユーモア溢れる筆致でつつみこみ英文で世界に紹介した。
【出典】蘇東坡・赤壁の賦(国立故宮博物院)
その内の一冊、『中国=文化と思想』(講談社学術文庫・鋤柄治郎・訳)では、中国人の最も偉大な長所として『寛容』を挙げている(P.105)。彼の言う心を私なりに解釈すると、それは『磊落(鷹揚さ)』である。磊落とは、小さなことにこだわらない、包容力があり、気前がいい、ことである。この点で、宋代の政治家であり書家である蘇東坡は、筋の通った生き方もさることながら、かれの懐の広さが、今なお高い人気を保っている理由だと言う。ただ、私の蘇東坡に対する、個人的な感想を述べると、政治家としての彼は、地方の長官として、善政を敷き、地元民には慕われたが、国家規模のような大局的な視点からの経綸はもっていなかったように思われる。
リーダーが備えるべき資質としての『磊落(鷹揚さ)』の重要さは、儒教の五経の一つ、『書経』にすでに見える。『書経』の『虞書』(益稷)には舜が部下の皋陶(こうよう)に、トップ(元首)の在り方について次のように教えたと言われる。
『トップの判断が明晰であると、部下もハッピーで、物事がうまくいく。逆に、トップが細かいことにこだわると、部下は怠けて、物事がすべてダメになる。』
(元首明哉・股肱良哉・庶事康哉。。。元首叢脞哉・股肱惰哉・萬事墮哉。)
ここで、叢脞(そうざ)とは『細かいことを心配するが、大きな戦略をもっていないこと』(細砕、無大略)という意味である。
ところで、中国・南北朝の北斉に孝昭帝(高演)という君主がいた。在位こそ1年と短かったものの才徳兼備の名君と謳われた。
その精勤ぶりを見てみよう。
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資治通鑑(中華書局):巻168・陳紀2(P.5207)
孝昭帝が王晞に言うには、『貴殿は、どうして他の部下のように、私の所へあまり顔をださないのか?これからは、職責にかかわることなく意見があれば、メモ書きでもいいから持ってきてくれれば、いつでも時間を空けるから、入ってきて欲しい。』そこで、尚書の陽休之と鴻臚卿の崔晞の合わせて三人を毎日、職務が終わったあとで東廊に呼んで歴代の礼・楽や税金の制度に関して議論したり、現在の制度で実行できない理由や、過去の制度で現在は廃止されている点などを議論した。また、道徳面で現在の堕落している点や、世を惑わす言論についても詳しく調べ上げさせた。帝は朝食をすませた後はずっと政治をし、日が暮れてからようやくプライベートな時間をもった。
帝謂王晞曰:「卿何爲自同外客,略不可見?自今假非局司,但有所懷,隨宜作一牒,俟少隙,即徑進也。」因敕與尚書陽休之、鴻臚卿崔晞等三人,毎日職務罷,並入東廊,共舉録歴代禮樂、職官及田市、徴税,或不便於時而相承施用,或自古爲利而於今廢墜,或道徳高儁,久在沈淪,或巧言眩俗,妖邪害政者,悉令詳思,以漸條奏。朝晡給御食,畢景聽還。
帝、王晞に謂いて曰く:「卿、何すれぞ自ら外客と同じく,略して見えざるや?今より、仮に局司にあらざるも、但だ懐うところあらば、随いて宜しく一牒を作り、少隙を俟てば,即ち径進するなり。」因りて、尚書・陽休之、鴻臚卿・崔晞、ら三人を敕し、毎日、職務の罷るや,並びに東廊に入らしめ、共に歴代の礼楽、職官、及び田市、徴税を挙録す。あるいは時に不便にして施用を相承し、あるいは古より利たりて、今、廃墜し、あるいは道徳の高儁にして、久しく沈淪に在り,或いは巧言にして俗を眩まし、妖邪にして政を害する者、ことごとく詳思せしめ、もって漸く条奏せしむ。朝に御食を晡給し、畢景に聴還す。
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孝昭帝は若い(26歳)だけあって、理想の政治を行おうと、過去の政治制度を調べたり、立案した政策が実行できなければ、その理由を探ろうと努力した。選抜した部下と朝から晩まで、熱心に政策論議を戦わせていた。
一見、何一つ非難すべき点がないような孝昭帝の勤務ぶりではあるが、政治のトップ(元首)としてある点が足りないと指摘された。
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資治通鑑(中華書局):巻168・陳紀2(P.5207)
孝昭帝は見識と度量があったうえに、沈着機敏でもあった。幼いころから政治を見聞きしていたので、事務手続きにはくわしかった。即位してからは、一層政治に励み、歴代の悪弊を一層しようと励んだ。当時の人は、孝昭帝の聡明ぶりは認めたものの、細かい点にうるさいことを非難した。ある時、部下の裴沢に、自分のいない所でどう裴沢が答えていうには『陛下の聡明さと君主ぶりは、昔の聖人に匹敵します。しかしものの分かる人達は、陛下が細かい点にうるさいのでは、まだ元首としての徳が足りないないのではないかと言っています。』孝昭帝は苦笑いをして、『誠にあなたの言うとおりだ。今は即位したてなので、どんなことも知っておきたいのだ。だからこのように細かいことにうるさいのだ。こんなことでは長続きしないだろうが、後々に手抜かりが見つかるのが嫌だからだ。』裴沢はこのことがあってから、帝にかわいがられた。
帝識度沈敏,少居台閣,明習吏事,即位,尤自勤勵,大革顯祖之弊,時人服其明而譏其細。嘗問捨人裴澤,在外議論得失。澤率爾對曰:「陛下聡明至公,自可遠古昔;而有識之士,咸言傷細,帝王之度,頗爲未弘。」帝笑曰:「誠如卿言。朕初臨萬機,慮不周悉,故致爾耳。此事安可久行,恐後又嫌疏漏。」澤由是被寵遇。
帝、識度にして沈敏。少なきときから台閣に居りて,明らかに吏事を習う。即位し、尤も自ら勤励し、顕祖の弊を大革せんとす。時人、其明に服すも、其細は譏れり。嘗て、捨人・裴沢に、在外の議論・得失を問う。沢、率爾としてこたえて曰く:「陛下、聡明にして至公、自ら遠く古昔と(ひと)し。しかるに、有識の士,咸いは細を傷むを言う。帝王の度,頗る、いまだ弘らずとなす。」帝、笑いて曰く:「誠に卿の言のごとし。朕、初めて万機に臨み,慮い、周悉せず。故にかく致すのみ。此の事、なんぞ久しく行うべく、恐らくは後、また疏漏を嫌う。」沢、この由に寵遇をこうぶる。
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孝昭帝は落馬が原因で、在位わずか一年で急逝してしまった。名君であり、熱心に政治改革を断行していったが、細かい点にうるさいことが非難された。 24史の北齊書や北史、またそれらの文を参照した資治通鑑、いづれも同じ語句『譏其細』を挙げている。24史全体を検索したが、この語句が現れるのは、ただ、この孝昭帝の箇所だけである。
この批評を見て、昨年(2011年)の福島の原発事故の発生直後の某首相の対応を思い出した。某首相は事故の翌日さっそくヘリコプターで現地入りしたり、避難民と膝を交えて悩みを聞いたりしたことが報道された。しかし、一方では、原発事故の現場の対応に対して、しきりと細かい点について、それも的外れの、指図をしたと非難された。某首相のこれら一連の言動は、単に彼個人の資質がトップとしてふさわしくなかったというより、むしろ日本人全体に良きリーダーが備えるべきの資質に関する認識が欠落しているからではないか、と私は考える。何故なら、某首相が細かいことにうるさいことを承知しながら、一国の首相として選出したのが、国会議員であり、その国会議員を信任したのが我が日本国民であるからだ。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)
日本人で日本文化を英語で発信した人と言えば、『武士道』の新渡戸稲造や禅の鈴木大拙が挙げられる。私は個人的にはこの二人の日本文化や仏教に関する見解に必ずしも賛同しないものの、日本文化が世界に理解されることに貢献した意味では大いに評価している。
一方中国人では、林語堂(りん・ごどう)が中国文化を世界に広める役割を果たした。林語堂は、キリスト教の家庭に育ち、また幼いころから英語による教育を受けたので、中国人でありながら、中国のことをあまり知らなかったと、自著で述べている。しかし、その後、独力で中国文化を網羅的に理解し、そのエッセンスを彼独特のユーモア溢れる筆致でつつみこみ英文で世界に紹介した。
【出典】蘇東坡・赤壁の賦(国立故宮博物院)
その内の一冊、『中国=文化と思想』(講談社学術文庫・鋤柄治郎・訳)では、中国人の最も偉大な長所として『寛容』を挙げている(P.105)。彼の言う心を私なりに解釈すると、それは『磊落(鷹揚さ)』である。磊落とは、小さなことにこだわらない、包容力があり、気前がいい、ことである。この点で、宋代の政治家であり書家である蘇東坡は、筋の通った生き方もさることながら、かれの懐の広さが、今なお高い人気を保っている理由だと言う。ただ、私の蘇東坡に対する、個人的な感想を述べると、政治家としての彼は、地方の長官として、善政を敷き、地元民には慕われたが、国家規模のような大局的な視点からの経綸はもっていなかったように思われる。
リーダーが備えるべき資質としての『磊落(鷹揚さ)』の重要さは、儒教の五経の一つ、『書経』にすでに見える。『書経』の『虞書』(益稷)には舜が部下の皋陶(こうよう)に、トップ(元首)の在り方について次のように教えたと言われる。
『トップの判断が明晰であると、部下もハッピーで、物事がうまくいく。逆に、トップが細かいことにこだわると、部下は怠けて、物事がすべてダメになる。』
(元首明哉・股肱良哉・庶事康哉。。。元首叢脞哉・股肱惰哉・萬事墮哉。)
ここで、叢脞(そうざ)とは『細かいことを心配するが、大きな戦略をもっていないこと』(細砕、無大略)という意味である。
ところで、中国・南北朝の北斉に孝昭帝(高演)という君主がいた。在位こそ1年と短かったものの才徳兼備の名君と謳われた。
その精勤ぶりを見てみよう。
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資治通鑑(中華書局):巻168・陳紀2(P.5207)
孝昭帝が王晞に言うには、『貴殿は、どうして他の部下のように、私の所へあまり顔をださないのか?これからは、職責にかかわることなく意見があれば、メモ書きでもいいから持ってきてくれれば、いつでも時間を空けるから、入ってきて欲しい。』そこで、尚書の陽休之と鴻臚卿の崔晞の合わせて三人を毎日、職務が終わったあとで東廊に呼んで歴代の礼・楽や税金の制度に関して議論したり、現在の制度で実行できない理由や、過去の制度で現在は廃止されている点などを議論した。また、道徳面で現在の堕落している点や、世を惑わす言論についても詳しく調べ上げさせた。帝は朝食をすませた後はずっと政治をし、日が暮れてからようやくプライベートな時間をもった。
帝謂王晞曰:「卿何爲自同外客,略不可見?自今假非局司,但有所懷,隨宜作一牒,俟少隙,即徑進也。」因敕與尚書陽休之、鴻臚卿崔晞等三人,毎日職務罷,並入東廊,共舉録歴代禮樂、職官及田市、徴税,或不便於時而相承施用,或自古爲利而於今廢墜,或道徳高儁,久在沈淪,或巧言眩俗,妖邪害政者,悉令詳思,以漸條奏。朝晡給御食,畢景聽還。
帝、王晞に謂いて曰く:「卿、何すれぞ自ら外客と同じく,略して見えざるや?今より、仮に局司にあらざるも、但だ懐うところあらば、随いて宜しく一牒を作り、少隙を俟てば,即ち径進するなり。」因りて、尚書・陽休之、鴻臚卿・崔晞、ら三人を敕し、毎日、職務の罷るや,並びに東廊に入らしめ、共に歴代の礼楽、職官、及び田市、徴税を挙録す。あるいは時に不便にして施用を相承し、あるいは古より利たりて、今、廃墜し、あるいは道徳の高儁にして、久しく沈淪に在り,或いは巧言にして俗を眩まし、妖邪にして政を害する者、ことごとく詳思せしめ、もって漸く条奏せしむ。朝に御食を晡給し、畢景に聴還す。
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孝昭帝は若い(26歳)だけあって、理想の政治を行おうと、過去の政治制度を調べたり、立案した政策が実行できなければ、その理由を探ろうと努力した。選抜した部下と朝から晩まで、熱心に政策論議を戦わせていた。
一見、何一つ非難すべき点がないような孝昭帝の勤務ぶりではあるが、政治のトップ(元首)としてある点が足りないと指摘された。
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資治通鑑(中華書局):巻168・陳紀2(P.5207)
孝昭帝は見識と度量があったうえに、沈着機敏でもあった。幼いころから政治を見聞きしていたので、事務手続きにはくわしかった。即位してからは、一層政治に励み、歴代の悪弊を一層しようと励んだ。当時の人は、孝昭帝の聡明ぶりは認めたものの、細かい点にうるさいことを非難した。ある時、部下の裴沢に、自分のいない所でどう裴沢が答えていうには『陛下の聡明さと君主ぶりは、昔の聖人に匹敵します。しかしものの分かる人達は、陛下が細かい点にうるさいのでは、まだ元首としての徳が足りないないのではないかと言っています。』孝昭帝は苦笑いをして、『誠にあなたの言うとおりだ。今は即位したてなので、どんなことも知っておきたいのだ。だからこのように細かいことにうるさいのだ。こんなことでは長続きしないだろうが、後々に手抜かりが見つかるのが嫌だからだ。』裴沢はこのことがあってから、帝にかわいがられた。
帝識度沈敏,少居台閣,明習吏事,即位,尤自勤勵,大革顯祖之弊,時人服其明而譏其細。嘗問捨人裴澤,在外議論得失。澤率爾對曰:「陛下聡明至公,自可遠古昔;而有識之士,咸言傷細,帝王之度,頗爲未弘。」帝笑曰:「誠如卿言。朕初臨萬機,慮不周悉,故致爾耳。此事安可久行,恐後又嫌疏漏。」澤由是被寵遇。
帝、識度にして沈敏。少なきときから台閣に居りて,明らかに吏事を習う。即位し、尤も自ら勤励し、顕祖の弊を大革せんとす。時人、其明に服すも、其細は譏れり。嘗て、捨人・裴沢に、在外の議論・得失を問う。沢、率爾としてこたえて曰く:「陛下、聡明にして至公、自ら遠く古昔と(ひと)し。しかるに、有識の士,咸いは細を傷むを言う。帝王の度,頗る、いまだ弘らずとなす。」帝、笑いて曰く:「誠に卿の言のごとし。朕、初めて万機に臨み,慮い、周悉せず。故にかく致すのみ。此の事、なんぞ久しく行うべく、恐らくは後、また疏漏を嫌う。」沢、この由に寵遇をこうぶる。
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孝昭帝は落馬が原因で、在位わずか一年で急逝してしまった。名君であり、熱心に政治改革を断行していったが、細かい点にうるさいことが非難された。 24史の北齊書や北史、またそれらの文を参照した資治通鑑、いづれも同じ語句『譏其細』を挙げている。24史全体を検索したが、この語句が現れるのは、ただ、この孝昭帝の箇所だけである。
この批評を見て、昨年(2011年)の福島の原発事故の発生直後の某首相の対応を思い出した。某首相は事故の翌日さっそくヘリコプターで現地入りしたり、避難民と膝を交えて悩みを聞いたりしたことが報道された。しかし、一方では、原発事故の現場の対応に対して、しきりと細かい点について、それも的外れの、指図をしたと非難された。某首相のこれら一連の言動は、単に彼個人の資質がトップとしてふさわしくなかったというより、むしろ日本人全体に良きリーダーが備えるべきの資質に関する認識が欠落しているからではないか、と私は考える。何故なら、某首相が細かいことにうるさいことを承知しながら、一国の首相として選出したのが、国会議員であり、その国会議員を信任したのが我が日本国民であるからだ。
(目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』)