獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

増田弘『石橋湛山』を読む。(その25)

2024-04-28 01:38:45 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想には、私も賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

そこで、石橋湛山の人生と思想について、私なりの視点から調べてみました。

まずは、定番というべきこの本から。

増田弘『石橋湛山』(中公新書、1995.05)

目次)
□はじめに
□第1章 幼年・少年・青年期
□第2章 リベラリズムの高揚
□第3章 中国革命の躍動
□第4章 暗黒の時代
□第5章 日本再建の方途
■第6章 政権の中枢へ
□第7章 世界平和の実現を目指して
□おわりに


第6章 政権の中枢へ――1950年代
□1)朝鮮戦争勃発と第三次大戦防止論
□2)政界復帰と吉田政権打倒の闘争
■3)日中貿易促進論
□4)鳩山内閣通産大臣
□5)奇跡の石橋内閣... 哲人宰相の誕生


3)日中貿易促進論

戦後の日本経済は、敗戦までに壊滅的打撃を被り、しかも失業者の増大と食糧危機の進行、物不足によるインフレによって破綻寸前の状態にあった。この窮状から脱するため、生産回復・不況克服の切札として関心を集めたのが日中貿易であった。というのも戦前における日本の対中国貿易は、輸出全体の約2割強を占め、また輸入も1割を超えるなど、有力な市場であったからである。日中貿易再開の動きは中華人民共和国誕生直前の1949年(昭和24)春から日本側にあり、野党や労組、学者や文化人などを中心に「中日貿易促進会」、また超党派の国会議員三百余名による「中日貿易促進議員連盟」が相次いで結成され、軽金属や農産物を主体とする日中貿易が再スタートを切った。ところが翌50年(同25)6月25日に発生した朝鮮戦争が東アジア情勢を極度に悪化させ、しかも晩秋には米中両軍が交戦する事態へと進んだため、年末に日中貿易は停止を余儀なくされるに至った。
さて湛山は、冷戦の出現により世界的な自由貿易システムが阻害され、しかも日本にとって死活的な対中国貿易がさまざまな制約を受ける現状を首肯できなかった。また朝鮮戦争が第三次世界大戦へと発展する危険性についても憂慮せざるをえなかった。それゆえ、1951年(同26)7月に朝鮮休戦交渉が開始されると、湛山は、アメリカによる中国封鎖政策が多少緩和され、日中貿易も漸次回復の方向へと進むのではないかとの期待を抱いた。しかし根本的には自由主義陣営と共産主義陣営との対立が解消されなければ、世界の安定は実現せず、各国間の貿易も自由には行なわれないとの認識を示し、二度の世界大戦の結果が明示するとおり、戦争は両陣営にとって何の利益もない、と持説を繰り返した。同時に、ソ連の秘密主義を批判し、ソ連の実情が良いとわかれば、世界は黙っていてもソ連の真似をする、そのためにもソ連は鉄のカーテンを開くべきだ、となれば第三次世界大戦の危機も去る、と主張した(7月21日号~28日号「日本再建の方途」『全集⑭』)。
1952年(同27)初頭、前参議院議員(緑風会のち社会党)の帆足計が湛山を訪ね、4月に開催されるモスクワ国際経済会議に出席したい意向を伝えて協力を求めた。当時アメリカ政府は、ソ連陣営がこの国際会議をテコに巻返しを図るものとみなして警戒を強めていた。これに対して湛山は、モスクワ会議を肯定的にとらえ、帆足の支援を決意した。ドムニッキー (A. Domnitsky) ソ連通商代表と会見し、経済界の村田省蔵(大阪商船会長)や北村徳太郎(親和銀行頭取のち衆議院議員[改進党])と協議したのち、1月末に「国際経済懇話会」を結成した(「湛山日記」『自由思想』第六号所収41~2頁)。この懇話会には、村田、平塚常次郎(日魯漁業社長のち衆議院議員[自由党])、安川第五郎(安川電機会長)、風見章(衆議院議員[社会党])、帆足などが参画し、対共産圏貿易の拡大だけでなく、日中関係の正常化まで視野に入れた超党派的組織であった(古川万太郎著『日中戦後関係史』36~8頁)。
しかし帆足ら代表団をモスクワへ派遣するとの懇話会の方針は、アメリカの意向を深慮する日本政府により阻止された。外務省がビザの発行を認めなかったのである。湛山は、「あそこ(モスクワ)に行ってすぐに効果があるとは思わない、効果はないだろうけれども、……この目でソ連も見たいし、帰りには中共にも寄れるという話もあったのだから、特に中共の、北京だけでも見て、向うの人と話してみたいという考えを持っていたんだ。(中ソとの貿易はまだ機が熟していないが)、もしソ連なり、中共なりが貿易関係を日本と、そのほかの国と結ぼうというならそういう不安を持たせないようにしなければ、やはりだめなんだ」と述べて政府の方針を批判した(「日本経済の臨床報告」『文芸春秋』同年6月号)。
やむなく湛山らは、3月、会議への参加断念を決定したが、4月、帆足、宮腰喜助(改進党)、高良(こうら)とみ(緑風会)の3政治家が密かにモスクワ入りし、高良が日本代表として会議参加を果たし、総額2億ドル以上の契約が成立するなどの成果があった(『毎日新聞』4月14日夕刊)。また三者は、帰路、日本の政治家として初めて新中国に入り、6月に北京で「第一次日中民間貿易協定」を調印し、日本国内に衝撃を与えた。すでに国内では通商の自主性回復とともに、対中国貿易政策を再検討すべしとの声が高まっており、しかも不況にあえぐ業界では、景気の突破策として日中貿易の再建を渇望する気運が強まっていた。
他方、中国側でも、モスクワ会議によって生じた新情勢と朝鮮休戦の見通しにより、対日貿易政策を転換しようとする動きがあった。たとえばアメリカの対中国禁輸措置に対抗して中国は輸入先行のバーター貿易を原則としてきたが、これを取り止め、香港ドルや英ポンドなどによる現金決済方式を認めるとか、日本商船の上海、天津、広東などへの入港を認める等の措置である(『毎日新聞』5月11日)。このような日中双方の国内事情からして、今回の日中民間貿易協定はタイミング良く締結されたといえる。湛山自身も、この新局面を歓迎したであろうことは疑問の余地がない。湛山ら懇話会グループとしては、このような地道な努力を重ねて日中・日ソ両関係を改善するとともに、吉田政権の対米一辺倒路線の軌道修正を促し、日本外交を自主独立の方向へと導くことを意図していた。
1953年(同28)1月、アメリカでアイゼンハワー (Dwight D. Eisenhower) 共和党政権が誕生し、対日講和の推進者であるダレスが国務長官に就任した。また3月、ソ連のスターリンが死去すると、にわかに朝鮮休戦の動きが生じ、7月、休戦協定が調印された。戦争の終結は極東に再び平和をもたらしたものの、ドッジ・ラインの苦渋から逃れ、経済復興のきっかけを得たばかりの日本の経済界にとって、年間8億ドルという膨大な朝鮮特需を失うことは大きな痛手であった。となれば、経済界は日中貿易によりその空白を埋める可能性を考慮せざるをえなかったが、徹底した反共主義を掲げるダレスが日本の中国接近を容易に認めるはずがなかった。事実、5月、難局の末に第五次吉田内閣が成立すると、ダレスはこれを歓迎する一方、「日本は中共との貿易なしでも海外に広大な市場があるから結構やっていける」と言明し、日本の対中国貿易の拡大気運を牽制した。吉田首相も国会で、日中貿易に大きく期待できない旨答弁し、アメリカ側と歩調を合わせた。
ここでアメリカ側は「MSA援助」という切札を日本側に提示した。MSA援助とは、「相互安全保障法」に基づく軍事、経済、技術を総合化した対外援助であり、被援助国には自国の防衛力強化の義務が課せられた。日米両国政府にとってMSA援助は、朝鮮特需後に経済復興の希望を託すものであったばかりでなく、日中貿易を渇望する日本の経済界を宥め、ひいては日本の中ソ接近をも遠ざける狙いもあった。こうして日中貿易の拡大と、MSA援助の受諾とは相反関係に立つことになった。つまりその二者択一は、吉田側の「親米路線」か、鳩山側の「自主独立路線」か、社会党など野党の「反米路線」か、といった政治路線をめぐる対立へと転化する様相を呈した。しかもこの時期、国内では占領体制からの解放感も手伝って、内灘事件など米軍基地問題が相次ぎ発生し、反米感情が高まったことも火に油を注ぐ役割を果たした。では湛山はこれにどう対応したのか。
概して湛山のアメリカ外交に関する評価は辛かった。湛山は、村田省蔵らとの座談会で、アメリカの共産圏諸国への態度は英仏と違って「狭量」であり、しかも「日本にきてもアメリカからこれだけ慈善を施しておるのに、アメリカのいうことを聞かぬのは怪しからんという」とその対日姿勢を批判した。また「封じ込め政策」についても、それは両陣営ともに損をする、その中で最も被害を受けているのは日本人だ、日本はこのままではやっていけない、またこの政策は中共をますますソ連側へ追いやることになる、との村田の見解とほとんど同一であった。村田はさらに、アメリカが日本に対して中国の代りに東南アジアとの貿易を促している点について、「日本としては東南アジアも、支那も両方とも貿易しなければやっていけない。(吉田首相のように)支那とやっても大したものではないというのは、開発されない支那の時分の話で、これからどんどん開発されれば、支那というものは大きな市場だ」と発言しているが、懇話会以来の湛山と村田との関係からすれば、この点も両者の共通認識であったといえる(『新報』1952年5月3日号、33~9頁)。
また湛山は、「米国の諸君に、その対日占領政策が史上に例なき寛大なものであったなどという独りよがりの考えをやめてもらいたい……。こういうところに実は反米感情を刺激する元がある」、「民主主義も、押しつけたのでは民主主義であるまい……私は米国が日本を民主化しようと意図したことが間違っていたとは思わない。だが、その米国自身は実は決して民主主義に徹底していなかったことに間違いがあった」とアメリカの占領時代の誤謬を突いた。そして日本人の反米感情が激化した点について、基地とか演習地の問題は大した事ではなく、重視すべきはアメリカ側の思想であり、「世界の強者であり、富者であり、勝者である米国の態度こそ、これを良くも悪くも導く力だ」と説いた(論文「反米感情発生の理由」『中央公論』1953年11月号『全集⑭』)。
このように、湛山は日中貿易の拡大を力で抑止しようとするアメリカの対日姿勢に反省を促し、また日米政府間で交渉を進めつつあるMSA援助がいわゆるヒモ付きであれば「反米感情は猛然とあおられるであろう」と牽制したのである。再軍備に消極的な吉田派にとって、MSA援助は軍事援助としてではなく、経済復興を助ける特需の代替物でしかなかったのに対して、改進党や鳩山自由党がこの援助受け入れに賛成したのは、MSA援助によって日本の軍隊を増加させ、米軍撤退と自主防衛を実現する好機となるとの判断があった。とすれば、湛山の立場は日本の自律性に重点を置き、MSA援助に依存せずに日中貿易拡大を目指す点で、吉田路線とも鳩山自由党の見地とも明確なズレを示していよう。
さて湛山は、1954年(同29)9月22日に「日本国際貿易促進協会」(いわゆる国貿促)の結成に関与することにより、日中関係改善への自己の政治的立場を一層明確にした。同協会設立の推進者が湛山をはじめ、村田、平塚、北村らの懇話会グループであったことはいうまでもない。彼らは対中貿易の拡大を意図して懇話会を結成したものの、現実にはココムおよびチンコムが障害となって貿易が伸びず、そこで国際貿易促進のための政策提言グループを作り、さらに企業を参加させて、実際の活動を活性化させようとしたわけである。こうして国貿促が設立され、初代会長には村田が就任した。しかも前年10月に「第二次日中民間貿易協定」が締結され、その覚書は相互に通商代表部の設置を実現する旨を規定していた。中国側は政経不可分の原則に依拠した「積み上げ方式」によって、日本との国交正常化の実現を企図していた。したがって国貿促は、実務面から、日中経済貿易関係の正常化を促す役割を担ったといえる。
すでに朝鮮戦争は休戦となり、インドシナ休戦協定も成立(1954年7月)して世界的な緊張緩和ムードが漂っていたし、国内でも日中・日ソ国交回復への期待が高まりつつあった。そうした折、長期に及んだ吉田政権が崩壊し、鳩山内閣が成立した。 そして湛山が通産相として日中貿易の陣頭指揮に当たることになったのである。


解説
あらためて湛山の慧眼に敬意を表します。


獅子風蓮