Livy, History of Rome (Livius, Ab urbe condita)
(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)
ベートーヴェンに序曲『コリオラン』という曲がある。かなり劇的要素を含んでいる曲である。というのも、この曲のタイトルとなっているコリオランとは、ローマの伝説的英雄、コリオラーヌス(Coriolanus)で、悲劇的な死でその一生を終えた貴族だった。このコリオラーヌスというのは、あだなで元来はグナエウス・マルキウス(Gnaeus Marcius)と言った。しかし、BC493年にウォルスキ族の町、コリオリ(Corioli)を征服したことから、この町にちなんだ名が付けられた。日本で言うと、さしづめ乃木希典伯が『旅順将軍』と呼ばれるようなものだ。
さて、コリオラーヌスはどうやら戦争も強かったが、気が相当荒かったようだ。それがひいては彼の悲劇的死の遠因となっている。
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Book2, Section 34
ミヌキウスと、センプロニウスが執政官だったとき(BC491)ローマでは食糧難で、シシリー島から大量の小麦を輸入した。市民への販売価格をを巡って元老院が紛糾した。貴族階級に属す元老院の議員の多くは、食糧難は自分達にとって願ってもないチャンスだ。戦略的に小麦の販売価格を調整することで、平民のストライキで簒奪された貴族の権利を取り戻そうと考えた。その中でもとりわけコリオラーヌスは急先鋒で、是が非でも平民の権利保護のために設立された護民官制度をぶっつぶそうと考えて、次のように発言した。『食糧危機のこの時でもなお小麦を従来の価格で販売せよと平民が言うなら、我々だってかつての権利を全部戻してもらおうじゃないか。あたかも、捕虜にとらわれて、横木の下をくぐるという屈辱的な行為をさせられたあとようやく身代金を払って釈放されたかのように、平民の長のシキニウスに指図されないといけないのか?どうしてこれ以上我慢できようか?』
M. Minucio deinde et A. Sempronio consulibus magna vis frumenti ex Sicilia aduecta, agitatumque in senatu quanti plebi daretur. Multi venisse tempus premendae plebis putabant reciperandiqu e iura quae extorta secessione ac vi patribus essent. In primis Marcius Coriolanus, hostis tribuniciae potestatis, "si annonam" inquit, "veterem volunt, ius pristinum reddant patribus. Cur ego plebeios magistratus, cur Sicinium potentem video, sub iugum missus, tamquam ab latronibus redemptus? Egone has indignitates diutius patiar quam necesse est?
【英訳】 During the consulship of M. Minucius and A. Sempronius, a large quantity of corn was brought from Sicily, and the question was discussed in the senate at what price it should be given to the plebs. Many were of opinion that the moment had come for putting pressure on the plebeians, and recovering the rights which had been wrested from the senate through the secession and the violence which accompanied it. Foremost among these was Marcius Coriolanus, a determined foe to the tribunitian power. "If," he argued, "they want their corn at the old price, let them restore to the senate its old powers. Why, then, do I, after being sent under the yoke, ransomed as it were from brigands, see plebeian magistrates, why do I see a Sicinius in power? Am I to endure these indignities a moment longer than I can help?
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ローマは勢力が拡大し、人口が増えてくるに従って、食糧を海外から輸入しなければならなくなった。先ずは一番近くの穀倉地帯のシシリー島から、その後はエジプトや北アフリカ一帯(チュニジアなど)から大量に輸入している。最後には、数日嵐が続くと、小麦の価格が上がったとも言われているほどにアフリカからの穀物輸入にべったり依存していた。
さて、コリオラーヌスのこういった強硬な態度は当然、平民の大反発をくらうことになり、ローマ市が騒然となった。元老院は平民を宥めることができず、とうとうコリオラーヌスを民会に引き渡すこと事態の収拾を図ろうとした。
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Book2, Section 35
民会でコリオラーヌスの処分を議論する当日になって、コリオラーヌスは姿を現さなかった。欠席のまま断罪されたので、コリオラーヌスはローマをののしりながら、今までの敵であったウォルスキ族の町に亡命した。ウォルスキ族の人々は彼の亡命を歓迎した。とりわけ、彼がローマに対して恨みを言えばいうほど人気が高まった。それで彼がローマに対する恨みを口にする回数は増えた。
Ipse cum die dicta non adesset, perseveratum in ira est. Damnatus absens in Volscos exsulatum abiit, minitans patriae hostilesque iam tum spiritus gerens. Venientem Volsci benigne excepere, benigniusque in dies colebant, quo maior ira in suos eminebat crebraeque nunc querellae, nunc minae percipiebantur.
【英訳】As he did not put in an appearance on the day of trial, their resentment remained unabated, and he was condemned in his absence. He went into exile amongst the Volscians, uttering threats against his country, and even then entertaining hostile designs against it. The Volscians welcomed his arrival, and he became more popular as his resentment against his countrymen became more bitter, and his complaints and threats were more frequently heard.
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中国やギリシャ・ローマの歴史を読んでいると、しばしばここにあるコリオラーヌスのような行為に出あう。つまり、国内で政争があり、亡命しなければいけない羽目になった時、彼らはしばしば、そこまで散々にやっつけていた敵国に亡命するのである。三国志では、魏、蜀、呉の間や、匈奴と漢との間でそういう現象が見られた。一方、ギリシャではペルシャ戦争の時、ペルシャ軍を粉砕したアテネの将軍テミストクレスが、国内政争に破れたとき、ペルシャ王に庇護を求めに行っている。これだけでも私は充分に理解に苦しむのだが、それに輪をかけて理解できないのが、そういった亡命者を喜んで受け入れる敵国である。日本人的な感覚で、憎き敵将が惨めな格好でやってくるのであるから、今までの恨みを存分に晴らしたらよさそうなものなのに、とつい思ってしまう。
日本以外の国ではむしろこういった行為が妥当だと考えられていたという事実から、彼らのもつ価値観・倫理観を理解するように努めるべきであろう、と私は考える。
(英訳: "Everyman's Library", Translator: Canon Roberts, 1905)
ベートーヴェンに序曲『コリオラン』という曲がある。かなり劇的要素を含んでいる曲である。というのも、この曲のタイトルとなっているコリオランとは、ローマの伝説的英雄、コリオラーヌス(Coriolanus)で、悲劇的な死でその一生を終えた貴族だった。このコリオラーヌスというのは、あだなで元来はグナエウス・マルキウス(Gnaeus Marcius)と言った。しかし、BC493年にウォルスキ族の町、コリオリ(Corioli)を征服したことから、この町にちなんだ名が付けられた。日本で言うと、さしづめ乃木希典伯が『旅順将軍』と呼ばれるようなものだ。
さて、コリオラーヌスはどうやら戦争も強かったが、気が相当荒かったようだ。それがひいては彼の悲劇的死の遠因となっている。
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Book2, Section 34
ミヌキウスと、センプロニウスが執政官だったとき(BC491)ローマでは食糧難で、シシリー島から大量の小麦を輸入した。市民への販売価格をを巡って元老院が紛糾した。貴族階級に属す元老院の議員の多くは、食糧難は自分達にとって願ってもないチャンスだ。戦略的に小麦の販売価格を調整することで、平民のストライキで簒奪された貴族の権利を取り戻そうと考えた。その中でもとりわけコリオラーヌスは急先鋒で、是が非でも平民の権利保護のために設立された護民官制度をぶっつぶそうと考えて、次のように発言した。『食糧危機のこの時でもなお小麦を従来の価格で販売せよと平民が言うなら、我々だってかつての権利を全部戻してもらおうじゃないか。あたかも、捕虜にとらわれて、横木の下をくぐるという屈辱的な行為をさせられたあとようやく身代金を払って釈放されたかのように、平民の長のシキニウスに指図されないといけないのか?どうしてこれ以上我慢できようか?』
M. Minucio deinde et A. Sempronio consulibus magna vis frumenti ex Sicilia aduecta, agitatumque in senatu quanti plebi daretur. Multi venisse tempus premendae plebis putabant reciperandiqu e iura quae extorta secessione ac vi patribus essent. In primis Marcius Coriolanus, hostis tribuniciae potestatis, "si annonam" inquit, "veterem volunt, ius pristinum reddant patribus. Cur ego plebeios magistratus, cur Sicinium potentem video, sub iugum missus, tamquam ab latronibus redemptus? Egone has indignitates diutius patiar quam necesse est?
【英訳】 During the consulship of M. Minucius and A. Sempronius, a large quantity of corn was brought from Sicily, and the question was discussed in the senate at what price it should be given to the plebs. Many were of opinion that the moment had come for putting pressure on the plebeians, and recovering the rights which had been wrested from the senate through the secession and the violence which accompanied it. Foremost among these was Marcius Coriolanus, a determined foe to the tribunitian power. "If," he argued, "they want their corn at the old price, let them restore to the senate its old powers. Why, then, do I, after being sent under the yoke, ransomed as it were from brigands, see plebeian magistrates, why do I see a Sicinius in power? Am I to endure these indignities a moment longer than I can help?
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ローマは勢力が拡大し、人口が増えてくるに従って、食糧を海外から輸入しなければならなくなった。先ずは一番近くの穀倉地帯のシシリー島から、その後はエジプトや北アフリカ一帯(チュニジアなど)から大量に輸入している。最後には、数日嵐が続くと、小麦の価格が上がったとも言われているほどにアフリカからの穀物輸入にべったり依存していた。
さて、コリオラーヌスのこういった強硬な態度は当然、平民の大反発をくらうことになり、ローマ市が騒然となった。元老院は平民を宥めることができず、とうとうコリオラーヌスを民会に引き渡すこと事態の収拾を図ろうとした。
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Book2, Section 35
民会でコリオラーヌスの処分を議論する当日になって、コリオラーヌスは姿を現さなかった。欠席のまま断罪されたので、コリオラーヌスはローマをののしりながら、今までの敵であったウォルスキ族の町に亡命した。ウォルスキ族の人々は彼の亡命を歓迎した。とりわけ、彼がローマに対して恨みを言えばいうほど人気が高まった。それで彼がローマに対する恨みを口にする回数は増えた。
Ipse cum die dicta non adesset, perseveratum in ira est. Damnatus absens in Volscos exsulatum abiit, minitans patriae hostilesque iam tum spiritus gerens. Venientem Volsci benigne excepere, benigniusque in dies colebant, quo maior ira in suos eminebat crebraeque nunc querellae, nunc minae percipiebantur.
【英訳】As he did not put in an appearance on the day of trial, their resentment remained unabated, and he was condemned in his absence. He went into exile amongst the Volscians, uttering threats against his country, and even then entertaining hostile designs against it. The Volscians welcomed his arrival, and he became more popular as his resentment against his countrymen became more bitter, and his complaints and threats were more frequently heard.
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中国やギリシャ・ローマの歴史を読んでいると、しばしばここにあるコリオラーヌスのような行為に出あう。つまり、国内で政争があり、亡命しなければいけない羽目になった時、彼らはしばしば、そこまで散々にやっつけていた敵国に亡命するのである。三国志では、魏、蜀、呉の間や、匈奴と漢との間でそういう現象が見られた。一方、ギリシャではペルシャ戦争の時、ペルシャ軍を粉砕したアテネの将軍テミストクレスが、国内政争に破れたとき、ペルシャ王に庇護を求めに行っている。これだけでも私は充分に理解に苦しむのだが、それに輪をかけて理解できないのが、そういった亡命者を喜んで受け入れる敵国である。日本人的な感覚で、憎き敵将が惨めな格好でやってくるのであるから、今までの恨みを存分に晴らしたらよさそうなものなのに、とつい思ってしまう。
日本以外の国ではむしろこういった行為が妥当だと考えられていたという事実から、彼らのもつ価値観・倫理観を理解するように努めるべきであろう、と私は考える。