獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その26)

2024-04-29 01:05:51 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
□3)日中貿易促進論
■4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生

 


4)鳩山内閣通産大臣

鳩山政権が誕生した場合、湛山は経済財政政策の要である蔵相就任を自他ともに認めていた。しかし閣僚人事では湛山に通産相が割り振られる結果となった。この間、鳩山派内部では三木・河野が台頭著しい岸信介と提携を深めつつあり、次第に湛山と疎隔する政治状況を生じていたのである。吉田内閣の打倒に邁進し、鳩山政権成立に功績のあった湛山の処遇としては、明らかに配慮を欠いた人事ともいえたが、他面、現実の権力政治に対する湛山の淡泊な気質にも問題があった。またアメリカ政府が石橋財政を嫌ったことも、湛山起用を困難とした一因であった。1954年(昭和29)12月8日の『朝日新聞』夕刊は、「対共産圏接近を懸念、米『短期、鳩山内閣』を予想」との見出しを掲げ、懸念材料として「鳩山自身の右顧左眄型の性格」、「重光外交の意識的な反吉田性」、「反米的な石橋財政」を挙げ、「万一、石橋財政が出現するとすれば米国として非常に困難な立場に立たされるであろう」と報じている。加えて、日本の経済界にも石橋積極財政を不安視する向きもあった(『同』同月11日)し、湛山では資金不足に陥っていた鳩山派の財源を潤すことができないとの判断もあったと伝えられている。
以上の諸要因により、鳩山や三木はあえて本命視されていた湛山を蔵相人事から外し、日銀総裁の一万田尚登に白羽の矢を立てたわけである。こうして湛山は信じて疑わなかった蔵相のポストを得られず、不本意ながら通産相を受諾せざるをえなかった。したがって鳩山内閣期の湛山は、政権中枢から一定の距離を置くことになったが、通産相として対共産圏問題、とりわけ日中関係の改善に尽力したことは特記されなければならない。
さて鳩山新内閣は、日米協調関係を維持すると同時に、中ソ両国との関係改善を積極的に推進する基本方針を掲げた。対米自主外交の確立と、中ソとの国交正常化達成とは表裏一体化しており、鳩山首相が共産圏との国交回復によって吉田外交との相違性を際立たせようとしたことは明白であった。世論はこのような新政権の基本姿勢を歓迎したが、アメリカ側からは直ちに反発を招いた。翌55年(同30)1月、ダレスは、鳩山首相や重光葵外相が繰り返し強調する、中ソ両国との通商関係促進およびソ連との国交正常化は、アメリカ政府の対日援助計画に支障を来す懸念がある、と牽制した(樋渡由美著『戦後政治と日米関係』119~20頁)。アメリカ側の厳しい対日態度を前にして、重光は「中共を国府とともに二つの独立国として認める意向は少しもない」と鳩山の発言を否定する(『朝日新聞』1月16日夕刊)など、早くも日本政府の外交方針に矛盾が生じた。
とはいえ、鳩山発言以来、国内の貿易業者の間では「中共行きのバスに乗り遅れるな」といった合言葉が流行し、中小の商社ばかりか、従来アメリカや台湾を恐れて躊躇していた大商社も本腰を入れはじめた。そのため中ソ貿易推進の窓口である国貿促には、連日、これら業者が押し掛けて混雑する有様となった。まさに国貿促は「中共ブームに乗ってわが世の春」をうたうほどとなった。また中国貿易の実績でも、1954年(同29)に日本の輸出が2000万ドル弱、輸入が4000万ドル強に達し、1953年(同28)に比べて輸出が4倍強の増加をみせた。しかも第三次日中民間貿易協定の交渉のため中国から使節団が来日することが決定し、第二次協定覚書に規定された「貿易代表部」設置問題がにわかに脚光を浴びることとなった。中国側は鳩山内閣成立を好機ととらえ、日本との国交正常化の実現を企図したのであるが、日本側は「政経分離の原則」を堅持する態度を示すなど、両国政府の交渉に臨む基本姿勢には相当なギャップが存在していた。
ところで湛山は、1955年(同30)2月下旬に実施された鳩山政権下初の総選挙 (第二七回衆議院総選挙)でトップ当選し、第二次鳩山内閣でも通産相として留任したが、その直後の記者会見で、「中共貿易は進めるが、政治的にも経済的にも問題があるから、あまり多くを期待するのは危険である」と慎重論を述べた。実はこの時期、来日したアメリカ政府高官や駐日米大使館から、日中貿易に関連した非公式の警告が発せられ、日本政府は業界に注意を促さざるをえなかった(『同』3月6日)。しかし国貿促が第三次協定締結という大問題に主要な役割を担っている以上、その成立以来深く関わる湛山が背後から国貿促を支援しないはずがなかった。しかも今次の日中交渉は鳩山内閣の外交方針を占う試金石でもあり、湛山がこの点に十分留意していたことはいうまでもなかった。
3月末、雷任民(中国国際貿易促進委員会首席代理・対外貿易部副部長)を団長とする中国通商使節団の一行が来日した。新中国からは前年秋の李徳全一行に次ぐ二番目の訪日団であるが、30名を超える大規模な通商使節団を迎えるのは異例であった。こうして日中交渉は友好と親善を基礎とする和やかな雰囲気の中で開始されたものの、やはり日本側は政経分離の観点から、現実の制限の範囲内で貿易量を最大限に伸ばそうとしたのに対し、中国側は「輸出制限の突破」という政治的問題をむしろ主要目標としたため、双方のズレが明確となった。具体的には、通商代表部の相互設置、輸出入商品の分類、決済方式の三問題で、交渉はとうとう暗礁に乗り上げた。中国側は決済問題で両国通貨による直接決済方式を要求し、また通商代表部については相互設置を強く主張し、しかも政府代表もしくはそれに準ずる権限に固執した。これに対して日本側は決済での政府保証を困難とし、通商代表部については民間貿易代表の交換を提案したのである。唯一合意できたのは、双方の商品見本市を開催することだけであった(『同』4月15日)。
湛山が表舞台に登場したのはそうした折であった。4月、湛山は東京芝の八芳園での中国通商使節団歓迎昼食会に出席し、雷らと懇談したのである。これは中国使節団が来日して以来、日本政府閣僚との初の会談であったばかりでなく、戦後日本の現職閣僚としては初の中国要人との接触でもあった。湛山は、「現在のところ日本政府としては貿易協定を結ぶことはできないが、中国側も日本の立場をよく理解して、日本のやりやすいようにしてくれることが日中両国のためになる」との意見を中国側に述べておいた、と語った。交渉の前途が不確定であった時点で湛山が雷と懇談したこと自体、中国側に希望をもたせたに違いなかった(『同』同月16日および国貿促相談役平井博二氏の証言)。
一方、鳩山は揺れ動いていた。鳩山自身は政府間協定を望んでいたが、最後の大詰め段階で重光を通じてアメリカの意向がこれに猛反対であることを知らされ、断念せざるをえなくなった。このとき湛山はアメリカ政府の意向を無視せよと進言したという(前掲『日中戦後関係史』15~6頁および平井氏の証言)。ついに鳩山内閣は石橋・高碕達之助経済審議庁(現経済企画庁)長官ら積極派と、重光らの消極派とに二分される事態となった。その後の日ソ交渉をめぐる党内分裂の、いわば前哨戦的性格をもったともいえる。ここで日中議員連盟の池田正之輔代議士が仲介役を果たすことになった。結局4月末、池田・鳩山間で鳩山首相が日本側代表に第三次協定への「支持と協力」を表明し、この内容を文書化する形式を取るとの妥協が図られたのである。
5月、「第三次日中民間貿易協定」が調印され、貿易総額片道3000万ポンド(8400万ドル=約30〇億円)としたほか、決済方法の改善、双方の見本市の開催、通商代表部の設置、さらに政府間協定の締結が初めて協定本文に規定されるなど画期的内容となった(外務省中国課監修『日中関係基本資料集』83~7ページ参照)。 通商代表部の規定が政府代表か民間代表か明確さを欠いたとはいえ、この協定によって両国が日中国交回復に向けて第一歩を踏み出したことは間違いなかった。
以降、湛山はココムの対中国禁輸緩和に努める(『朝日新聞』8月19日、10月6日)とともに、中国からの大豆輸入を促進したり、また台湾側が中国貿易に携わった日本商社に対して取引停止をすると、これに厳重に抗議するなど尽力した(『同』6月3日)。さらに11月の「日中輸出入組合」設立や、翌56年(同31)秋に行なわれた北京、上海の日本商品見本市でも支援した。湛山は、同年6月25日の『日本経済新聞』に掲載された論文「日中貿易を促進せよ」(『全集⑭』)で次のような論点を提起している。

(1)中国は日本の必要とする原材料の供給源として、また日本製品の市場として古くから大切な地域であった。このような歴史からみても、日中経済関係の緊密化は、今後も日本の方針として避けられないし、またそれは中国にとっても同じく利益になる。
(2)冷戦により日中間の経済交通が著しく妨げられていることは遺憾である。東西両陣営の抗争が早急に解消できるように努力したい。それには日中両国が経済・文化交流の回復に努力することが必要である。
(3)西側諸国は日本の対中国貿易の推進に疑惑を持つが、日中貿易の増進は、日本が政治的、思想的に共産陣営と同調することを意味しない。両国の経済関係の存続は日本の産業界にとって死活問題であり、政府としてもこの切実な要求を無視できない。しかも現在日本の経済的存立を保つ上で、東南アジア、中南米、中近東諸国は中国に代替するに足りない。また西欧諸国はガット三五条を援用して日本との貿易に差別待遇を与えているし、米国でさえ日本商品をボイコットする動きが盛んである。このような欧米諸国の状態は、日本政府を非常に困難な地位に追い込み、中国貿易促進の世論を激化させている。
(4)中国側は、日本を共産化するために経済・文化交流関係を利用しないよう厳に注意してもらいたい。日本としてはココムの輸出制限の緩和、解除を深く希望しているが、かかる協定が存する限り、日本としてはこれに従っていく覚悟であることを了解してもらいたい。貿易代表の交換についても、まだ国交回復のない現状では日本駐在の代表者に外交官特権待遇を与えられないが、通商上の便宜を極力与えたい。今後は国貿促や日中貿易促進議員連盟の協力も得ながら、日中輸出入組合で貿易協定その他の一切を処理し、従来よりも一層実際的な貿易促進措置が行なわれるものと期待している。

当時の保守党要人の中で、湛山ほどの明確な対中国態度を持っていた人物は見当らず、このような政治姿勢が、日中関係正常化を期待する世論の間で、次第に湛山待望論を生むことになる。

 


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮