獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その20)

2024-04-14 01:39:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
■第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第5章 日本再建の方途――1940年代後半
□1)小日本主義の実現... 前途は実に洋々たり
■2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
□3)石橋「積極」財政とGHQとの対立
□4)理不尽な公職追放


2)異色の大蔵大臣... 自力更正論
1946年(昭和21)2月、湛山は戦後初の総選挙に立候補することを決意した。直接の動機は、1月4日のGHQによる衝撃的な公職追放(パージ)指令により、多くの保守的政治家が立候補資格を失い、各党ともに候補者難に陥っていたことにあったが、根本的理由は、前述のような独自の日本再建構想の実現に尽力したいと考えたからであった。つまり、この際「緊縮財政」を実施すれば、容易ならざる結果を生むので、それを阻止したいと考えたのである。かつて金解禁論争で自己の正当な見解が現実の政治に十分生かされなかった無念さ、言論活動の限界を湛山は身に染みて感じていたことも、今回の立候補と無縁ではなかったであろう。あるいは自己の深層心理に潜んでいた政治家志向が突如顕現したというべきかもしれない。
ただし今回の湛山の決意は周囲にとって一驚でしかなかった。松岡駒吉や片山哲など友人の多い社会党からの誘いを断り、あえて自由党から立候補を決意したことも湛山関係者の驚きを重ねた。実は湛山は前年11月の自由党結党以来、請われて同党の経済財政問題の顧問を務めており、党首の鳩山一郎とは懇意といえないまでも、戦時中から顔見知りの間柄であった。社会党が社会主義イデオロギーに拘束されて思想の自由を欠いているのに比して、この自由党の方が自己の主張を取り入れてくれる望みがあると判断したのである。
当初郷里山梨県からの出馬を考慮したが調整がつかず(前掲『湛山日記』3月2日には「山梨県よりの立候補はむづかしきものと判断せらる」とある――102頁)、結局湛山は東京二区から立候補した。しかし準備不足がたたり、戦後初の4月の総選挙では、2万8000票を獲得しながら、順位20位で落選となった。一方自由党は141議席を得て第一党となり、鳩山総裁の首相就任が確実視されていた。ところが日本の非軍事化・民主化を強力に推進する民政局(GS)、とくに実力者の次長ケーディス (Charles L. Kades) 大佐は、鳩山を頑迷な保守政治家とみなし、その首相就任を阻止するためパージに処した。そこで急遽、吉田茂外相が後任に選出され、5月22日、第一次吉田内閣が発足した。奇しくも湛山はこの内閣の蔵相として入閣し、戦後再建の大役を担うことになった。落選の身でありながら大臣の椅子を拾う例など世界でも稀であろう。吉田は湛山について、「平素親しく交際していたわけではなかったが、戦前から自由主義的な経済雑誌『東洋経済新報』の主宰者であったことや、“街の経済学者”として相当な見識の持ち主である」旨を聞き知っていたので、党側から湛山を蔵相に推薦してきた時は、「何の躊躇もなく」湛山に決定したと述べている(同著『回想十年』182頁)。ここに湛山は35年に及ぶ言論人時代にピリオドを打ち、政界へ転身することとなった。時に61歳、晩年での再スタートであった。

ところで戦後日本が辿った道は「吉田路線」と総称される。吉田路線の特色は、いうまでもなく経済優先主義と軽武装主義にあり、この基本枠では湛山と吉田との間に相違がない。それ以外にも湛山と吉田とは奇妙に符合する点がある。一つは、もし日本が敗戦というかつてない国難に直面しなかったならば、おそらく両者とも戦後政治の表舞台に登場することなく、平穏な余生を送ったであろう。ところが日本の敗北が二人をそれぞれ言論界、官界から政界へと導き、素人政治家として国政に参画させた。もう一つ共通するのは、多くの日本人が降伏と降伏後の混乱によって自暴自棄に陥り、ともすれば事大主義が横行する社会風潮の中で、この両者の強烈な個性が例外的に主体性を貫いたことである。

ただし二人は、第一に、政治家のタイプとしてはかなり異なっていた。湛山はそもそも言論人であると同時に思想家であり、それゆえ自己の見解を明確に前面へと押し出す「理想先行型」(ゾレン型)政治家であった。これに対して吉田は、元来外務官僚であり、権謀術数を含めた外交上のノウハウを知悉する人物であり、現実をリアルに認識して対処する「現実重視型」(ザイン型)政治家であった。この相違がのちに占領軍への基本姿勢の差となって現われる。また経済重視・軽武装の路線では、両者は一致していたとはいえ、湛山の場合、“自力更生”を基軸としていた。つまり占領軍に頼らず、極力日本自身の力で自己改革に着手すべきであると考えていた。その背後には、自らは戦時中もリベラリストとして軍部、右翼たちと戦ってきたとの自負心があり、もう一方では、占領されていることは事実であるとしても、アメリカに全面的に国家改造を委ねることは新日本建設のための真の改革とはならないという彼の理念、いわば生真面目さがあり、加えて、アメリカは占領改革に失敗すれば帰国するだけだとの対米不信感もあった。とすれば、連合国側からみた湛山は、日本の敗北を敗北として完全に認めていない国家主義者(ナショナリスト)に映ったであろう。
実際、日本文化史研究の権威として名高いサー・ジョージ・サンソム (Sir George B. Sansom) は、46年1月25日付の日記に湛山との会見について次のように記述している。「『オリエンタル・エコノミスト』誌の荒廃した事務所で、主幹石橋湛山と、ジュネーブに長くいた鮎沢巌に会い、食事をともにした。二人は日本の犯した大失敗と罪業を、第一に大失敗、第二に罪業という順序で認め、敗戦への帰結を受け入れながらも、占領政策には批判的である。広範な知識人階級の典型と思われるこれら二人は、私見によれば、その根底は反白色人種主義者である(以下略)」(岡本俊平「『湛山研究』発表とアメリカ学界の反響」)。
一方吉田は、連合国側に対しては「まな板の鯉」の心境であると同時に、戦争の負けを外交で取り返すとの基本姿勢を持ち、時には面従腹背、弱者の恐喝も辞さず、アメリカ政府や占領軍の力を徹底的に利用して日本の改革を進める方針であった。しかし湛山の立場からすれば、これは他力本願、アメリカ本願と映った。かつて元老伊藤博文が「袞竜(こんりょう)の袖に隠れて勝手なことをした、明治天皇を利用した」と非難されたように、吉田はその語学力を生かして連合国最高司令官マッカーサー (Douglas MacArthur) 元帥に取り入り、彼の権威を最大限活用し、その外圧を内圧に 転化して自己の政治的足場を固めようとしているだけではないか、それは非民主的手法であって、新日本にはふさわしくないと考えるに至った。逆に吉田からすれば、「長い物には巻かれろという。負けは負けとして潔く認め、書生みたいな生硬なことは言わずに、もっと占領軍に協力してくれ」となった。要するに、二人はともに明治人的ナショナリズムが旺盛であり、国家再建の目標で一致しながらも、目標達成に向けての基本姿勢に大きな開きがあった。ここに両者が離反する主原因があった。

第二に、右記の相違性の根底には、両者の政治理念の差異があったといえる。吉田はイギリス風の貴族的自由主義者であって、反ファシズムの立場の親英米論者であり、政党を重視せず、世論やマスコミをさほど信用していなかった。また吉田は治者の学ともいうべき儒教倫理を強く持っており、賢者と愚者、為政者と一般大衆とは風と草の関係、つまり「風が吹けば草はなびかねばならない」と理解していた。そして熱烈な皇室崇拝者であり、「臣茂」を名乗って憚らなかった。他方の湛山は庶民的自由主義者であって、再三指摘したように、明治末期から個人主義と自由主義の確立を社会に広く訴え続け、政党中心の議会制民主主義や普通選挙制度確立に意を砕いた進歩的言論人・思想家であった。また湛山には吉田のような天皇制に対する信奉の精神は見られず、単にプラグマティックな観点から天皇ならびに天皇制を評価したにすぎなかった。総じて吉田の政治手法は、湛山がかつて批判の矢を向けた秘密主義と権威主義に基づく官僚政治、非民主的な寡頭政治そのものであった。

そのほか社会主義・共産主義イデオロギーに関しても、湛山は吉田のような反共一点張りという頑なな姿勢はなく、むしろ資本主義も社会主義も、自由主義も共産主義も、国民生活の向上や社会発展を志向する点で大差はなく、もしも社会主義・共産主義思想の中に人類の利益に供する利点があれば、我が方も摂取すればよい、何も恐れる必要はないなど、きわめて実利的かつ柔軟な発想を示していた。それは当然ながら、冷戦下のソ連や中国など共産主義陣営に対する両者の外交的アプローチの差となっていく。
以上のような戦後に処する基本姿勢の相違や政治理念の差異が、当時の混沌とした政治情勢と複雑に絡み合って、湛山と吉田との間に確執をもたらしていくわけであるが、それと並行して、湛山は経済財政問題をめぐりGHQとも摩擦を生んでいく。

 

 


解説
5月22日、第一次吉田内閣が発足した。奇しくも湛山はこの内閣の蔵相として入閣し、戦後再建の大役を担うことになった。

このようにして、湛山は戦後の経済危機を救うために大蔵大臣として腕をふるうことになるのでした。

 


獅子風蓮