限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第79回目)『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(その14)』

2012-07-12 23:42:20 | 日記
 『1.14  勇者は矢が刺さるもひるまず。』

勇者と言えば、日本では弁慶の名が挙がる。その強い弁慶にも弱点がある。向う脛を『弁慶の泣き所』というのは、ちょうどギリシャの勇者、アキレスにも『アキレス腱』という弱点があるのに等しい。弁慶の最後は、奥州の衣川の館で藤原泰衡の軍に攻められて、体中に矢を受け仁王立ちしながら絶命したと伝えられている。

弁慶のこの話は有名ではあるが、日本の正史ともいえる大日本史の巻187には、源義経の伝記があるものの、衣川の最後はわずか一行の記述しかなく、また、弁慶も登場しない。
 閏四月晦,泰衡遣兵襲衣川,鷲尾經春等力戰死。於是,義經剌殺妻子自殺,時年三十一。

このようなそっけない記述が日本の正史の伝統であるように私には思える。一方、中国では、正史とは史実の集積であるのは勿論として、講談に近い話もかなり混じっている。つまり、宮廷の公式な記録や、高官の準公式の記録から厳密な考証を経て史実を確定する、と同時に、民間に流布するゴシップ -- これを稗史(はいし)と言う -- も、必要とあらば積極的に取り入れ、文章に臨場感を持たせようとする配慮が感じられる。

【参照ブログ】
 想溢筆翔:(第47回目)『正史にみる、中国の夫婦の関係』



今回取り上げる3つの話は、いづれもゴシップに類するもの。つまり、戦争の記述において、日時や陣営の様子や、兵士の数を記述しているのではなく、矢がハリネズミの如く刺さっても意に介さず活躍する勇者の話である。

先ずは、後に唐の第二代皇帝となる李世民が強敵の竇建徳と戦った時のこと。李世民も自ら騎馬隊を率いて戦闘に参加していた。その場面で、矢を体一面に受けながら奮迅する武将がいた。

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資治通鑑(中華書局):巻189・唐紀5(P.5915)

淮陽王・道玄が身の危険を冒して敵陣を落としいれるや、直ちに敵陣の後ろに回って、突撃し、戦果をあげて帰ってくること、再三であった。敵の矢が体に刺さってまるでハリネズミのようであったが、ますます意気盛んであった。道玄が矢を射ると、弓音に呼応して敵が倒れた。李世民は自分の添え馬を道玄に与えて常に付き従うよう命じた。

淮陽王・道玄挺身陷陳,直出其後,復突陳而歸,再入再出,飛矢集其身如蝟毛,勇氣不衰,射人,皆應弦而仆。世民給以副馬,使從己。

淮陽王・道玄、身を挺して陣を陥いれ、直ちにその後に出、復た陣を突きて帰る。再び入りて、再び出ず。飛矢、その身に集まること蝟毛のごときも、勇気、衰えず。人を射るに,皆、弦に応じて仆る。世民、給するに副馬をもってし,己に従わしむ。
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この文章の中で、『飛矢集其身如蝟毛』(飛矢、その身に集まること蝟毛のごとし)とは短い文章で状況を鮮やかに描き切っている。見事な描写力だ。

ところで、『蝟毛』(ハリネズミの毛)が矢の刺さる形容となったのは、だいたい唐以降のようだ。それ以前は、『こわごわとした鬚』とような形容句として用いられていた。また別の意味で、『蝟毛競起』『蝟毛而起』のように、一斉に蜂起する形容句として用いられていたようだ。

さて、次は徳宗が節度使の反乱のため、長安から逃げて奉天に移った時のこと、敵の兵士が周りをぐるりと取り囲む中、張韶に伝令となって奉天城に忍び込む危険な役目が与えられた。

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資治通鑑(中華書局):巻229・唐紀45(P.7375)

李懐光が、自ら蒲城から兵士を引き連れて陽に向かった。途中で、兵馬使の張韶にみすぼらしい身なりをさせて徳宗のいる行在所に援軍の到着を知らせる為に送られた。手紙を丸めてロウの球を作った。張韶が奉天に到着すると、今まさに敵が奉天城を攻めようとしているところだった。みすぼらしい恰好をみて、敵は張韶を卑しい奴だと思って他の者と一緒に濠を埋める作業場にほりこんだ。張韶は隙をみて、濠を超えて城壁の下まで行き、大声で怒鳴った。『私は、朔方軍からの使いの者です。』城の中の人はその声を聴いて、縄を下ろして張韶を引き上げた。登る途中で、敵から矢を射られて数十本ささった(が無事に上まで登りついた)。懐に持っていたロウの球から手紙を取り出して徳宗に提出した。徳宗は大いに喜び、張韶をかごに載せて城の中を一周させた。城のいたるところから歓喜の声が湧いた。

李懷光自蒲城引兵趣陽,並北山而西,先遣兵馬使張韶微服間行詣行在,藏表於蝋丸。韶至奉天,値賊方攻城,見韶,以爲賤人,驅之使與民倶填塹。韶得間,踰塹抵城下呼曰:「我朔方軍使者也。」城上人下繩引之,比登,身中數十矢,得表於衣中而進之。上大喜,舁韶以徇城,四隅歡聲如雷。

李懐光、蒲城より兵を引きて陽に赴く。北山に並び、西す。先に兵馬使・張韶に微服し間行し、行在に詣ずべく、遣わす。表を蝋丸に蔵す。韶、奉天に至る。賊のまさに城を攻めんとするにあたる。韶を見てもって賤人となす。これを駆りて民と倶に塹を填めしむ。韶、間を得て、塹を踰え、城下にいたりて呼びて曰く:「我は、朔方軍の使いの者なり。」城上の人、縄をおろしてこれを引く。登るに及び,身に数十矢あたる。表を衣中に得て、これを進む。上、大いに喜び,韶をかごかき、もって城を徇う。四隅の歓声、雷の如し。
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最後は、憲宗の時代の武人、李光顏の話である。

唐の軍は、長らく淮西で戦闘状態にあったがなかなか勝ちをおさめることができなかった。それで、憲宗は中丞の裴度に有能な将軍の探すよう命じた。裴度が戻ってきて報告して言うには、『李光顔は勇気がある上に義の人でもある。彼なら必ず功を立てることができる。』と推薦した。
 (観諸将,惟李光顔勇而知義,必能立功。)

その裴度の見立てに違わない李光顏の奮闘ぶりを見てみよう。

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資治通鑑(中華書局):巻239・唐紀55(P.7712)

李光顔が淮西軍を時曲で打ち負かしたと報告した。

淮西の兵士は朝早くから陣地を固めて布陣していたので、李光顏は中央突破することができず、柵の左右の弱い部分を衝き破って騎兵と共に突撃すること数度に及んだ。敵の兵士は李光顔の顔を見覚えて矢を集中的に射かけてきたので、李光顔はハリネズミのようになった。李光顔の息子が馬の轡をとって出撃を止めさせようとしたが、李光顔は刀を振り上げて叱った。この光景に感動した兵士たちは死にもの狂いで敵に向かったため、淮西軍の兵士たちは大慌てで逃げたが、数千人が殺された。憲宗は、裴度は人を見抜く力があると思った。

李光顏奏敗淮西兵於時曲。淮西兵晨壓其壘而陳,光顏不得出,乃自毀其柵之左右,出騎以撃之。光顏自將數騎衝其陳,出入數四,賊皆識之,矢集其身如蝟毛。其子攬轡止之,光顏舉刃叱去。於是人爭致死,淮西兵大潰,殺數千人。上以裴度爲知人。

李光顔、淮西の兵を時曲に敗れりと奏す。淮西の兵、晨にその塁を圧し陳す。光顔、出るを得ず。乃ち、自らその柵の左右を毀ち、騎を出し、もってこれを撃つ。光顔、自ら将、数騎と其陳を衝ち、出入すること数四。賊、皆これを識り、矢、その身に集まること蝟毛のごとし。その子、轡を攬りてこれを止めんとす。光顔、刃を挙げ、叱り去る。ここにおいて、人、争いて死を致す。淮西の兵、大いに潰り、数千人を殺す。上、裴度をもって人を知るとなせり。
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ところで、李懐光にしても、李光顔も日本の百科事典や日本語のWikipediaには項目の記載がない。中国のWikipedia および、百度百科には人物の紹介をしたあと、旧・新唐書の列伝の該当部分が引用されている。(ただし、諸橋の大漢和には巻6、P.111 にはそれぞれ数行程度の解説がある。)

冒頭で述べた弁慶の記述が大日本史にはほとんど無いことと比較してみると、日本と中国では歴史の重要性の認識において、隔絶しているように私には感じられる。

【参考】 大日本史に弁慶(辨慶)の出現箇所は、合計で7ヶ所。以下に、その箇所を掲載する。
[1,2] 夜路嶮,士馬不能進。義經呼武藏坊辨慶曰:「舉汝大炬。」衆未解其意,辨慶即馳縱火所在良舍,路明如畫。
[3,4,5] 。。。辨慶以下精鋭三千騎,登鉢伏峰,進至蟻戸。日既暮,徑路嶮惡不能前,乃使辨慶訪求郷導,辨慶遙詔火光趣之。見翁媼相對而坐,命翁郷導。翁曰:「吾住此山,射獵為生,諳熟攝丹山岳。今老矣,不可用。有兒頗健,堪充驅役。」辨慶乃拉其子歸見。
[6] 【○按平家物語,會日暮,暫駐軍於山中。辨慶攜一老翁至,義經曰:「何人?」曰:「此山獵者也。」
[7] 會大風暴起,舟船漂蕩,與行家相失,所從者有網及堀景光、辨慶、妾靜而已。


【出典】大日本史

目次『資治通鑑に学ぶリーダーシップ(序)』
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