獅子風蓮のつぶやきブログ

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増田弘『石橋湛山』を読む。(その15)

2024-04-05 01:41:34 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
■第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
□第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第3章 中国革命の躍動――1920年代
□1)小日本主義
□2)満州放棄論
□3)ワシントン会議...一切を捨てる覚悟
■4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
□5)山東出兵...田中サーベル外交は無用
□6)北伐完成後の満蒙問題... 危険な満蒙独立論

 


4)中国ナショナリズム運動... 「支那」を尊敬すべし
細谷千博教授は、ワシントン体制の特質を、①日米英3大国の協調システム、②3大国の中国支配・従属システム、③革命国ソビエトの排除システムと規定し、しかも同体制が「中国民族運動への対応」と「日本の要求する満蒙権益問題の処理」を曖昧化していたため、1920年代に、(1)ソビエト革命外交、 (2)中国ナショナリズム、(3)日本の軍部・右翼を中心とする反ワシントン体制派の相次ぐ挑戦を受け、満州事変の勃発によってこの体制は事実上崩壊すると論じている(細谷千博・斎藤真編『ワシントン体制と日米関係』3~39頁)。
翻って湛山は、①の日米英協調体制の確立を高く評価しながらも、②および③は断じて容認できなかった(なお③については経済貿易上の観点から日ソ国交正常化促進論を掲げた。『全集④』第一部Ⅲおよび『全集⑤』第一部Ⅲを参照)。なぜなら、第一に、「日英米の中国支配・従属」という特質は、列国が旧来の植民地形態を残存させており、それは中国の門戸開放原則と矛盾しているからであり、第二に、日本を含む列強が中国ナショナリズムの本質を正当に認識していない以上、中国問題の真の解決にはほど遠かったからである。それどころか日本の在満蒙権益問題に列国があえてメスを入れず、根本的解決を回避したことは、将来に危険をはらむものであった。湛山の見地からすれば、会議後の日本の対中国外交は、前記4原則に加えて、①満蒙利権のほかすべての在華権益の放棄、②不平等条約の破棄、③民族自決主義の尊重とナショナリズム運動への全面的支持、をその要諦としなければならなかった。
では具体的に湛山はどのような対中国論を提起したのか。まず国際政治の中心がイギリスからアメリカへと移ったこと、対中国外交でもアメリカがイギリスに取って代るであろうことを根本的変化と分析し、満蒙開放問題が再び起こって日米関係を揺るがすであろうと予測した(1923年2月24日号社説「外交立直しの根本観念」『全集④』)。また「五・四運動」以降、1920年代を通じて中国ナショナリズム運動が一段と強まり、対外的には国権回収、対内的には国家統一に向けて大きなうねりを生じた際も、湛山の対中国認識に少しも変化がみられなかった。つまり湛山は、彼らの革命運動と民族主義を「支那国民、就中其若い人々の国民的自覚に根ざせる運動」と規定し、終始肯定した。そして将来における中国の国家統一の可能性に触れ、「(その達成は)唯だ此勃興し来れる国民的自覚を代表するに足る英雄に依ってである。 外国の力は如何に巧妙に働かさるるとも、其代りはなさない。残念ながら、我等は其英雄の現るるまで、暫く成行に任せる外はない」と英雄待望論を説いた(6月23日号小評論「支那は何うなる」ほか『全集⑤』)。ちなみに蒋介石による南北統一は、この論説から5年後に実現する。
反面、湛山は北方における軍閥間の抗争を嫌悪し、日本のいわゆる援張政策(張作霖を援助する政策)に反対した。たとえば1924年(大正13)9月に第二次奉直戦争(張作霖の率いる奉天派と直隷派との戦争)が発生した際、「我所謂特殊の権利利益を擁護する為めには、張作霖を倒してはならぬと云うが如き考えが、若し少しでもあるとするなら、支那の動乱は、いつまで経っても治るまい。他の国が、若し孰れかの一派の尻を推しているなら、推させて置くが宜い。支那は所詮支那人の支那だ」との所見を明らかにした(10月4日号時事非時事「卒業証書の販売」ほか『全集⑤』)。
そうした中で、湛山がいわば曙光を見出したのが中国共産党であった。湛山は1923年(同12)に同党が発刊した『対於時局之主張」を、「一読の価値がある」と高く評価し、とくに北洋軍閥と列強の打破のみが中国救済の唯一の道であるとの主張や、外国に頼らず自力に頼り民主的勢力のみが今日の時局を救うとの主張を好評した上で、「中国共産党と云うものは、何れほどの党か知らぬ。併し其説く所には、聴くべき節が多い。……斯様の主張をなすものの支那に存在することは、無視してならぬ」と指摘した(8月4日号小評論「中国共産党」ほか『全集⑤』)。中華人民共和国の成立は四半世紀後であるが、湛山が創立間もない共産党の将来を予見したことは注目に値しよう。
さて同年3月、中国政府が日華条約(いわゆる21ヵ条条約)の廃棄を通告し、日中関係が緊張した。この時日本側では、中国の要求を一顧の価値なしと認め、中国膺懲(ようちょう)論が唱えられた。湛山はこのような日本側の対応について、「此問題は、決して左様に簡単には片付かぬ。之は今後相当長期間、日支間の、或は世界の、懸案として我国を支那を又世界を悩ますのではあるまいか」と論じた。ちなみに大隈内閣によって21カ条要求がなされた際、日本のジャーナリズムでは『新報』一誌が終始反対の論陣を張り、その一連の社説執筆者が湛山であった事実を想起しなければならない。湛山は「多くの人が、一種の熱病に襲れ、理性を失っていた」、「我政府は余りに欲をかき過ぎた、無理を推し過ぎた、其報いが今日来ておる」と当時を回顧した。それゆえ、湛山が中国国民の自尊心を傷つける日華条約の即時廃棄と日本政府の対中国外交の転換を求めたことはいうまでもない(3月31日号~4月28日号社説「所謂対支二十一個条要求の歴史と将来」『全集④』)。
また同年5月、日本政府が「対支文化事務局官制」を発布したことに関して湛山は、わが政府や議会は「此の名前で、支那人の歓心をつろうとしたのであろうが、それは策略としても全然逆の考えである。……対支政策の根本は、先ず支那国民を尊敬するにある……先ず日本人自らの反省こそ肝要だ」(5月12日号小評論「対支文化事業」ほか『全集⑤』)と反対の意思を表明した。ところで国内では1924年(同13)に第二次護憲運動が盛り上がり、6月に加藤高明を首班とする護憲三派内閣が成立し、幣原喜重郎が外相に就任した。折しもアメリカではいわゆる「排日移民法」が成立し、日本世論はこの措置に激昂、対米開戦論さえ唱えられるほど険悪な様相を呈した。湛山は同法の成立に関し、アメリカの姿勢を「大人気」ないと批判しながらも、それ以上に日本の主張がはなはだ利己的であると論じ(4月26日号社説「米国は不遜日本は卑屈」『全集⑤』)て、日本人に反省を求めた。結局幣原は対米協調路線を堅持する必要上、移民問題をあくまでアメリカの内政問題として処理し、事態は漸次鎮静化された。しかし同法が実施されたことはその後の日米関係に暗影を投じ、軍部・右翼などの間で反ワシントン体制の気運を高めた。一方、中国北方では軍閥間の混戦状態が続いていたが、南方では孫文死去後に蒋介石が頭角を現わして国民革命軍総司令に就任し、1926年(同15)7月、国家統一に向けて北伐を開始した。北伐軍は快進撃を続け、揚子江流域に達した同年末から翌27年(昭和2)初め、漢口、 九江のイギリス租界を武力回収して世界を驚かせた。湛山はこの事態を「東洋の国際関係を根本的に変化すべき重大なる事件」と考察すると同時に、事実上既定方針の転換を謳ったイギリス外相の声明(いわゆるクリスマス・メッセージ)を重視した。 そして今回の事件を単に「労農露国(ソ連)の赤化運動」の影響としか理解しない国内世論に対して、「仮令(たとい)如何に露国が宣伝煽動をなすと雖も、支那の民衆にしてそこまで燃上る素地を有せなければ、何うして彼の根強き利権回収が起り得よう。露国の共産主義は、或は南方支那国民運動に多少の油をそそぐ役目はなしたかも知れぬが、併し火は、もともと燃えていた」と反駁した。
それゆえ、「大体に於て幣原外相の現在の対支態度を可」と評価しながらも、「更に一歩進めて、一切旧条約などには拘束せられず、全く白紙の上に改めて新時代の実勢に応じた」対中国外交を展開するよう求めた(2月5日号時評「白紙の上に対支外交を展開せよ」『全集⑤』)。
同様に湛山は、世界に衝撃を与えた3月の南京事件(北伐軍による外国人殺傷事件)に際しても、「国民と国民との交際は永遠にて、支那の混乱は一時である。我国民は深く此点を省慮して悔を将来に残さざるを要する」と論じ(4月16日号時評「支那を侮るべからず」『全集⑤』)、中国への強硬策を唱える日本の世論と大きな相違を示した。もう一つ、この時期に湛山は、「中華民国自身の自覚と発達」によってもはや中国では諸列強が利権を争う余地はなくなった、それどころか列強は以後次第に既得利権を中国側に返還しなければならない時期に入ったとの見解を表明した(2月26日号社説「我国は軍備撤廃の方針を以て進むべし」『全集⑤』)。要するに、中国側の国権回収運動の正当性を認めたばかりでなく、近い将来、列強が中国からの撤退を余儀なくされると予想し、もはや中国をめぐる日米対決の構図が失われたとの判断に達したわけである。その意味で、1927年(同2)春は、湛山の中国認識上の重要な転換点となった。

 


解説
南京事件(北伐軍による外国人殺傷事件)に際しても、「国民と国民との交際は永遠にて、支那の混乱は一時である。我国民は深く此点を省慮して悔を将来に残さざるを要する」と論じ、中国への強硬策を唱える日本の世論と大きな相違を示した。もう一つ、この時期に湛山は、「中華民国自身の自覚と発達」によってもはや中国では諸列強が利権を争う余地はなくなった、それどころか列強は以後次第に既得利権を中国側に返還しなければならない時期に入ったとの見解を表明した

石橋湛山、慧眼というべきでしょう。

 

獅子風蓮