限りなき知の探訪

40年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第28回目)『客人よ、妻をご自由に!』

2009-10-05 06:14:45 | 日記
苦肉の策、と言えば、三国志演義の赤壁の戦いの名場面を連想する方も多いでしょう。曹操が百万と号する軍を率いてわずか数万の呉と蜀の連合軍をひねりつぶそうと意気込んで南下してきた時のことです。正攻法では勝てないと考えた呉の老将・黄蓋がわざと周瑜の怒りをかい、鞭打たれて曹操に寝返る芝居をうちます。体罰が『苦肉』といういわれです。これは物語としては面白いのですが、正史である三国志にはこの話(苦肉計)に関する記述は見当たりません。

方や、ヘロドトスの歴史にも似た話があります。紀元前六世紀、ペルシャのキュロス大王がバビロンに進軍し、二年近くも攻めあぐねていた折、家来のゾピュロス(Zopyrus)がキュロスに虐待されたとの芝居を打つ口実のため自分の鼻と耳を削ぎおとしてバビロン城内に逃げ込みまんまと敵軍の司令官におさまりました。そしてまたもや奸計を用いて全面的にバビロン市民の信用を得るや、最後にはどんでん返しで本性をみせキュロス軍を密かに市内に導きいれ、不落の要塞バビロンは陥落したのでした。このヘロドトスの話もできすぎているので多少割り引いて考える必要がありそうです。

このように洋の東西で相似の戦略は幾つかあります。皆さんもご存知のようにアレキサンダー大王はゴルディオンという町で荷車にくくりつけてある轅の紐の結び目を解くものは世界の支配者になれると聞いて、結び目を刀でたたき切ったと言われています。

一方中国では、戦国時代、斉の襄王亡き後、皇后が幼い王子の摂政をしていた時に秦の昭王から知恵の輪のようにつらなった碧玉(玉連環)を受け取りました。『これが解けるかね』という付け文があり、群臣が困惑していると、王后はえいっとばかり椎(ハンマー)でそれを叩き割り、『謹んで以って解けり』と使者に伝えたと言われています。

漢文の教科書などでおなじみの史記・刺客列伝では予譲が名せりふ『士為知己者死,女為説己者容』(士は己を知るもののために死に、女は己をよろこぶもののために容(かたち)づくる)を吐き、主君智伯の仇の趙襄子を暗殺しようとします。それというのも趙襄子は怨みつらなる智伯の首に漆を塗り溲器(おまる)にしたからです。(しかし、一説には酒杯(飲器)にしたとも言われています。)一方ローマの史家・リヴィウスによりますと、ガリア人(現在の北イタリアおよびフランスの住民)も敵将の頭蓋骨は酒杯(poculum)にしたとか。

さらに、ヘロドトスが言うにはスキタイ族(黒海およびカスピ海周辺の住民)の風習では倒した敵の頭の内側に金をはり、酒杯(pote rion)にしていたと伝えています。ちなみに、このスキタイ族はナチス同様、人間の皮膚はつやがあって良いといって、人の皮を剥いでは干してナプキンにしていたとも言います。同地方を旅行する方はくれぐれも『お肌に』気をつけて下さいよ!

さて13世紀にイタリアから中国まで往復したマルコポーロの『東方見聞録』にはこのスキタイ族の王同士の戦いが描かれています。両軍合わせて65万人もの兵士が戦場にまみえ、互いに矢の届く距離に対峙するや一斉に空に向かって矢を放ち、その為に空が見えなくなるほどであったと。その矢に当たって人馬は続々と倒れるのですが、それにも構わずともかくも箙(えびら)にあるだけの矢を射尽すと、生き残っている兵士達が突進して剣と鉾で互いに撃ち合うという、凄まじい戦いです。しかしそんな残酷な一面、この辺りの風習として、旅人を大変親切にもてなすのだそうですが、その仕方は一風変わっています。夫が見知らぬ旅人を家に連れてくると、妻に充分にもてなしをするように言いつけ、妻を家に置いたまま、『客人よ、妻をご自由に!』と言い残して外に出てしまうのです。主人はそのまま何日でも旅人が気のすむまで野宿しているのですが、旅人と残された妻はあたかもなじみの夫婦のような生活をするのだそうですって!

もっともこの地方の奇習について、フレイザーの名著『金枝篇』には、バビロンやシリアのヘリオポリスでは全ての女性は、身分に関係なく、一生に一度は神殿で見知らぬ外来の異人にその身を委ねなければならなかったと書いてあります。



時代はくだって、17世紀にフランス人ジャン・シャルダンは宝石商としてペルシャおよびインドを旅行しています。その旅行記『ペルシャ見聞記』には『ペルシャ人の風習のうち、もっとも褒むべきものは、外国人に対する情の篤さ、つまり外国人歓待と保護である。』と彼らペルシャ人のとても手厚いもてなし(ホスピタリティ)を誉めています。

また、20世紀の初頭(1905年)イギリス女性・ガートルード・ベルはシリアを訪問し『シリア縦断紀行』を書き残しています。女アラビアのロレンスと言われていた彼女もまた、イスラム人のホスピタリティに関して『浅い付き合いながら敬服の念をトルコの農民の足元に捧げたいと思う。彼らの生得の数々の美点、なかんずく人を親切にもてなす心は何にもまさるものであった』と感謝しています。そもそも彼女は語学の天才であったらしく、全く訛りのないアラビア語を話すことができたためでしょうか、至るところで、まったく面識のないシャリフ(長老)たちに大歓待されています。

このようなイスラム人のホスピタリティは近世になって急にでてきたのではなく、彼ら伝来の美風であったことは歴史を遡ってみると納得できます。

14世紀のモロッコ生れの旅行家・イブン・バツータは生まれ故郷の北アフリカから始まってアラビア・ペルシア・インドなどを経て、元末の中国にまで足かけ30年、延べ12万キロにもおよぶ大旅行をしています。その旅行記である『大旅行記』の中でメッカの住民たちは『修行者たちへの惜しみなき施しと、異邦人たちに対する温かい隣人愛(ジワール)の精神をもっている』と書いてあります。その実例として彼がトルコのラーズィクという町に入った時に見知らぬ若者たちの一団から引っ張りだことなり、くじ引きでかわるがわるの家に歓待を受け泊まったとあります。同様に、イラクのエルズルムでは泊めてもらった家を滞在二日目に出発しようとしたら『もし、汝らがそうなさるならば、わしに対して無礼ですぞ。最も短い接待でも三日間じゃからな』と咎められしまいます。

さらにはもっと遡ってアレキサンダー大王がペルシャ王ダレイウスを打ち破ってバビロンに進駐した折、当地の歓待(philoxenia)には大いに満足した、とディドロス(Didodorus)は書き残しています。今のイラク人の先祖にあたるバビロン人達は、異国軍、それも自分達の王を打ち負かしたマケドニア兵をも心から歓待したのでした。

ペルシャ人の歓待振りは旅人に対してだけでなく、『窮鳥懐入れば猟師も殺さず』 という中国の諺そのままかつての仇敵にまで及んでいます。BC5世紀、ペルシャ戦争でクセルクセス大王をさんざんにやっつけたアテネの将軍テミストクレスは戦争後国外追放され、行く場所に困り果て、遂にはクセルクセス大王の庇護を求めます。大王は自分を負かした当の本人が来たのに驚きますが、歓待の宴を設けます。その席でテミストクレスはこれから一年間ペルシャ語を学び通訳を介さずに直接大王と話ができるようになりたいと申し出ます。そして一年後、約束通りクセルクセスの前に出たテミストクレスは持ち前の弁舌と機転とで大王を虜にしてしまい、立派な屋敷と褒美をたくさんもらい余生を優雅に暮らしたと伝えられています。

現在のイランを中心としたペルシャ帝国はかつては先進国であり、優雅な雰囲気をもった文化が栄え、異国人も頻繁に行き交うなかで洗練された歓待ぶり(philoxenia)を誇っていたことが分ります。さらには、ペルシャ人は伝統的に物惜しみせずに物を施す徳を非常に高く評価していたことがギリシャ人の書いたものに良く出てきます。

私達はホスピタリティというとついヨーロッパが発祥のように錯覚しがちですが、このように歴史を遡ってみてみるとペルシャ人、およびイスラムの人達は西欧諸国以上に手厚いもてなし(ホスピタリティ)の長い伝統がある、と言ってよいように思います。

(注・本稿で紹介したペルシャ関係の本は平凡社の東洋文庫にあります。)
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