限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【麻生川語録・11】『二分割法に基づく運命観』

2009-10-09 06:47:53 | 日記
人生においては選択を迫られる場面がしばしばある。そして、いつも人は後から振り返って『あの時、別の選択をしていたらその後の人生はどう変わっていたかしら』と思うことがある。

あたかも、その時、別の選択肢も選べたように考える。しかし、結果が一通りしかない、という冷厳な事実から考えると、選択肢は複数あるように見えるだけで実はたった一つしか初めから存在していなかったのではないだろうか、と私は考える。

つまり、選択肢の分岐点では二つの道が現在と連結しているように見えて実は完全に連結しているのは、たった一本の道しかないのだ。他の道は、一見したところ現地点と連結しているように見えても、わずかだが(それは、たかだか原子1個分かもしれないが)離れている。つまり、現時点からは未来に向かっては道はまっすぐ一本しか伸びていない。



今どの本に書いてあったが思い出せないが、中国の話で、ある聡明な人が若い時に、自分の未来を観相者から告げられた。そしてその後の人生が全てその通りに運んだので、なにも努力しなくなり、落ちぶれてしまった。ある時、旅人が来て、その人が宿命にとらわれている、努力すれば直る、と説得した。その人はそれを信じて努力すると、観相者のいうことがことごとく当たらなくなった。結局、運命というものは自分で切り開くものだ、とその人は悟ったという話(寓話)だ。

私は、宿命論者でもないし、かと言って、観相という技を完全に否定しているわけでもない。私の考えは、意思あるもの(人間だけでなく、昆虫や動物も含めて)が自分の意思決定で、どの行動を取るかを決めることまであらかじめ決められている訳ではない、ということだ。つまり、宿命論者というのは、努力してもしなくても結果は変わらない、と考えるが、私はそうは考えない。運命の分岐点においてどれだけ努力するか、までが織り込み済みである、と考えている。ただ、その織り込み済みの努力代(しろ)が我々に分かっていないのだから我々自身の意思の力で決めないといけない、ということになる。
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